14.忘れない

3/3
前へ
/207ページ
次へ
いよいよ片野の転院の日がやって来た。 「約16年間、佑磨が大変お世話になりました。ありがとうございました。色々ご迷惑をおかけしましてすみませんでした」 「先生たち、色々わがままし放題な俺に、優しくて、フレンドリーに話しかけてくれて、手術のたびに大丈夫だって励ましてくれて、この病院で良かった。転院先でもしっかり頑張ってくるよ!」 片野とその母が、正面玄関にて病院関係者のみんなへ挨拶をしている。その光景を病室の窓から咲苗は見つめていた。 「いつかまた会おうね」 そう言って病室を出る前に優しく腕で包み込んでくれた温もりの余韻がまだ残っている。驚きもあったが嬉しかったのだ。 「私も、忘れないよ」 病室の窓越しの片野に向かってもう一度呟く。それが届いたのか届いてないのかは分からないが、片野がこちらを向いて手を振ってきた。咲苗も懸命に手を振る。2人共笑顔でありがとうと呟きながら。 その30分後、咲苗は主治医の佐山先生に呼ばれた。 「術後良好なので、3日後の検査も良ければ退院になります。この調子で、リハビリ頑張りましょう!」 思いがけない退院の知らせに驚いた。このままいけば、中間試験に間に合う。試験勉強はしていないが、受けることに意味がある。ウィーンの大学を卒業したら日本に帰るという香織との約束を守るために、本年度に必ず卒業できるように頑張ろうと改めて決意をする。 その固い決意の甲斐もあってか、榎本先生の喉の筋肉トレーニングや、発声訓練、嚥下訓練をしっかりとこなし、普段の話し声は発音も聞き取りやすく、もうすっかり違和感がなくなっていた。 「樹下さん、『ふるさと』を声を出して歌えるようになってましたね!あともう少し練習すればもっと声が出るようになる!すごく飲み込みが早くてびっくりしました。仲原も声が出るようになったことを喜んでましたよ」 「えみちゃんに会ったんですか?」 「昨日連絡する用事があって、樹下さんのことを伝えたんです。退院のことも昨日決定してたから話したんです。あ、明日来られるそうですよ」 「えっ!?明日ですか!嬉しいです」 「仲原にも、歌を披露してみてはどうですか?訓練の成果を見せるいい機会だと思います」 「でも、人前で歌うと緊張しちゃって…」 「昨日の感じでいいんですよ。肩の力を抜いて、リラックスして楽しむ!」 「そうですね!楽しみます」 にっこりと笑う榎本先生は、厳しいと有名だが、飴と鞭を器用に使い分ける素敵な先生だと思う。患者の気持ちを第一に考慮して、訓練プログラムを一緒に作り上げてくれる榎本先生だからこそ、無理なく訓練を進めることができた。まさか中間試験に間に合うとは思わず、早めにウィーンに帰れる嬉しさと日本をまた離れてしまう寂しさで複雑な感情になった。 病室に戻ると、隣にいた片野がいなくて、とても広く感じ、虚しくなった。リハビリ室から戻ったら必ず榎本先生どうだった?今日も厳しかった?などと聞いてきて、お互いの訓練の話をするのが日課だったから、今日の榎本先生はとても優しくて穏やかだったよと話したくても相手がいない。 「片野くん、もう転院先の病院に着いた頃かな…」 空いたベッドに向けて独り言を言う。片野の存在が大きかったことに改めて気付いた瞬間だった。
/207ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加