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【さらばシベリア鉄道】
時はうんと戻って…
1976年1月5日頃であった。
1975年夏に子どもキャンプをほかした私は、西日本のテレビのチャンネル数が4つのエリアを放浪していた。
1976年1月3日あたり頃、西日本エリアのどこかでケーサツに保護された。
その後、道後温泉で暮らしているドナ姐はんに迎えに来ていただいたあと、マァマが待っている韓国ヘ向かった。
1月4日は、韓国にあるマァマの実家で過ごした。
1月5日の朝、私はマァマとドナ姐はんと施設のスタッフさんたちと一緒に旅に出た。
一行が乗り込んだ大韓航空機は、朝7時頃にソウルキンポ国際空港から飛び立った。
一行は、第三国のフィリピンを経由してシンガポール・チャンギ国際空港へ向かった。
チャンギ国際空港に到着したのは夕方5時過ぎだった。
その日は、空港の近くのホテルで一泊した。
1月6日は、シンガポールの中心地でゆっくりと過ごした。
アジアの経済中枢都市・シンガポール…
街の至るところに、高層ビルが建ち並んでいる…
郊外には、熱帯雨林ならではの自然保護区や動植物園を観察できるスポットがたくさんある。
わぁー、おっきい街だぁ…
4歳の私は、華やいだ大都会の風景を食い入るように見つめた。
午前11時頃、一行はマリーナベイにあるマーライオンパークにやって来た。
(ザーッ)
「よーくん、ライオンさんがお口からたくさん水をはいているわよ。」
わぁー、すごい…
私は、口から大量に水をはき出しているマーライオン像を食い入るように見つめていた。
1月6日の朝9時頃、一行は飛行機に乗って再び旅に出た。
一行が乗っているシンガポール航空機がチャンギ国際空港から飛び立った。
飛行機は、バンコク・スクンナプール国際空港経由で中国へ向かった。
飛行機がタイ北部のチェンマイ県の上空を飛行していた時であった。
マァマは、4歳の私に呼びかけた。
「よーくんみてみて…ジャングルが広がっているよ。」
わぁー、ジャングルだ〜
4歳の私は、窓に写るジャングルの風景を食い入るように見つめていた。
飛行機は、シンガポールを出発してから8時間後に中国雲南省のクンミンの空港に到着した。
その後、一行は飛行機を乗り継いで中国東北部へ向かった。
中国東北部の空港に到着したのは、シンガポールを出発してから4日後だったと思う。
1月10日の朝9時頃、一行が乗っている飛行機が中国東北部のハルビン太平国際空港に到着した。
飛行機を降りた時であった。
私たちの身体にものすごく冷たい風が当った。
「ああ、急に寒なったねぇ〜」
ドナ姐はんが、震える声で言うた。
「まあたいへんだわ…よーくん、オーバー着せないと…」
マァマは、私の身体にちいちゃい子向けのオーバーを着せた。
シンガポールやバンコクにいた時はおんまく暑かった…
ハルビンに到着したとたんに急激に寒くなった…
これは一体どういうことなのか…
亜熱帯気候のシンガポールやバンコクは30度前後でおんまく暑い…
ハルビンを中心とした中国東北部は亜寒帯気候にあたるので、零下20度以下でおんまく寒い…
…という事である。
ところ変わって、中心地にある中央大街にて…
中央大街は、洋風建築の建物が立ちならぶ街のメインストリートである。
全長1450メートルにのぼるメインストリートに立ちならぶ洋風建築の建物は、帝政ロシア時代に建設されたものである。
その当時(1900年代前期頃)、中央大街に日本や欧米諸国からここ(ハルビン)に外資系企業が進出したことにより、ハルビンは中国東北部の経済交易のハブ(中心点)となり栄えた。
今現在は、オシャレな店がたくさん点在している街の商店街である。
私は、食い入るように通りに立ちならんでいる洋風建築の建物やにぎわう通りを見つめていた。
わぁー、ステキなおうちがたくさんある…
マァマとドナ姐はんは、中央大街の風景を見つめながら話し合った。
「いっぱい人がいるね。」
「ホンマやね。」
「マッチャマ(松山)よりも人多いね。」
「ホンマやね。」
一行は、ゆっくりとした足取りで通りを散策して過ごした。
時は、夜8時頃であった。
一行は、街の少し外れの川沿いの地域にあるイベント会場にやって来た。
イベント会場では、毎年冬恒例の氷雪まつりがもよおされていた。
(1月5日から2月末日まで開催されている)
会場には、特大サイズの氷のオブジェが展示されていた。
色とりどりの光のイルミネーションが特大オブジェを染めていた。
「よーくんみてみて、ほら、おっきな氷のお城がいろんな色の光に染まっているわよ。」
わぁー、きれい…
