蒼山高校物語

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蒼山高校物語 一 桜、満開  蒼山高校の始業式の早朝、貞晴は体育教官室の周りでうろうろしていた。体育の教師で柔道部顧問の堀田に話があったからだが、早すぎてまだ誰も教官室に来ていないようだった。 「まいったな。朝イチで話がしたかったのに……」  貞晴は、靴の先で植え込みのブロックの隅に溜まっている桜の花びらを踏みながら呟いた。貞晴はバス通学だったので、通学に適当な時間を外すと馬鹿みたいに早い時間しか便がなかった。貞晴は、堀田と会っているところをどうしても他の部員に見られたくなかった。だから、放課後ではなく早朝に無理して学校に来たのに、堀田たち教官が来ていなければ意味がない。貞晴は「はー」とため息をついて教官室近くのベンチに腰を下ろした。このまま待たされたら、決意が揺らいでしまう、そんな不安に駆られて膝の間で頭を抱えた。  と、そのときグランドフェンスがガチャと鳴る音がした。ホームルーム開始まであと一時間ある。こんな時間にだれだ、と顔を上げると、一人の生徒らしき人間がグランドの端の桜に向かって何かをしていた。立ったりしゃがんだりしていたがその腕の使い方から写真を撮っていることが分かった。  蒼山高校のグランドフェンス傍には、大きな桜の木がある。今年もきれいな花を咲かせていた。ほぼ満開だった。朝霧が晴れ、花に日が透けて薄桃色がとても美しい立ち姿だった。貞晴は、先ほどの不安を一時忘れ、桜に見とれた。しかし、それもつかの間、カメラを携えている生徒があまりにユニークな動きをするので、視線は桜からその生徒に移った。  その生徒は、貞晴に見られているとは知らず、夢中で写真を撮っていた。幹のそばまで行って木の肌を無心で接写していたかと思うと、カメラを構えたまま中腰で後ずさりし、さらには蟹のようにすばやく左右に動いた。  貞晴の予想を超える不審な動きに(カメラマンにしてみれば狙った被写体を追っての動きだろうが)、貞晴は、笑いをこらえるのに必死だった。  朗らかな気持ちになって、貞晴は、ずっとそのカメラマンを目で追っていた。カメラマンの興味は桜から隣に並ぶポプラ並木に移ったようで、ファインダーを覗いたまま斜め上を見上げてゆっくりと木に沿って歩いていった。 「あ」  反射的に貞晴は腰を上げ、その生徒に向かって小走りに近づいた。その足元には、大きくポプラの根が張り出しており、斜め上を見上げるカメラマンの死角となっていた。 「あぶないよ」  貞晴はとっさに声をかけたが間に合わなかった。カメラマンは、貞晴の数歩先で見事に転んだ。 「いたたっ……あー、カメラ! カメラ! どうしようー」  甲高い声がグランドに響いた。手のひらに乗るような小さなデジタルカメラを、転んだ生徒は泣きそうな顔で覗き込んでいた。手に擦り傷を作り、スカートが土まみれになってるのもお構いなしだった。 「大丈夫?」  と貞晴が声をかけると、ひひぃ、と悲鳴を上げて睨んできた。どうやら、貞晴のことにこれまで気がついていないようだった。 「ごめん、脅かすつもりはなかったんだ。あんまり写真に夢中で足元が見えていなかったようだから注意しようと思って」  カメラを手にした女生徒は、そのとき初めて自分が写真を撮っている最中に転んだ姿を見られていたことに気づいて顔を真っ赤にした。 「立てる?」  貞晴が差し出した手に、少女はうつむいてかぶりを振り、自分で立ち上がった。貞晴から彼女の頭上のポニーテールのゴムが見えるぐらい、背の低い子だった。1年生かな、と貞晴が思っていると、その女生徒はうつむいたまま 「どうしよう、壊れていたら。これ、お兄ちゃんのを借りてきたのに」  と暗い声で呟いた。 「貸して」  貞晴は、カメラをその子の手から取り上げると、電源のオンとオフを繰り返したり、ズームや遠景で写真を撮ってみたりした。 「大丈夫だよ。動くよ、ちゃんと」 「ありがとう」  カメラを返してもらおうと、おずおずと少女が出した手を貞晴は無視して、2,3歩下がりカメラを構えた。ファインダーから困った顔をした彼女が見えた。構えて、カシャリ。 「ほら、カメラを撮るときは、まず目で被写体を見てから、それからファイダーを覗くんだよ。ファインダーばっかり覗いていると、また転ぶよ」  そう言って貞晴は目の前の少女にカメラを返した。その手に血がにじんでいるのが見えたので、体育館横の水道を指差し、 「傷口、洗ったほうがいいよ」  と早口に言って、もと来た方向にきびすを返した。おせっかいな自分に気がついて照れくさくなり、早くその場を離れたかったのだ。数歩歩いた背中から澄んだ声が聞こえた。 「あ……ありがとう!」  