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恋が冷める
『今晩は会えなくなった』
スマホに上司からメッセージが入り、沙奈の頬はまたあかく点灯した。
会えないと言われても押し掛けるほど、恋とはいじらしいものなのではないか。沙奈は都合よく解釈し、いつもの恋の通い路を突き進む。
単身赴任者用の借り上げ社宅は部屋数が多い。東京観光に来た家族が泊まるのにも不便はないよと支店長が話していたのを、なにげなく沙奈は思い出す。
彼のマンションの裏手の駐車場に差し掛かったとき、知らない中年女性の声と、それに応じる聞き覚えのある声が耳に入った。
「わたし先に上がっておくわね」
「おう、酒の準備を頼む」
奥さん、と思われる人の姿が消えたのと、沙奈が上司の前に進み出たのは同時だった。
「沙奈、どうして。今日は駄目だって」
「だって、どうしても会いたくて。あなたがいないと私、」
そのとき沙奈は初めて、上司の隣に自分より少し年下の男子が立っているのを見た。動揺しながらも即座に記憶を掘り当てる。
「うちはませた中学生の息子がいてさ」、入社直後の歓迎会で、あのひとは確かそう言った。
「まさか、うちの親父と? 嘘だろ」
「雅樹、中に入ってなさい!」
相手が中学生とは言え、状況を飲み込むのには十分な会話を私たちは咄嗟に交わしてしまった、と沙奈が理解したのはその直後だった。
膨満しきった独りよがりの恋が呆気なく破綻する音を、「恋」は聞いた気がした。
知っていたはずなのに、家族がいること夫であること父であることは。なのに、その家族の実像に立ち会った途端、沙奈と「恋」の楽園に楔が打ち込まれた。外気が遠慮なしに入ってきた。
冷めていく。「恋」の体温が急激に下がっていく。ああこれ以上は無理。恋はある一定の温度を保っていないと、己の存在を維持できないのだ。
冷めた恋はもはや、恋じゃない。おお沙奈よ、こうなってわかった。恋も君が好きだった。
こうして恋は死んだ。
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