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恋に浮かれる
沙奈は自分が恋に落ちたことに気づかず、職場と家を往復する日々を変わらず続けていた。でもなにかが決定的に変わりつつあった。
卒業前に高校で開かれた化粧品メーカーによるメイク講座を、そのまま自分の顔面に適用するだけの薄化粧で沙奈は出勤していたが、銀行員として許されるラインを守りつつ明るい色のリップを塗るようになった。高校最後の文化祭以来久方ぶりに髪をゆるく巻いたりもした。
どうせ職場では髪は頭の後ろで結び、顔の下半分はマスクで覆われるのだが、沙奈にとってそんなことは問題ではなかった。意中の上司が近くを通るたび、マスクの下の薄紅色の唇がゆるんだ。
J-POPは愛だの恋だの叫んでばかりで惹かれなかったのが、気付けばヒットチャートを占める恋の歌を見繕う毎日。
余暇にはファンタジーやミステリー漫画を読んできた沙奈だったが、異世界に転生したり密室で人が殺されたり、そういう類いはすべて非現実的と感じるようになった。その現実離れした世界を少し前までは楽しんでいたのに、今ではそこらを歩いていそうな普通の男女が想いを寄せ合い駆け引きをするラブストーリーに魅了された。
それも漫画など絵のあるものは没入感が削がれる気がして、手に取るのはもっぱら活字の小説だった。本なんて大嫌いだったのに。自分と上司を重ね合わせるためには、美麗な外貌のキャラクターは邪魔以外の何物でもなかった。
落ちてきたまま座り込む沙奈の足腰が「恋」の腹に半ば食い込み、ふやふやの界面に浮いているのを彼は見守った。沙奈は恋に浮かれていた。
自分の観測外、つまり実体のある世界で起きる、唇の色だとか髪の造形だとか、目にする書物の内容だとか、そういうことに彼は無頓着だった。
それでも、自分を変えずにはいられない沙奈の心境は手に取るように伝わってくる。
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