貞晴は反射的に振り返ったが、どう言葉を返していいのか分からず「うん、じゃあ」と口の中で言葉を濁して早足でグラントを横切った。振り返ったときに横目に掠めた彼女は、カメラを高く掲げて振っていた。まるで見送られているようだ、と貞晴は思った。気弱な自分を励ましてくれているような彼女の仕草が嬉しく、貞晴は大きく息を整え、体育教官室に向かって歩き出した。目前では、堀田が教官室の鍵を開けようとしているところだった。 二 忘れ物 「まぁ、お前の言いたいことは分かったが、そう結論を急ぐことはないだろう」 「……僕なりに時間をかけて考えた結論です」 「少し部活動から離れてみれば、また気持ちも変わってくるだろう。俺は休部届なら受理するぞ」 「いえ、中途半端な状態だと、部活を頑張る他の部員に悪いですから」 「だが、お前の場合は特別な事情があってのことだし、少し部活動から離れるぐらいは理解を得られると思うがな」 「それでは新入部員に示しがつかないと思います」  貞晴と堀田は、先ほどから同じような会話を3回ほど繰り返していた。そこへ、予鈴が鳴り響いた。貞晴と堀田は同時に深く息をついた。  体育教官室の片隅で、二人は古い事務イスに腰掛かけ三〇分以上話し合っていたが、互いに互いの意向を受け入れないまま時間切れになってしまった。  貞晴は、予鈴を合図に立ち上がると堀田の鼻先に届く勢いで一礼し、事務机に退部届を置いたままにして体育教官室を出た。その扉を閉めるとき、堀田が腕を組んだまま退部届には触れようともせず貞晴を見つめているのが見えた。思わず力が入り、教官室の扉が勢いよく閉まった。  貞晴は、話をまとめられなかった自分に苛立ちを抑えられなかった。思わず早足になる。まだ話をしなければいけない人間が一人残っているのに、堀田でまごついていては話にならなかった。  ふと顔を上げると、桜の木が見えた。満開の桜が白く浮かんで見えた。貞晴の混乱した気持ちをなだめるように風に揺れていた。歩みを緩めて眺めていると、桜の背後に立つフェンスの足元に目立つ色の見慣れないものが目に入った。小走りで見に行くと、弁当の入った小ぶりな布製のトートバッグだった。 「もしかして、あの子の忘れ物か」  貞晴はそのトートバッグを掴むと校舎に向かって走り出した。ホームルームが終わってから教員室に届けてやろうと思った。手も擦りむいて、服も汚れた様子を思い出すと放っておけなかった。  その日は始業式、つまりクラス換えの初日であるため、校舎の玄関には大きく今年度のクラス名簿が張り出されていた。貞晴は、生徒がほとんどいない玄関で、張り紙を眺めてうろうろしていると、本鈴が鳴り始めたので急いで二年生の教室のある二階に駆け上がった。自分の教室の後ろの扉からそっと入いると、すでに生徒たちは着席しており、彼らの後ろ頭を眺めながら貞晴は席に座った。すぐに担任の教員が入ってきたが、出席を取るとすぐに退室していった。しばらくしたら体育館で始業式が始まるのだ。クラスの生徒は、早速廊下に出て移動を始めたり、席を立って数人集まったり、教室は一気ににぎやかになった。  そのときだった。貞晴は背中を突かれて声を掛けられた。 「なぁ、おまえ、柔道部の吉川貞晴だろ」  貞晴が振り返ると、細面だが首が太く肩ががっしりと張った、一見して運動神経が良さそうな男子生徒が笑ってこちらを見ていた。 「俺は陽介。よろしく」  屈託のない笑顔だった。 「ヨースケって? 苗字じゃないよね」 「先生の点呼、聞いてなかったのかよ」 拾った弁当をどのタイミングで教官室に届けようかと考えていた貞晴は自分の名前以外はまるで聞いていなかった。 「苗字は和田。ふつう、ヨースケって聞いて苗字かって訊くかよ」  陽介は少し呆れような楽しんでいるような顔をして言った。 「悪い、考え事していて。よろしく」  貞晴は、短く答えると席から腰を浮かせた。 「ごめん、始業式前に教員室に行きたいから。お先に」  そう言って貞晴が掴んだ布製トートバッグを陽介は目ざとく見つけた。 「よう、そんな可愛いカバン、だれの趣味? 彼女?」 「違うよ」 (拾ったんだよ)そう言おうとして、言葉が止まった。貞晴が立ち上がった目の前に、まさにその持ち主と思われるポニーテールの女子生徒がいたのだった。  彼女はソプラノ気味の大声で周りの女子生徒とはしゃぎ合っていた。貞晴の視線を追って、陽介もそちらを見た。男子二人の視線を感じたのか、ポニーテールの子も貞晴たちを見た。そして、貞晴に焦点が合った瞬間、高い声で 「あー」  と叫び、貞晴の手元を見て再び、さらに高い声で 「あー」  と叫び貞晴を指差した。その手には絆創膏がいくつか重ねて貼ってあった。  慌てたのは貞晴だった。急いで彼女にトートバッグを突きつけて、 「グラントに忘れていたから。教員室に届けようと思っただけ。はい」  と言ってそれを押し付けた。 