13.エリーゼのために

2/4
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/168ページ
病院のロビーでは、キーボードとアンプが設置され、着々とコンサートの準備が進んでいた。先程ナースステーションにいた榎本先生もいつの間にか準備を手伝っている。あと5分で開演。そこへ、涙目の咲苗が走ってやって来たのが見え、片野が呼びかける。 「咲苗ちゃん、どうしたの?」 「ん?ううん。なんでもないよ。もうすぐだね、本番。楽しみだなぁ」 片野は、咲苗が無理矢理明るく振る舞ってる感じが気になった。明らかに目に涙が溜まっているのに。でも、まもなく開演なので、気持ちを切り替えなければならない。一緒に練習を付き合ってくれた咲苗に恥じないように、しっかりとした演奏を披露しようと心に決めた。 いよいよ開演。緊張で震える手でゆっくりと車椅子を漕ぎ、キーボードへと向かう。深呼吸をした後、肩の力を抜いて、丁寧に指を鍵盤に置く。ロビーには、医師や看護師、患者達も続々と見に来ていて、お見舞いに来ていた人も立ち止まって聴いている。気がついたらロビーの人口密度が高くなり、40人以上は集まっていた。 片野の指は、動きやすくなっていて、リハビリの成果が出ていた。キーボードで強弱を付けるのは難しいが、力の加減もうまく調節し、抑揚も表現できるようになっていた。滑らかに流れていくような音色が心地よく、身体を揺らしながら聴いてる人もちらほらいる。咲苗は片野の頑張りを側で見て来ていたため、感動して涙が幾度となく流れた。 ベートーヴェン作曲の『エリーゼのために』は、色々な説があるが、ピアノの教え子テレーゼに向けて作った曲だとも言われている。ベートーヴェンとテレーゼの恋は、結局実らなかったのだが、2人が親しかったのは確かである。それはまるで、自分と咲苗のことのようだと気持ちを重ねながら演奏する。目の前で涙を流しながら聴いてくれている咲苗の姿を横目で感じながら、今までの感謝の気持ちを表現しようとだんだん後半につれて疲れてきた指を一生懸命動かす。そして、最後の1音を鳴らし終えた時、身体は温かくて汗をかいていた。練習の成果を充分に出し切ることができた! 満足な表情で膝に手を置き、しばらくしてから会場のみんなに礼をすると、盛大な拍手に包まれた。その拍手喝采の光景に感動し、目をキラキラ輝かせる片野は、満面の笑みで会場をしばらく見渡した後、舞台袖へと車椅子を漕いでいった。 片野の母親は、心底驚いていた。去年演奏した『ふるさと』よりも演奏力はもちろん、指の動きが格段に良くなっていたからだ。お見舞いに来た時にたまに練習をしている姿を見かけてはいたが、仕事が忙しく長い時間は滞在していなかったので、正直彼の努力を知らなかった。多発性硬化症により筋力が低下していたはずなのに、ここまで器用に滑らかな動きや強い音までもが出せるようになるなんて、かなりの努力と練習を積み重ねたのだろうと感じた。そして、ここまでの動きができるようになったという成長も嬉しくなって、涙が溢れた。
/168ページ

最初のコメントを投稿しよう!