私は、色とりどりのイルミネーションに染まっている氷のオブジェを食い入るように見つめていた。
マァマは、私にやさしく言うた。
「よーくん。」
「マァマ。」
「あと少ししたら、駅へ行くよ。」
「駅。」
「そうよ。」
「キシャに乗るの?」
「うん…キシャに乗って、おっきな港町へ行くのよ。」
「おっきな港町…」
施設のスタッフさんたちの横にいるドナ姐はんは、私にやさしく言うた。
「イマハル(今治)よりもおっきくて華やいでいるわよ~」
「わぁー、早く見たいな〜」
私は、とてもうれしい表情を浮かべた。
そこへ、ヤキソバヘアでサングラスをかけていて、黒のワイシャツに白のノーネクタイスーツ姿の番頭はんがやって来た。
「おまたせしやした…出発しましょう。」
このあと、一行は番頭はんと一緒にハルビンの中央駅へ向かった。
(プォー、ゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトンゴトン…)
日付が変わって1月11日の深夜であった。
私たち一行は、番頭はんと一緒に夜行列車に乗って旅に出た。
行き先は、極東ロシアの港町・ウラジオストクである。
明け方頃、夜行列車がウラジオストクの中央駅に到着した。
列車を降りた一行は、現地のズイコウ員の男たち数人と一緒に街に出た。
ズイコウ員の男たちは、番頭はんの知人の日本人のダフ屋であった。
一行は、番頭はんたちと一緒にモスクワへ行く寝台列車に乗る時間までの間、ウラジオストクの街並み散策に行った。
ウラジオストクの地名の由来は、ロシア語で『東方を征服せよ。』である。
『日本に一番近いヨーロッパ』のウラジオストクは、ムラヴィヨフ・アムールスキー半島の南端に広がる丘陵地帯にあって、両端にアムール湾とウスリー湾の2つの湾が面している人口60万4901人の極東ロシアの港町である。
一行は、スヴェトランスカヤ通りに面した中央広場にやって来た。
広場では、朝市がひらかれていた。
たくさんの店のテントが広場に立ちならんでいた。
カニやサーモンなどの海産物・野菜・山菜・ベリー・ハチミツなど…
地元で生産された特産品を売る店が広場にたくさん並んでいた。
一行は、朝市が立ちならんでいるテントの付近の通路をゆっくりと歩いた。
この後、一行は噴水通り(アドミラーラフォーキナー通り)~ニコライ2世凱旋門~鷺の巣展望台~トカレフスキー灯台など、ウラジオストクの街並みをたくさん見て過ごした。
一行がここ(ウラジオストク)へ来た当時は、外国人の来訪は禁じられていた。
どういうイキサツでここへ来たのか?
それ以上のことは、お答えできません。
(ボーッ、ボーッ、ボーッ…シュシュシュシュ…ゴトンゴトン…)
夕方6時50分頃、一行はシベリア鉄道の寝台列車『オケアン』号に乗って、ウラル山脈の向こうのヨーロッパを目指した。
『オケアン』は、ロシア語で『大洋』と言う。
私は、マァマとドナ姐はんと一緒に4人用のクペ(ブルートレインの2等寝台車にあたる車両)にいた。
ウラジオストクからモスクワまでの所要日数は7日間…
営業キロは9000キロ…
陸路だけでヨーロッパへ移動するのはホンマにくたびれるわ。
ウラジオストクを出発してから三日目の朝…
列車は、ヴァイカル湖の付近を走行していた。
(シュシュシュシュ…ボーッ、ボーッ…)
マァマは、私にやさしく呼びかけた。
「よーくん、ほらみてみて、真っ白な雪に染まっているおっきな湖よ。」
列車の窓に、雪景色に染まっているヴァイカル湖が写った。
「よーくんみてみて、湖のほとりに白鳥さんたちがたくさんいるよ。」
白い雪に染まった湖畔に、白鳥たちがたくさんいた。
私は、シベリア平原の風景を食い入るように見つめていた。
ウラジオストクを出発してから5日目の午後…
一行が乗っている寝台列車は、ウラル山脈を越えてヨーロッパ側に入った。
一行が乗っている列車が終点モスクワに到着したのは、1月20日頃だったと思う。
その後、モスクワから長距離列車に乗り継いでサンクトペテルブルグへ向かった。
サンクトペテルブルグに到着後、国際列車に乗りかえてフィンランドへ向かった。
そして、フィンランドから空路であちらこちらの国・地域へ行った。
楽しかった思い出と言えば、マァマたちと一緒に世界一周旅行をしたことだけで、その他のことについてはよくおぼえていない…
マァマたちと一緒に世界一周旅行を楽しんだ私は、1976年春頃からアメリカ合衆国での暮らしを始めた。
特例措置でアメリカ国防総合大学に入学したのは、それから8ヶ月後の9月初旬であった。
それから19年の間は、まじめひとすじ猛勉強の日々であったのは言うまでもない…
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