「あ、ありがとう」  戸惑いのせいかトーンダウンした声で礼を言うと、ポニーテールの子はおずおずとバックを受け取った。貞晴にしても彼女にしても、なんとも気まずい数秒だった。周りの他の女子の含み笑いが居心地悪かった。貞晴がそれから逃げるように振り返ると、視線の先に陽介の含み笑いが待っていた。 三 呼び方 「あのバッグ、遠藤の趣味だったんだ」  貞晴と陽介は並んで廊下を歩いていた。陽介がにやにやして、貞晴の顔をのぞいていた。今朝のことは人に話したくない貞晴だったが、 「あの子、遠藤って名前なんだ」 と、つい陽介の会話に乗ってしまった。下級生と思っていたカメラマンが同級生で同じクラスだったのだから、少し興味があった。 「なんだ、知らなかったのか。なぁ、背がちっこくって可愛いよな」 「和田くん、なんで名前知っているの?」 「ヨースケでいいって言ったじゃん。あの子のこと可愛いって言っているやつ多いぞ」 「へえ」 「へえって、感心されても困るけど。お前は知らなかったんだ?」 「うん、まったく。ところで、僕が柔道部ってよく知っていたね」 「そりゃぁ、隣で部活動していたら、顔見知りになるんじゃない?ふつう」 「え、隣?」 「俺らは面付けているから、そっちにとっては顔見知りじゃないだろうけど」 「面って。ああ、剣道部か。そうか、確かに格技館で僕たちの隣でやってるな。じゃぁ、和田くんは剣道部ってことか」 「だから、ヨースケで呼んでくれっていってるだろ。そう、弱小剣道部だよ、そっちと違って。そっちは人数も多いし、練習も多いし。うち、進学校のわりに柔道部が強いよな。その中でも期待の星、吉川くんは顧問の堀田からの叱咤激励が絶えんよね。『吉川!吉川!』ってよく呼ばれていたよ、お前」  早足で歩きながら二人は会話していたが、貞晴はそろそろ部活動の話を切り上げたかった。ちょうど始業式会場の体育館が目の前だったので、貞晴は陽介に答えず歩みを速めた。 「おい、ちょっと待てよ」  肩越しに陽介の声が聞こえたが、貞晴はそれを無視して生徒の群れに入っていった。  始業式終了後、再び教室に戻り新学期の時間割の説明を受け、各委員の選出などしてその日は解散になった。その後は、新1年生に対しての部活動紹介が体育館で行われる予定だった。各部の代表又は全員で、部活動の活動紹介やデモンストレーションを行う。蒼山高校では、この部活動紹介がすっかりイベント化しており、各部が趣向を凝らして彼らの出し物を披露する。貞晴も、去年の今頃先輩たちの発表を楽しんで見たものだった。  今朝退部届を出した貞晴には、今日のデモンストレーションに出場する予定はない。本来、部活動の中核である2年生が中心となってやるべきことで新2年生の貞晴も当然参加すべきイベントであったが、彼は春休みの前からまったく柔道部の活動に参加していなかったので、何をするのかも知らなかった。休み中、一度仲間が電話で部活動紹介のデモンストレーションを誘ってきたが、やんわり断って以来、どういう憶測が仲間うちに流れたのかは分からないが、だれも貞晴に接触してこなかった。貞晴にとっては、そうやって放っておいてもらえたのは有り難かった。しかし、今、クラスメイトたちがそのイベントの準備のため慌しくなっているのを見ると、寂しい気がしてならない。  再び、背中を誰かが突いた。予想は出来た。陽介だ。 「なぁ、柔道部のデモって何番目なんだ?」  貞晴は顔だけ後ろに振り向けて言った。 「さぁ。僕は知らないんだ」 「知らない? なんでだよ」  陽介は、素直な疑問を貞晴にぶつけた。 「僕は関わってないんだ。このデモには」  少し低い声で貞晴が答えると、陽介は深くは追求せず「そうか」と引き下がった。 「じゃぁ、僕はこれで帰るから。また明日。和田くん」  貞晴は、荒っぽくカバンを掴むと、ざわめくクラスメイトから逃げるように教室から出た。  ところが、廊下に出てすぐ、強い力で肩を掴まれた。握力の強さに感心しながら振り返ると、不機嫌な顔をした陽介がいた。  陽介はそのまま貞晴を窓側まで押しやると、ぱっと手を話し、少し軽薄な笑いを作って言った。 「何度もヨースケって呼んでくれって言ってるだろ。気持ち、汲んでくれよ」  貞晴は、思いのほか、しつこい陽介に驚いていた。 「でも『和田くん』だろ?」  貞晴は、人指し指を陽介の胸に向けて言うと、 「そう呼ばれるのが嫌だから、わざわざ『ヨースケ』って呼んでくれって頼んでんだよ」 と、今度は半歩詰め寄り真剣な顔で言った。  貞晴と陽介にはこぶし2個分以上の身長差がある。陽介が近づきすぎると、貞晴は相手を見下すことになり居心地悪かった。  貞晴は、すばやく半歩下がり 「分かったよ。……ヨースケ。ごめんな」  と、陽介の言うとおりに従った。貞晴にしてみれば、今日知り合ったばかりの陽介の言葉に従う義理はなかった。