恋に恋する

1/1
前へ
/11ページ
次へ

恋に恋する

 沙奈は恋に恋していた。  すべてが沙奈の中で完結していて、その(さま)は高校で回し読みされていた少女漫画を彷彿とさせた。人気だった恋物語は、女子高生たちの輪の中で無限の妄想サイクルを繰り返し、生身の人間の身体に到達することはない。まさしく、あの場で恋は概念だった。  主人公は中高生で、恋する相手は同級生とか先輩とか、そういうお子ちゃま恋愛がみんな好きだったなあと沙奈は思い返す。当時自分が興味を持てなかったのはそれが原因だったのだろうか。  現在の沙奈の恋の相手は、あらゆる点で大人の男だ。フィクションでは履修していない年の差とか不倫とか、そういう異質のものは沙奈にとってはむしろ美点であり、劇的な恋愛のヒロインになりきるのを後押しした。  このごろ「恋」は、沙奈の矛盾に気付いていた。沙奈は確かに恋をしている。建前上は同じ職場の上司に。  けれども沙奈が一途(いちず)に、全身の神経を総動員して気にかけているのは上司という人間ではなく、実体を持たない「恋」だった。  恋に恋している、となれば沙奈が真に好きなのは自分()なのか。恋に落ちた瞬間、沙奈は「恋」の存在に気付いていなかったはずだ。なのに恋の対象が「恋」に()り替わるなんて、彼は予想だにしなかった。  沙奈は恋に酔っていく。職場の飲み会で飲まされたアルコールは(むせ)るように苦いだけで、とても陶酔なんてしない。でも恋には容易く酔えた。 「恋」は、自分の分身にも等しかった沙奈が、自分に対して冷静さを欠いていくのを平常心で眺め続ける。  人間の世界ではプレイボーイと呼ばれる男が女を首ったけにするらしい。首ったけとは、首までどっぷり浸かることだ。沙奈は恋に首ったけ浸かってしまっている。上司とは変わらず毎晩のように肌を重ねているが、その存在はひどく遠い。  ふやふやとした「恋」の腹を足先から貫通した沙奈は、底なし沼のように沈んでいき、今では首から上だけがかろうじて地上に浮かんでいる。濃厚な濁り酒のような「恋」に沙奈は全身で浸かり、酔い()れる。  自分に寄りかかられても、なにもしてやれない。そんなこと沙奈だってたぶんわかっている。この場所は途方もない多幸感に溢れているが、それはまやかし。行く先に彼女の幸せはない。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加