14.忘れない

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14.忘れない

さっきまで演奏ステージと化していた賑やかなロビーはコンサートが終わったら一気に静かな空間になり、いつもの待合室に戻った。 コンサートを終えた片野は、満足感と達成感でキラキラしている。次は咲苗の努力の成果を発揮する時間だ。喉の手術を終えたら、片野のキーボードに合わせて『ふるさと』を歌うという目標を掲げていた咲苗は、手術が終わって毎日榎本先生の指導の元、発声練習だけでなく、喉の筋肉を鍛える訓練や嚥下の訓練をしてきた。アドバイスを飲み込むのは比較的早い方で、榎本先生に言われた課題もしっかりこなしてきたのだから、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせる。 しかし、いざ片野の伴奏が始まると、一気に緊張してきて、変に力が入ってしまい、うまく声を出せなかった。最初の歌詞の1音目から、カスッカスの声になってしまい、音を取ることもしんどい状態だった。 片野は、これまでの咲苗の努力を見ているからこそ、なぜ声が出ないのか不思議で堪らなかった。でも、声が出なくて落ち込む咲苗にどう声をかけてあげたらいいのか、頭を抱えた。もしかしたら、自分が咲苗を無理させてしまったのかもしれないという申し訳なさの気持ちも出てきて、無理に歌わなくてもいい、そういう気持ちになった。しかしながら、咲苗は落ち込みながらも、深呼吸して焦らず声を出そうと何度も試み、なんとか歌おうとしていた。すると、ずっと思い出せなかった、幼い頃に拓真に言われたアドバイスをやっと思い出した。 「大きな声を出そうと思うんじゃなくて、歌を伝えたい、届けたいと思うと声が響くようになるよ。音楽は、気持ちと繋がってるんだよ!」 そうだ!伝えたい、届けたい気持ちが大切なんだ。声が出ないのは、焦っていたからかもしれない。戦友が転院してしまうという焦りと、見事な演奏をされて自分の最近の演奏の迷いを実感した焦りとが、声に出てしまっていたのだと気付いた。 今は焦らず、この10日間のありがとうの気持ちを伝えよう、届けよう!そう思った途端、肩の力がスッと抜けた感じがした。喉を締め付けるような筋肉の硬直も、次第に柔らかくなってきている感覚がある。今ならしっかり響かせられるかもしれない。 ゆっくりと深呼吸をした後、片野が伴奏する準備をしているのを気付かずに声を出した。それは少し掠れた声ではあるが、前よりは響きがある声だったので、片野は途中から伴奏を弾くということなく、邪魔をしてはいけないと、あえてアカペラで歌わせることにした。 ゆっくり唇を動かし、歌詞の言葉一つ一つを丁寧に音へと乗せていく。先程よりも緊張が解れて穏やかな表情で、口角が上がっている。拓真と一緒に帰っていたあの頃も、『ふるさと』を歌ったことがあったなと思い出し、懐かしくなった。 「何かを思い出してたのかな?とても楽しそうだったよ」 片野は分かっていた。この歌声を届けるべき人が誰なのかを。でも先にその歌声を独り占めできたことが嬉しかった。優越感に浸りたかった。明日転院してしまったら、もうこの人と会うことは、もしかしたらもうないかもしれない。こうやって今のうちにこの幸せな時間を噛み締めておこう。そんな2人の姿を榎本先生は少し遠くの方で優しく見守っていて、咲苗の歌が終わると、微笑んでリハビリ室へと戻った。 「きっと、この日をずっと忘れない。本当にありがとう。咲苗ちゃんと過ごせて楽しかったよ」 そう言って満面の笑みで、咲苗を見つめると、瞼に溜めた涙が夕陽で反射していたから、いつも以上に大きな瞳がキラキラ輝いて見え、彼女がとても美しく見えたのであった。
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