それに、陽介が呼ばれ方にこだわるように貞晴にも呼び方へのこだわりがあった。クラスメイトに対しては平等に接することと、その苗字には「くん」または「さん」を付けて呼び方に差をつけないことが彼のルールだったのだ。これを変えることは不本意だったが、後ろの席の陽介と揉めるのも嫌だったので、彼に限ってそのやり方を通すことを諦めた。他人と揉めてまで自分の意思を通すことが苦手な貞晴だった。 四 呼ばれ方  自分のルールを曲げた不本意さが貞晴の顔に出ていたのか 「なんだよ、難しい顔しやがって」 と、陽介が快活に言った。彼は、自分の希望が通ってすっかり満足そうだった。続けて、 「それで、おまえはなんて呼ばれたい? ヨッシー、サダ、サダッち、ハル? それとも……小鳥ちゃん?」  最後の候補に貞晴はのけぞった。小鳥はカメラマンの少女のトートバックの図柄だった。軽く陽介を睨んでから、貞晴は窓の外に目を向けて答えた。 「小鳥ちゃんとハル以外だったら、何とでも」 「気のない返事だな。しかも『ハル』以外とは」  驚いた顔で陽介が言った。 「小鳥ちゃんも不可」  再度、貞晴は釘をさした。勢い込んで陽介が貞晴の隣に並んだ。そして、 「なんで『ハル』がだめなんだよ。柔道部の連中、みんなおまえのことそう呼んでるだろ?」 「だから、嫌なんだよ」 「?」  理解できない様子の陽介に、貞晴は苛立ちを覚えながら小声で言った。 「柔道部、止めるつもりなんだ」  貞晴は窓ガラスの汚れを指先で突きながら、陽介の言葉を待った。どうして?何があった?と、しつこく詮索されることを予想して心が縮んでいくのが分かった。 「……そうか。分かった」  意外にも陽介はあっさりと納得し、すばやく数歩下がると手を大げさに振ってみせ 「じゃあ。ヨッシー。また明日な」 と、屈託のない笑顔で叫び、廊下の奥に向かって走って消えた。 (なんなんだ、あいつ) 貞晴は、しつこいのかそうでないのか分からない陽介に戸惑いと疲労を感じて窓の外を眺めた。二階の窓からは、部室棟からの渡り廊下がよく見えた。そこを、数人の生徒たちが大きな写真パネルを抱えて走っていた。部活動紹介に使うのだろう。一枚、二枚ではない。次から次へと運ばれる様子を見ていると、 「あ」  と、貞晴の口からつい言葉が漏れた。その中に、陽介が遠藤だと言った女子が混じっていたのだ。 「写真部だったんだ」  貞晴は今朝の彼女の行動に合点し、ゆっくりとその場を離れた。学校から帰るまえに、寄る場所があったことを思い出したからだった。  放課後、貞晴が向かったのはある総合病院の整形外科病棟だった。A4サイズの書類が入る茶封筒を小脇に抱えていた。  病室を2回ほどノックして返事を待たずに扉を開けた。4人部屋の病室の奥に、腕を器具で固定された少年がテレビを見ていた。もう一人、成人の男性が別のベッドで器具に固定された片足を布団からはみ出させて雑誌を読んでいた。2人が一斉に顔を扉に向け、一人は無表情に雑誌に目を落とし、もう一方は晴れやかな笑顔を貞晴に向けてきた。 「よう、ハル!」  嬉しさが素直に滲み出た言葉だった。その右手では、小さな丸イスを指差している。座れよ、と言いたいらしい。 「どう、調子は。痛くないか?」  貞晴は、欠かさずいつも最初にこう聞いていた。彼が特に気にしていることだった。 「もう全然大丈夫。明後日、退院だって」 「そっか、良かった」  貞晴は安堵の表情を浮かべた。 「そんな心配すんなって。部活も忙しいのにさぁ、ほぼ毎日来てくれて悪いな」  朗らかに少年は言い放った。彼の名は瀬川卓、貞晴の柔道部の仲間だ。 「いいって。気にするな。今日は始業式だろ。ほら、担任の先生からの預かり物」  そう言って貞晴は移動式のミニテーブルの上に茶封筒を置いた。「おまえ、F組だったぞ」と言いながら。 「ああ、知ってる。今朝、担任から母さんのところに電話があったよ」  卓は片手で器用に封筒から書類を出しながら答え、「で、ハルはA組か」と聞いてきた。 「……D組だよ」  卓の書類を探る手を止め、貞晴を見た。 「文系にしたのか」 「うん、まぁ、そういうことかな」 「数学のハル、とは言えなくなっちゃうのか。ま、俺は分からんところさえ分からんから、文系でもハルに数学のこと聞いちゃうけど」  卓はケラケラと笑った。貞晴は、深刻な顔をして言った。 「早く学校来られるといいな。授業が遅れてしまう」 「勉強は元々ついていけてないから心配すんなって。それより柔道の差が開くな、おまえと俺」 「それはないよ」  そう答えた貞晴を、卓は真面目な顔をして見つめた。いたたまれなくなった貞晴は、 「今日はそれを持ってきただけだから。また明日来るよ」 と言って、席を立った。卓は真面目な顔のまま 「もう来なくていいからな。