恋に気付く

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恋に気付く

 沙奈は恋に気付いた。  恋が生まれたあの日から二週間が経とうとしていた。入社したころは意識などしていなかったのに、仕事の割り振りのために話しかけられただけで身体の芯が熱い。  彼は煙草を吸うのが好きみたいだ。近くを通りかかる上司の気配になぜ気付けるのか自分でも不思議だったが、それは気配ではなく彼の愛用する銘柄の香りだった。  その出所を意識するにつけ、沙奈は昼食休憩のときにしか見ることのないマスクで隠された上司の口元を思い起こした。煙草のフィルターに生まれ変わりたい、と沙奈は直情的に望んだ。  一呼吸置いてから、その願望がひどく色欲めいたものであることに人知れず興奮し、それからアリバイのように恥じらった。  沙奈が恋に気付いたとき、「恋」は沙奈と初めて目が合った。  それまで「恋」が落ち主の沙奈を見つめていたのは一方通行だったのが、沙奈の方も一足遅れて「恋」の存在を認識したのだ。これまで「恋」の身体には焦点が合わず中空に視線を漂わせるばかりだった沙奈が、「恋」との距離を正しく測り、彼の上に目線を留めている。  奇跡のような現象と言っていいはずなのに、不思議と「恋」は冷静なままだった。目と目が合った瞬間恋に落ちるのは人間同士の営みで、自分はやはり人間の状態を表す概念のひとつに過ぎない存在なのだと妙に得心した。  おずおずと沙奈が「恋」のふやふやとした表面に触れようとするのを、彼は()されるがままに受け入れる。 ──これが、恋? あなたは、恋?  落ちてきて放り出されたまま二週間を過ごした沙奈が今、「恋」の上に二本足でしっかりと立ち、話しかけてくる。「恋」から見える沙奈の口元は微動だにしない。声として出力したわけでなく沙奈の心に漠然と浮かんだ自問自答のような言葉以前の概念を、「恋」は確かに拾うことができた。  呼応するように「恋」は自らの身体である空間一帯を有色に変えた。無色透明だった空気がたちまち色づく。それは、人間の目を通せば桜色なのか橙色なのか、視覚を持たない「恋」自身には判別がつかない。  沙奈が「恋」の応答に気付いてさらに一段と熱っぽくなるのを、代わりに彼は知覚した。  この場に「恋」以外の概念が存在しないのは相変わらずだったが、「恋」は自分が沙奈と合体することで、多幸感という新たな心が生み出されたことを(さと)った。
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