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しばらくすると、さっきまでの豪雨がやみ、空はすっかり明るくなって、月も輝いていた。
「今日は満月だったのか。なんかパンケーキみたいで美味しそうだな」
「腹減ったの?」
「あいつが、よく月を見て言ってたんだ」
その美味しそうな月に見惚れて立ち止まって空をぼーっと見上げていると、咲苗の声が聞こえてきたような気がした。
「どうしても寂しくなったら月を見て。世界のどこにいても同じ月を見てるってことだから。空は繋がってるんだよ。そう考えると、それぞれの場所で頑張ってるんだって力が湧いて来る気がしない?」
これは、受験前最後の練習の時にウィーンに行ってしまうのが寂しいと嘆いた拓真に咲苗が伝えた言葉だ。咲苗こそ、日本から離れて慣れない土地に行くという不安や寂しさがあっただろうに、この言葉が出て来る咲苗はとても心が強い人なんだなと感じた瞬間だった。そして自然と呟いた。
「今どうしてるかな。会いたいな」
「幼馴染みくんのことか?」
「くん?あぁ、幼馴染みさんのことだよ。香織の親友でもあるんだ。今、遠くの土地で頑張ってるんだよ」
翔太は、勝手に幼馴染みを男性と思い込んでいたので、ピアノを教えてもらうほどの仲の幼馴染みの女性がいることに驚いた。綺麗な人かな?もしかしてタイプかな?と気になったが、想いを馳せる拓真が慈愛のこもった目で月を見つめていたので、どんな人なのかと聞くことはできなかった。
その頃、ウィーンでは雨が降り始めた。咲苗は、指のリハビリをしようと寮にある練習室のピアノの椅子に座って、その雨音を聴いていた。そして、ショパン作曲の『雨だれ』を奏でた。中学2年生で初めて出場したショパンコンクールの予選で弾いた曲である。どうやったら優しく美しい音を出せるだろうかと自分の音色を研究し、試行錯誤の結果、なんとか自分なりに透明感を追求した音を生み出すことができた。それを、拓真にとても綺麗な音だと褒められ、自分も真似して弾いてみたい、教えてくださいと言われてびっくりした思い出がある。この曲を弾くと、純粋に音楽を楽しんでいた原点の頃に帰ることができる気がした。ウィーンに行ってから忘れかけていた「音楽を楽しむ」ということ。必死にみんなについていこうと技術やスキルを磨くことに集中したあまり、指が思うようにまめらなくなってイライラして、指に無理な力が入り、大きく負担をかけてしまうという悪循環が生まれていたのだと気付く。そして雨空を見ながら思いを馳せる。
「さなのピアノって優しくて芯があって透明感もある綺麗な音だよね。どうやったらそんな音が出せるの?」
当時中学2年生の拓真にそう言われた音を思い出そうとするも、現在その音を奏でられなくなっている自分に虚しくなる。
「あの頃のような音色をもう一度奏でたい」
そう思うが、筋力が少しずつ衰えてきている指を見つめ、溜め息をつく。片野が練習の積み重ねによって指の細かい動きを日に日にできるようになっていったように、自分もできるだろうか。とにかくやってみるしかないと、ハノンやツェルニーという指の運動が書いてある楽譜を広げ、基礎的な練習に励むことにした。
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