ちゃんと部活、出ろよ」 と、きつく貞晴に言った。  その言葉に貞晴は何も言えないまま、病室を後にした。 五 写真部部室  蒼山高校の部室棟は、校舎とグランドの間に建てられている二階建ての建物で、一階部分が各運動部に、二階が各文化部に割り当てられていた。その部室棟二階の端が写真部の部室として使用されていた。  始業式の日、そこで四人の女子生徒が事務机を囲んで弁当を食べていた。 「優衣ちゃん、本当にお疲れ様。ほんと、スピーチ上手だったよ」  4人のうち最も黒くてつややかな髪を持つ田野琴子が、大きな瞳をして快活そうな笑顔の女子生徒に話かけた。写真部の副部長をしている本間優衣である。 「ありがとう。でも、やっぱり緊張したぁ」  優衣は、誰に言うでもなく空に向かって吐き出した。写真部のデモンストレーションは、今まで撮りためた写真を使って、蒼山高校の春夏秋冬を紙芝居形式で紹介することだった。部長の片山基樹と交代で優衣が語りの役をやり、他の部員が写真のパネルを繰る役であった。 「ところで、同じクラスだった吉川くんって、萌と同じD組だったね」  優衣が、三つ編みを両肩に垂らしている女子生徒に話し掛けた。1年生のとき優衣と同じクラスだった原田萌である。 「そうそう。意外だったね。あんなに数学が出来るのに」 「絶対、理系クラスにいくと思ったのに」  優衣は少し眉間にしわを寄せていた。  蒼山高校では、2年生進級時に、志望大学や分野に合わせて理系コースにするか文系コースを選ばなければならなかった。四人のなかで、優衣だけが理系コースを選んでいた。 「そんなに数学の成績が良いんだ、吉川くんっていう人」  口を挟んだのは、遠藤祐子だった。優衣が間髪入れず、 「数学だけじゃないよ! 他の教科もすごいんだから。去年の全国模試で上位者リストに入っていたし」  と言った。萌が少し不思議そうな顔で 「吉川くんのこと、知らなかったの? 今朝、しゃべっていたじゃない」  と言うと 「知らないよぅ。あのとき名前だって知らなかったし。それに、あれはしゃべったうちに入らないよ」  祐子は貞晴にトートバックを手渡されたあと、慌てて周りのクラスメイトに貞晴の名前を聞いたのだった。胸の中には後できちんとお礼を言いたい気持ちがあった。しかし、かしましい部活仲間にそんなことは気取られてはいけないと、努めて無表情を装っていた。 「なになに、今朝何かあったの?」  琴子が肩を左右に揺らして聞いてきた。勢いで琴子の長い黒髪が揺れてる。その目は好奇心で輝いていた。 「いや別になにも……」と祐子。 「それがさぁ」と萌。  二人の多重音声に、優衣と琴子が反応した。 「萌! 何があった?」と優衣。 「萌ちゃん、教えて」と琴子。 「本当になんでもないからさぁ、そういうの、止めようよぅ」 祐子が箸を持ったままで両手を大げさに振るので、ますます優衣と琴子の好奇心に火をつけた。萌は、隣に座る祐子をちらっと見て、 「私もよく分かんないんだけど、始業式の前に吉川くんが祐子にわざわざお弁当を届けてくれたんだって」 と肩をすくめて言った。祐子は慌てて事情を説明した。 「あのね、今朝、私がグランドにお弁当忘れちゃったの。それに吉川くんが気付いて、教員室に届けようとしたら私が偶然同じクラスだったから、教室で渡してくれただけなの」  誤解が生じる前にすばやく真実を明かす、女友達の噂の消火は先手必勝である。 「へぇ、吉川くんって優しいィ」  琴子は感じ入ったように言った。  ところが、優衣は 「なんで、グランドに忘れ物したの? 今朝、グランドに行ったんだ?」 と聞いてきた。 「う……ん。そう。グランドの桜が満開でしょ? 写真を撮っておこうと思って」  祐子が一番言いたくないことだった。新米部員の祐子にとって、早朝に一人で写真を撮っているということを他の部員に知られるのは気恥ずかしかった。 「それで、なんで吉川くんがグランドの忘れ物に気がつくの?」  優衣は追求の手を緩めない。蒼山高校の校門からは、校舎玄関を通り過ぎ部室棟を回りこまないとグランドまでは行けないので、普通に登校してきた生徒はグランドの落とし物には気がつかないであろうことを優衣は暗に言っていた。つまり、グランドに祐子と貞晴がいた理由を知りたがっていたのだ。 「体育教官室に用があったみたいだよ……」  祐子は分かる範囲で答えるしかなかった。確かに、今朝、祐子は貞晴が体育教官室に入っていくところ見たのだから。 「そっかぁ。偶然が重なって、祐子ちゃんはお弁当にありつけているんだね」  おっとりと琴子が場をまとめた。萌も琴子の言葉に同調して、 「まぁ確かに、偶然だよね」  と、納得していた。優衣も「ふーん」とうなずくと、話が収束した雰囲気を察して 「他には、D組はだれがいるの?」 と話題を変えてきた。 