16.同じ月を見ている

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しばらく図書館にいた咲苗は沢山の楽譜を借りて満足した。マリーと別れた後、少し散歩して帰ろうといつもの道と違う道を通り、青々とした草が生い茂る広場に出た。昨晩の雨が嘘のように、今夜の空は明るい。白や赤っぽい星もよく見えるし、黄金色の月も丸く温かく輝いていた。 「今日の月は綺麗に見える。パンケーキのように美味しそうなふっくらとした月」 咲苗は、その月を見て、吹奏楽部の3年生みんなでキャンプをすることになった日のことを思い出した。その頃みんな受験前でピリピリしていたが、たまには息抜きも大切だということで企画された。この日は受験のことを忘れてバーベキューをしたり、川でお魚を釣ったり、キャンプファイヤーをしたり、テントで話したりして、思い切り楽しんだ。その夜、空を見上げると、星一つ一つが彩り明るく輝いていて、まるでプラネタリウムのような世界だった。美味しそうに丸く膨らんでいる黄金色の月も大きく見える。その幻想的な世界に感動して、咲苗は涙を流した。その隣には拓真や香織たちもいた。ウィーンという目標が山のように高く険しい道だと感じていたが、広大な空を見ているうちに、自分が小さなことに悩んでいたのだと考えるようになり、その険しい道に向かって前を向いて進もうと決めた日だった。 「そうだ!難しい曲をテクニックを使って上手く弾こうと思うんじゃなくて、好きな曲を楽しんで、自分なりの音楽を伝えよう、届けよう」 この考えに至ってから、肩の力が抜けて見事にいい結果を生み、ウィーン留学という夢を叶えることができた。あの時のように、もっと音楽を楽しんで、ウィーンで学んだ成果を発揮させよう。そして、堂々と卒業をして日本に戻ろう。ようやく悩みから解放され、意を決した面持ちに変わった。 その時だった。月の光が一瞬明るくなったように感じた。まるでその決意を応援しているかのように。その温かい光の残像に想いを馳せる。 「たくちゃん達もこの月見てるかな。みんなそれぞれの場所で頑張ってるんだ。私も悔いのないように頑張ろう」 しっかりとした足取りでピアノ科のみんなが待つ建物へと戻って行く。 同じ頃、転院先の病室の窓から空を眺める片野。まだ手術の傷が少し痛むのに、また近日、内視鏡手術があると聞いて、心がどんよりと曇っていた。 「あー。すごい雨だな、こりゃあ。窓の外何も見えない」 退屈そうに次から次へと窓にくっつく雨粒を指でなぞる。ベッドテーブルに無造作に置いてあるキーボードを手に取り、何かを弾いてみようとするも、気分が乗らない。 「咲苗ちゃん、今頃ウィーンでピアノ頑張ってるのかな。ウィーンも雨降ってるのかな」 なんとなくの記憶をたよりに『虹の彼方に』を弾く。この曲は、小学校2年生の学習発表会で鍵盤ハーモニカを使って演奏した。これが最後に参加した学習発表会だった。翌年から多発性硬化症で入院生活が始まってしまい、小学校に行けなくなってしまったのだった。 「もっと学校に行きたかったな。咲苗ちゃんや拓真くんのような同級生ともっと話してみたかった」 窓の外から見えるランドセルを背負っている男の子とその母親が傘一つで濡れながら帰って行く姿を見た後、空を見ると、さっきよりもどんよりとした黒い雲が一面に広がっていた。
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