ツバキ病

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 推しが、私の腕に落ちてきた。 「すいません……」  それは、ハロウィンを次の日に控えた、肌寒い夜のことだった。飲料水売り場の整理を行っていた私は、その声に振り返った。 「はい」  飲料水の並ぶ棚から溢れる冷風が私を冷たくさせるから、私は一刻も早くこの場を離れたい気持ちでいっぱいだった。  振り返った先には、一人の男性が立っていた。 「あの……傷口に塗るやつ」 「え?」  彼は、赤いマフラーを巻いていた。首どころか鼻の辺りまで隠すマフラーの向こうから声が発せられた所為で、私は彼の言葉を一度聞き逃してしまう。 「傷口に……塗る……ジェルみたいな……」  棚から吹く冷風の、不快な音の中から彼の言葉を拾って、私は「ああ」とぶっきらぼうに返事をした。 「軟膏ですね、只今お持ちします」  もう早く帰りたい一心で、場所を案内するのでさえ面倒だった。説明するだけでも良かったのだが、見つからなくて戻ってこられては二度手間だ。  今日は土曜日、明日は録り溜めていた、推しの出ているドラマを観るのだ。それだけのために、今日までの一週間頑張ってきたのだ。  無難な値段の軟膏を手に飲料水売り場に戻ると、彼はまだそこに立っていた。ぶるぶると、小刻みに震えていた。  私は、売り場の寒さにやられているのかと思った。暑いジャケットを羽織っているし、中にも沢山着込んでいる様子だった。 「こちらでいかがでしょう?」 「す……すぐ効きますか……」  消え入りそうな声で、彼は言った。 「塗ってから一日ほど様子を見てください。何かありましたら、またご相談にいらしてください」  マニュアル通りの言葉を並べて、私は業務に戻ろうとした。  男性の震えは収まるどころか、次第に酷くなっているように思えた。私は流石に気になって、彼に声を掛けた。 「大丈夫ですか?」 「え……あ……」  震えて言うことを聞かなくなった口から、彼は二文字だけ、そう溢す。私はその時、あることに気が付いた。 「あの……もしかして」  その時、彼は私の方へ倒れかかってきた。思わず抱えようと、腕が前に出た。  ところが、彼の身体は重力の働くままに傾く。そして私の傍に、大きな音を立てて倒れ込んだ。  私は足元に横たわる、彼の身体を見つめていた。  何重にもぐるぐるに巻いていたマフラーはほどけ、道のように床を彩っている。それはまるで、彼が流すはずだった血を模しているかのようだった。  足元に横たわる彼の身体には、頭部がなかった。  咄嗟に飛び出した私の腕は、彼の身体から零れ落ちた、彼の頭部を捕らえていた。
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