六 ホームルーム前  翌朝、貞晴が校門を通って自転車置き場の横を歩いていると自転車の群れの中から声がした。 「吉川くん」  振り返ると祐子が狭い自転車の間をぬいながら近寄ってきていた。頭のポニーテールが弾んでいる。貞晴のそばまでくると片手を挙げて「おはよ」と元気な声で言った。  貞晴は「おはよう」と応えながら、祐子がいったいどこから現れたのかと驚いていた。 「遠藤さんは自転車通学なの?」 と、貞晴が聞くと「いろいろ」と何が面白いのかころころと笑いながら言った。 「いろいろって、どういうこと?」 「家が近いから、帰宅が遅くない今は徒歩だよ」 「そうなんだ。いいね、家が近いと」  そう貞晴が言い終わらないうちに祐子は、 「昨日はありがとうね! お弁当箱。それじゃ」 と一気に言うと、貞晴を残して先に行こうとした。 「昨日……ああ、そうか。」  貞晴は昨日の朝のことを思い出した。桜をバックに手を振る祐子の姿が思い出された。貞晴は「手の傷は、大丈夫?」と祐子の背中に声をかけた。  貞晴の声に、少し驚いた顔で祐子が振り返った。 「全然、大丈夫!」  祐子はそう言うと、笑顔で絆創膏が一枚だけ貼られた手の平を見せてきた。口角がきれいに上がった口から白い歯が見えていた。 「カメラの調子は?」  重ねて貞晴が聞くと、祐子は笑顔のまま「問題なし」と答えた。 「もしかして今朝も写真撮影?」 「えへへ、そうなんだー。デジカメで写真撮るのが楽しくって」 「早朝からとは熱心だね」 「今日のテーマは『通学』だから」 「それで自転車置き場?」 「変かな?」 「だって、ここ、暗いし、自転車がごちゃごちゃしてるし」 「そういうのが面白いの」 「じゃぁ、昨日のテーマは?」 「人気のない校庭、かな」 「もしかして、なにか詩的な雰囲気を求めている?」 「おお、するどい。吉川くん」  祐子は驚いてその場で跳ねた。  その仕草が面白く、つい、貞晴は昨日見たことを持ち出した。 「昨日のこの動きは、なかなか画期的だったよ」  と言い、空でカメラを構えた格好しそのまま蟹股で横歩きをして見せた。 「……」  呆気にとられ言葉が出ない祐子の横をすり抜け、貞晴は校舎玄関に向かった。肩越しに振り返ると、真っ赤な顔で跳ねながら「そんなことしてないもーん」と叫ぶ祐子がいた。  貞晴は、思わず頬が緩むのを感じながら玄関に入った。  貞晴は自分の教室に入ると、すぐに緊張した雰囲気を察した。教室の前のほうでクラスメイトの女子たちがなにやら言い争っている。  貞晴が自分の席に行くと、そのそばで陽介と数人の男子生徒がその成り行きを窺っていた。 「おはよう、サダっち」  先に陽介が声を掛けてきた。貞晴は、ヨッシーはどこにいったと思いつつも「おはよう」と返し、 「あれ、どうしちゃったの?」 と、目立たないよう女子生徒の群れを指して聞いた。 「ああ、なんだか面倒くせぇことになってる」  そう答えたのは、腕を組んで一番心配そうな顔をしていた小林憲太郎だった。 「まったく、昨日のうちに言えっていうんだよな」冷めた表情の陽介が言った。 「なんだよ、説明してよ」 と、貞晴が迫ると、憲太郎が貞晴の二の腕を軽く掴み、その体が女子の群れに背を向けるよう向きを変えた。 「山之内がさぁ、レク委員をやりたくないって言い出したんだよ」  貞晴はそっと教室の前方を見ると、集団の中で一人泣きそうな声を上げ、なにやら訴えている女子生徒がいた。それが山之内真紀である。  レク委員とは、レクリエーション委員の略称であり、蒼山高校では各クラスに男女一名ずつ選出する決まりになっていた。体育の授業の準備と後片付けの責任者であり、体育祭や文化祭のようなイベントでクラスをまとめる役を担う。ちなみに、クラス委員はそれとは別に男女一名ずつ選出され、彼らは体育以外の授業について教員との連絡係を務め学業面でクラスを世話する役を担っていた。  憲太郎は2年D組の男子レクリエーション委員であり、その相方がどうなるか心配しているのだった。  D組の女子生徒たちは、真紀が可哀相という気持ちから真紀を擁護するレク委員交代肯定派と、みんなで決めたことはやるべきだという主張を持つレク委員交代反対派に割れて、朝から言い争っていたようだった。 七 レクリエーション委員 「今更、換えられるわけないじゃない。レク委員はクジで決めたんだから!」  強い口調で真紀に迫る女子がいた。D組の女子クラス委員である萌だった。 「私には無理、絶対無理よ。運動音痴の私に出来るわけない!」  涙声になった真紀が必死に訴えていた。真紀の両隣には、肯定派が並んで「真紀ちゃんが可哀相だよ」とか「もう一回クジ引きしようよ」などと言っている。 「運動ができるかどうかと委員をするかどうかは関係ないよ!」  萌が苛立ちを隠さず言い放った。