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『ねえ、あんなところに人間、置きっぱなしにしてきて、良かったの』  アロマオイルを一滴垂らすと、小屋には華やかな香りが広がった。オイルの瓶を持ち上げ日に透かす。それはかなり、残り少なくなっていた。  マナは無意識に吐息を漏らす。 「仕方ないじゃない、街の人たちと鉢合わせるわけにはいかないんだから。あの人は大丈夫よ、かなり力がありそうだったから」 『それはもちろん、分かったけどさあ』  風の精霊、レイラの言葉に、マナは男の物問いたげな目を思い出す。自分にだって、彼に聞きたいことは山ほどある。あなたは何者か。どうして森の最奥部で、あんな姿で倒れていたのか。あの場所で何があったのか。しかし、彼が話をできる状態になるまで、あの場に留まることはできなかった。 「おそらく、ものすごく強い魔獣か、もしかしたら、魔術師にやられたのかもしれない。彼も解毒の力はあったようだけれど、それを使う前に麻痺が進んでしまった。多分今頃、ゆっくり体から麻痺の毒を抜いて、動けるくらいにはなっているはず」  街からの迎えが来る頃には、彼は自分で呼吸できているだろう。マナの施した応急手当の痕跡は、跡形もなく消えているはずだ。  彼の記憶をいじる勇気は、自分にはなかった。彼が自分の願いを聞き入れてくれることを、祈るばかりだ。 「それにしても、あの声――」  マナが独り言ちた瞬間、小屋の扉が開いた。  まったくの不意打ちに、マナは息を飲み、入り口に立つ人影を凝視する。 「失礼する」  侵入者はやや掠れた声でつぶやくと、激しくせき込んだ。 「ちょっ……と、あなた」  先ほどの男だ。小屋の中に一歩踏み入れて膝をつき、肩で息をする様子を、マナは驚きのあまり硬直して眺めることしかできない。 「ぶしつけな訪問を、お許し願いたい。どうしても貴方に、御礼を……」  ひゅうひゅうを喉を鳴らしながら、妙に律義な言葉を紡ぐ男に、マナははっと我に返る。 「まだ、動ける状態じゃ、ないでしょう。なんて無茶なこと……」  あわてて駆け寄り、崩れかかる男の身体を支える。マナのマントを羽織っただけの男の全身から、汗が噴き出していた。 「あのままあの場にいれば、すぐに治療士が駆け付けたでしょうに……」  マナが男を支えて立ち上がらせようとすると、ふわりと彼の身体が宙に浮いた。 『運ぶの、ベッドでいいの』  不機嫌そうな風の精霊の声に、マナは知らず微笑む。 「ありがとう、レイラ」 『まったく、何なのこの人間。迷惑千万だわ』 「……かたじけない」  紙のような顔色の男がつぶやく。  死にそうな顔をしているが、立ち去ったマナの痕跡をたどり、目くらましをかけたこの小屋を見つけ出し、マナや精霊たちに全く気取らせずに小屋の結界を破って扉に手をかけ、今、この男はここにいるのだ。  尋常な力でなせる業ではない。  ふわり、と掛け布をめくったベッドに横たえられた男は、忸怩、という単語に顔を付けたらこうなるか、という表情をしていた。  マナは軽くため息をつき、その硬い横顔を眺める。  まごうことなく、美しい男だった。  肌は抜けるように白くあくまでなめらかで、絹のような光沢を帯びている。均整の取れた身体つきと相まって、ギリシアの彫刻を思わせる。背中の中ほどまである、癖のない絹糸のような銀髪が、今は無造作に枕に散っていた。彫りの深い、しかしあっさりとした印象の顔立ち。通った鼻梁、薄い唇、細い顎。切れ長の目に輝くのは、灰青色の瞳だ。澄んだようで濁ったその色合いは、マナの心を落ち着かなくさせる。  ふいにその灰青色の瞳が、マナに向けられた。  しげしげと男の顔を眺めていたマナは、思わず赤くなり目を逸らせる。 「……ありがとう。すまない、手間を取らせて。挙句にベッドを、汚してしまった」  彼に悪気はないのだろうが、先ほどから根本的に、気にするポイントがずれている。 「そんなこと。ベッドなんて、あなたの力が戻れば、浄化するのは造作もないでしょう……なんで、あそこで、じっとしていなかったの。あとほんの数刻で、あなたは完全に、力を取り戻せたのに」  マナは、声に非難が混じるのを止められない。彼は毒が抜けきれない身体で無理に動いたせいで、内臓が傷ついていた。ここに来るまで、想像を絶する痛みだったはずだ。 「あ、の。……焦ってしまって」 「焦って?」  マナを見つめ続ける男の瞳がふいに光を帯び、日の光の下で揺らめくブルートパーズのように明るく輝く。 「すぐに捕まえなければ、貴方に、二度と、会えない気がして……」  マナはぎくりと身を強張らせる。 「でも、捕まえた」  男の右手が、マナの手首に伸びる。その手は冷たく、しかし予想外の力強さで彼女の手首に巻き付き、まるで枷のように、がしりと彼女を捉えた。 「ま……って、待って」  病人かと思って油断すればこれだ。  男の腕は易々とマナをベッドに引き込み、背後から抱え込んでいた。  すり、と冷たい鼻先がうなじに擦り付けられ、マナはびくりと身を反らせる。 「あ、……やっ……」  男の手が優しくマナの首筋をなぞると、ぞくぞくとした快感が背筋に広がりマナは目を見開く。 (何、これは)  経験したことのない感覚だった。鼻先の冷たい感触がふと離れ、次の瞬間、熱く湿った感触がうなじを襲い、マナは息を飲みのけぞる。 「あ、あ、……」  瞬間。  ぴしり、と乾いた音が響き、マナを拘束していた重いぬくもりが離れた。 『いい加減にしろやエロ魔術師。その頭、潰してやろうか』  乾ききった風の精霊の声が響く。 「レ、イラ」  マナの全身が脱力する。 「す、すまない。何てことを。……一瞬、意識が、飛んで……」  ひどく狼狽した様子の男の声が、背後から響いてくる。 『マナ。こいつ、俺たちが喰ってやろうか。不味(まず)そうだが、お前のためなら、骨の髄まで残さず完食するぜ』  ベッドの足元から響くのは、真冬の凍てついた大地のような、地の精霊の声。 「モンテス、大丈夫よ、ありがとう。……とりあえず、動けないように縛り上げてくれる」  瞬間、床から岩の触手が湧き出した。それは男の首から下をぐるぐると巻き上げる。  男は首だけが出たミノムシ状態で、ぱちくりと瞬いた。 「私が魔力なしだからって、甘く見たら痛い目に遭うわよ。……もう、遭ってるか」  マナは立ち上がり、目を眇めて、ベッドに横たわるミノムシ男を見下ろす。 「こんなことのために、わざわざ後を追ってくるなんて。この世界の人間の、“魔力なし”への劣情は、本当に、見下げ果てたものだわ」 「いや、違う、それは誤解だ! ……あ、いや、不埒を働いたのは事実だし、申し開きもできないが……」  男は脂汗を流しながら、それでも真摯な瞳で言いつのる。 「でも、違うんだ。俺は貴方に、あなたに、惚れました。弟子にしてください、『魔の森の魔女』」  小屋の中はしんと静まり返る。マナは絶句して、間抜けな姿の男をただ見おろしていた。
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