天使堕天使

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 202X年。  宇宙の僅かな歪みが、そのほんの一部である地球にも少なくない影響を及ぼした。現実と空想の境目が曖昧になった新世界で、これまでありえなかった現象が日常を生活を、浸食するようになったのだ。  空から落ちてきた天使がどれほどの損傷を地上の物体に与えるか、ご存知だろうか。  天使の身体は人間より遥かに軽いらしい。そして重力に逆らう力も持つのだろう。そこに、固有の翼がもたらす浮力も加わり……詳しい理屈や計算はさておき、会社員・久慈梗一(くじきょういち)三十歳によると、天使一体が頭上に落下した場合、その衝撃は、直径約二十センチメートル重量約四百グラムの球体が時速六十キロで飛んできたのとほぼ同等ということだった(ちなみに、彼は高校時代、校庭内でサッカー部員が放ったシュートボールを 頭部に喰らった経験がある)。  うららかな秋晴れの下、あと一歩で脳震盪というところを、なんとか道路に膝をつくまでのダメージで収めた梗一は、すぐ近くに布面積のはんぱない白一色の衣を纏った人物が倒れているのを視認した。梗一がその人の様子を確認しようと近寄ってみれば、彼の人の背中からは白く大きな翼らしきものがのびており、頭部は見事な金の巻き毛覆われていた。そして、その頭上には眩く光る黄金の輪。彼はまるで天使であった。  公共の路上である。そしてまだまだ夏の暑さの名残りが淀む九月。繁華街の駅前でもない。十月末でも年末近くでもない。コスプレイベントとは縁が薄いこの時期この場所に古典絵画から抜け出たかのようなその扮装には違和感しかなかった。  だが、相手が何者であれ、それが人間らしき形をしていて尚且つ道路に倒れているのであれば取り敢えず意識の有無の確認が最優先だ。不用意に揺り動かすのは危険だろうと、梗一は端の方だけ朱が差した白皙の耳に向かって呼びかけた 「あのー、大丈夫ですか!?」  金の睫毛に飾られた瞼は、二、三度痙攣した後に開かれた。露わになった碧い瞳は真っすぐに梗一に向けられ、その下の血の色の透けた唇は問いを零した。 「ここは……地獄?」  梗一が答えることはならなかった。この世が多くの人々にとっては生き地獄に他ならない現実を、まるで無垢な姿の相手に告げることができなかったから……などという理由ではなく、単純に答えようとした次の瞬間、地面から来た何者かに容赦なくに突き飛ばされていたからだった。後に、その時の衝撃は直径約二十センチメートル重量約グラ250グラムの球体が時速百キロで飛んできたのとほぼ同等だったと梗一の口からかたられたのだった。 (ちなみに、彼は高校時代、体育館でバレーボール部員が放ったサーブポールを臀部に喰らった経験がある)。  じんじんと痛む自らの尻をさすりながら、梗一が痛みの原因となったと思われる路上に横たわった物体を確認すると、それはまたしても人型であった。 だが、それは未だ近くで倒れ込んだままの白っぽい人物とは対照的に、全体が黒っぽい存在であった。  梗一はのそりと中腰で、新たに現れた人物に近寄った。黒衣を纏ったその人物は背中からは蝙蝠の様な翼が現われ、艶のあるうねる漆黒の髪の間からは山羊のような立派な角が二本突き出していた。彼はまるで悪魔であった。 「あのぅ、」  梗一の呼びかけに応えてか、長い睫毛が満に生えそろった目は突然見開かれた。本来白目である部分が黒く、黒目部分が赤く染まった毒々しい視線が一直線に梗一に注がれた。 「ここは……天国か?」  碧と赤二対の瞳は他の何処でも何でも誰でもなく、梗一にのみに向けられた。脳みそよりも先に面倒事の気配を感じ取った梗一の胃袋が、キュウッと縮こまった。  ほんの数十分前だ。休日の昼下がり、食料品の買い足しに近所のスーパーへと自宅から出掛けたのは。その時、出先でまさか自分が天使と悪魔にほぼ同時に遭遇するなんてことが果たして想像できただろうか。  梗一は現在、公園のベンチにて天使と悪魔とに挟まれ座っていた。右隣の天使の手にはミネラルウォーター、左隣の悪魔の手にはブラックコーヒー、そして梗一の手にはスマートフォンが握られていた。  困りごとに直面した現代人が一にすること、それは検索だ。ついでに二にも三にも四にも検索である。『天使』『悪魔』『落下』『通報』『落下物 行政 対応』『外来生物 保護』。キーワードを入れては検索結果を二、三ページ参照し、また新たなキーワードを入力し直し組み替えては検索にかける、を何度も繰り返した。  梗一が一心にスマートフォンを操作し見つめている間、天使は背筋をぴんと伸ばした正しい姿勢で座り、澄んだ大きな目を見開いてひたすらに前方を直視していた。一方悪魔のほうは極端な猫背でかがみ込み、隣に座る梗一の手元を無遠慮に覗き込んでいた。 「厄介払いの方法は見つかった?」  梗一の作業のお終わる気配がないのに待ち飽きたのだろう、八重歯を大きくしたような鋭い牙を覗かせ、悪魔が上目遣いで睨んできた。  人間ではない謎の存在に、誤魔化しなどは効かないだろかもしれない。梗一はスマートフォンを膝に伏せると、正直に本音を漏らした。 「いいえ」 「厄介?貴方、なにか困っていることがあるのですか?」 「おれらのことだよ」  徐に口を挟んできた天使に悪魔が呆れてみせた。  そのやりとりには構わず、梗一は続けた。半分以上はほぼ独り言、愚痴でしかなかった。 「色々調べてはみたんですけど、天使や悪魔を引き渡せる――…保護してくれる専用の私設なんてものはないみたいです。保健所も人っぽい形のは管轄ではなさそうで」 「……お前、そこそこ善人面してる癖して考え方若干サイコ味あるな」  悪魔が口の端を引き攣らせた。梗一は悪魔にそんな顔をさせた自分に少しの悪寒を感じないでもなかった。
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