萌の周りには反対派たちが群がっている。肯定派に比べ反対派は圧倒的に人数が多く、肯定派に無言の圧力をかけていた。 「なにも山之内さんひとりになにもかもやらせるつもりはないよ。みんなで協力するって言ってるじゃない」  萌はなだめるように言った。真紀は座席に座り込んで頭を振っている。その頭上に反対派たちは口々に「そうよ」「協力するから」「頑張ってやってよ」などの言葉を掛けていた。  貞晴は、席についてその様子を眺めていた。  レクリエーション委員は、各委員の中でもっとも雑用が多く、イベント時にはクラスメイトの先頭に立って皆を引っ張っていかなければならなかった。普通は、リーダーシップを取れる生徒が推薦や立候補で選ばれるのだが、2年D組の女子の場合は推薦すら声が上がらず手っ取り早くクジにしようと決まった。クジにしようと言い出したのは、さきにクラス委員に決まっていた萌だった。男子の場合は、憲太郎が快くレクリエーション委員を引き受けてくれたので、男子全体が自然と憲太郎への尊敬と協力の気持ちを持ち始めていた。  予鈴が鳴った。クラス内がざわめき立った。真紀は追い詰められたように、 「私にレク委員は荷が重過ぎるって。私、人の前に立つなんて無理!」 と叫んで、泣き出した。それが、余計に反対派の不興を買った。  そのとき、 「あのぉ、私でよかったら代わろうか?」 と、澄んだ声がざわめきを鎮めた。貞晴はカバンから教科書を出す手を止めその方を見ると、祐子が女子生徒たちから注目を集めていた。小柄な祐子は、まるで大人に囲まれた子供のようだった。しかし、祐子は恐れるふうもなくその集団に対峙していた。 「本当? ありがとう!」  弾けるような真紀の声が響いた。先ほどまで泣いていたのに、表情は喜びで輝いている。 「ちょと、祐子! それでいいの?」  驚きと動揺の表情で萌が祐子に詰め寄った。 「うん、いいよ。山之内さん、つらそうだし。嫌がっている人に押し付けるのも悪いじゃない?」 と、祐子は萌に言った。萌の顔が歪んだ。 「それじゃ、遠藤さん! レク委員よろしくね。ほんと、ありがとう」  真紀は萌を押しのけ祐子の手をとった。ひとりはしゃぐ真紀の声が聞こえる。  対照的に、萌をはじめとする反対派の女子生徒たちの表情がみるみる白けていくのが分かった。祐子を見ながら、ひそひそと小声でなにかを話している女子たちもいた。  萌は硬い表情のままその場を離れた。それを機に、女子生徒の群れは散らばり各自が席につき、教室はいつもの風景に戻っていった。 「遠藤、やるね」  貞晴の背後から、小さな声で陽介が話し掛けてきた。 「……いいのかな」  貞晴は反対派女子の白けた雰囲気が気がかりだった。 「なにが?」と陽介。 「いや、別に」 貞晴は口ごもって誤魔化そうとすると、陽介が強い握力で肩を掴んできた。 「何だよ、はっきり言えよ」  貞晴は昨日のことを思い出して、観念して陽介に頭を寄せた。 「女子の大半を敵に回したんじゃないか? そんな状態でレク委員はきついよ」  陽介は少し考えて、貞晴に顔を寄せ返してきた。 「ごねた山之内が悪いのは、皆分かっているさ」 「そうかな」 「そうだよ」  陽介は、目で、教室前方を向けと貞晴に言っていた。一限目の教科の担当教師が教室に入ってきたところだった。  貞晴と陽介は慌てて姿勢を正した。日直が号令をかけて挨拶をして授業が始まった。  授業中、貞晴は板書を写す手を休め考え込んでしまった。貞晴には、ひとつひとつの仕草が子供っぽくみえる祐子が一人で集団に向かっていったことが意外だった。また、その行動は理解しがたかった。なぜなら、あの状況では、祐子がみんなで決めたことを覆し、ひとり良い格好をした結果になるからだ。レクリエーション委員の交代の是非の問題ではなかった。 (やっかまれるもの覚悟のうえか。それとも、ただのアホなのか)  貞晴の席からは、祐子のポニーテールが時々垣間見えるだけだった。貞晴には、陽介のように祐子を評価する女子生徒はそういないのではないかと思われた。  その日の昼食時、貞晴が自席で弁当を食べながらこっそり女子生徒たちを観察していると、祐子は真紀を誘って弁当を食べていた。一見、平和そうだったが貞晴はそうは思えなかった。案の定、翌日、祐子は一人で弁当を食べていたのだ。 (こりゃ、女子レク委員は前途多難だな)  新学期になって最初の体育の授業のとき、貞晴は自分の予感が現実になったことを知った。 八 体育の授業  体操着に着替えてグランドに出た貞晴が目にしたのは、ひとりでハードルを運ぶ祐子の姿であった。祐子は、体育器具倉庫から慣れない手つきでハードルを外に出していた。体が小さく一度に多くを抱えられないため、とりあえずある程度の数のハードルを倉庫の外に出そうとしているところだった。  