恋の絶頂

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恋の絶頂

 あれから沙奈は毎日、恋の絶頂を漂っている。よかったねえ。「恋」は場の安寧を()って彼女に寄り添い、包み込む。  いっそのこと沙奈の恋の花が、外には開かれず、自分たちだけが見えるところで咲き続ければいいのに。  と、「恋」が望むのには訳があって、彼は沙奈を取り巻く現実世界の変化を察知しつつあった。例の上司の方も、沙奈の好意に勘付いたようなのだ。  沙奈は早く退勤した日に彼のマンションの部屋に上がり込み、夕食を振る舞うようになった。上司は、単身赴任だと夜が手持ち無沙汰でさ、と満更でもない様子でそれに応じた。  職場の喫煙室の陰で密かに合い鍵を授受した日の晩、ふたりは物体としてひとつになった。それは、概念である「恋」には立ち入れない領域だった。  煙草の匂いが染みついたワイシャツの(えり)は、香ばしく沙奈の鼻をつく。その(きわ)の彼の汗ばんだ首筋に舌を()わせる沙奈は、自分も喫煙者になったような気分になり、それがますますの背徳感と高揚を生んだ。  逢瀬の頻度は増え、上司が家族の待つ本宅に帰る月一回の週末以外はまぐわうようになるまで一か月を要さなかった。  典型的な愛のプロセスのようで、ひとつ瑕疵(かし)があった。沙奈の瞳に映っているのは、目の前の上司の姿ではなく、概念に過ぎないはずの「恋」だった。 「恋」は、これが喜んでもよいことなのか悩んだ。
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