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恋に落ちる
季節を考えればもうお役御免になっていてよいはずの冷房が、まだ生き残っている。金銭を扱う場には頭を冷やす空気が必要とされるのか、あるいは利用客に気前の良いところを見せるためなのか、銀行という場所は冷房の稼働期間が異様に長い。
入社して半年の試用期間も終了に近づいた沙奈は、長袖に一枚羽織った服装で通勤している。受付勤務中は所定の制服だが、終業後私服に着替えたあと冷え切った支店を出るまでが案外寒い。
去年の今頃は袖がだるだるに伸びたカーディガンをセーラー服に合わせていたのが懐かしい。もう学生じゃないし、体のラインに過不足なく馴染むきれいめの羽織を、仕事帰りにマルイで購入したのは先週のこと。
一般職だから遠方への転勤はなく、自分はずっとこの東京郊外で消費生活を続けていくのだろう。その第一着目となった服をおろしたが、それでも職場は肌寒く、より厚めのものを早速買い足さねばと思っていた。
なのに今、出し抜けに沙奈の全身は、どこからともなく沸いてきた熱に包み込まれ、万全に保温され、のぼせあがりそうだった。
父親に近い年恰好の上司が「あまり落ち込むなよ」と言い残し、持ち場に戻っていく。
まだ慣れぬ仕事で犯したミスをカバーしてくれた上司。白と黒の勢力が拮抗する頭髪は端正に切り揃えられ、仕立ての良いスーツの袖口から覗く手の甲には疎らに体毛が生えている、そのひとに。
沙奈は恋に落ちた。
そのとき「恋」の上に、沙奈が落ちてきた。
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