祐子が倉庫入り口で溜まっているハードルを押し分けていると、手の抵抗が軽くなった。顔を上げると、貞晴がハードルを手前に引いて祐子が通る場所を開けてくれていた。 「これ、あそこに並べたらいいの?」  貞晴は、グランドのトラックを指差した。  「そう、部室棟に平行に」  祐子は驚きすぎて、素直に答えてしまった。 「わかった」  貞晴は、短く答えると持てるだけハードルを抱えてグランドに向かった。その後を、祐子もハードルを持って続いた。  それらを並べ終え倉庫に向かうとき、祐子は貞晴に言った。 「ありがとう。でも、もういいから。男子は別でしょ?」 「でも、ひとりじゃ大変だ」 「いいの。今日は、たまたまひとりなの。C組女子のレク委員がお休みしているだけ」 と、貞晴の手助けを拒んだ。  蒼山高校の体育授業は、男子と女子に別れ、2つのクラスが合同で行われる。2年D組は、隣のクラスのC組と合同授業となる。  貞晴は、裕子の言葉を無視してハードルを担いだ。そのとき、背後に陽介たちが近づいてきた。 「あれ、男子はリレーの練習だぞ」 と憲太郎が言った。憲太郎は陽介たちを誘って、倉庫にバトンを取りに来たのだ。 「これは、女子用」 と、貞晴は言い残すと、足早にハードルをグランドに運んだ。その後ろからガチャガチャという音がついてきた。振り返ると、陽介が脇にハードルを抱えてついてきていた。 「サダっちの予想的中か」 「……」  貞晴はなにも答えなかった。再び倉庫に向うと、祐子が寄ってきて言った。 「吉川くん、和田くん。本当にもういいから」 「俺、ヨースケだから。名前で呼んでね」 と、陽介は呼び方を訂正していた。彼のまめな「ヨースケ普及活動」により、すでに男子生徒は彼を名前で呼んでいた。今、その活動を女子生徒に広げようとしている。そこへ、 「ちょっと、どうしたの?」 と、萌が数人の女子生徒と倉庫にやってきた。 「女子が使うハードルの準備を手伝っているんだよ」  陽介がケロッとして言った。祐子はバツが悪そうに俯いている。  貞晴たちを見習って、憲太郎たち男子数人もハードルを持って並べていた。貞晴はそれを指差して、 「みんなでやれば、早く終わるよ」 と言って近くのハードルを掴むと、それを運び始めた。  トラック近くに来て振り返ってみると、萌を含む数人の女子生徒がハードルを持って後をついてきていた。その向こうで、更衣室から順次出てきた女子たちがそれに気づいて駆けてくるのが見えた。  ハードルを定位置に並べていると、陽介がやってきた。 「事態好転か」 「さぁ」と貞晴。 「好転するだろ?」 と、陽介は大げさに言ってみせた。そして、 「原田は悪いやつじゃないよ。本当に悪いやつはああいったやつらだ」 と顎でしゃくってみせた先では、木陰で真紀と数人の女子生徒が手伝わずにおしゃべりに興じていた。 「最低だな」  吐き捨てるように、陽介が言った。それに対して貞晴は、 「そうかな」 とつぶやいたので、陽介が意外そうな顔で貞晴を見つめた。  その横でハードルは並べ終わったらしく、祐子が貞晴と陽介のところにやってきた。 「ありがとう、本当に助かったよぉ」 「ひとりで何でもやろうとするなよ。人を動かすのがレク委員の仕事なんだからさ」 と、陽介は知ったようなことを言っていた。  貞晴が黙っていると、遠くて笛の音がした。体育教官が出てきて集合をかけたようだった。 「じゃ、行くね。ほんと、ありがとう。吉川くん、ヨースケくん」 と言うと、祐子はポニーテールを揺らして駆けていった。 「なんで、なにもしゃべんないの?」  陽介が貞晴の脇を突いた。 「なにをしゃべったらいいんだよ。用は済んだし」 くすぐったくて身をよじりながら、貞晴は言った。 「用なんて無くても、顔見て思いつくこと言えばいいんだよ」  陽介が貞晴の腕を叩いて促した。前方では男子がリレーの組分けを始めていた。 九 線引き  貞晴は、体操着をすばやく着替えると逃げ出すように更衣室から出た。  その扉の前で残りのシャツのボタンを留め、ネクタイを適当に巻いた。扉が急に開いて、外側のドアノブが貞晴の腰を突いた。 「おっと」  貞晴が一歩前によろけると、扉の内側から陽介が出てきていた。 「よう、なにしてんだ」 と口では言っているが、本気で聞いている口調ではなかった。そのまま二人はなにも無かったように廊下を歩き始ると、おもむろに陽介がしゃべりだした。 「小鳥ちゃんは子鹿ちゃんだったな」  貞晴は一瞬、言葉の意味がよく分からなかったが、すぐに思い当たった。遠藤祐子のことである。  今日の2年D組女子は、体育の授業中ハードル走の練習をしていたが、その中で際立って早く美しくハードルを飛び越えていたのが祐子だった。陸上部の憲太郎も、感心しきりだった。 「いや、インパラだね」と貞晴。 「じゃぁ、子インパラだ」と陽介が応えた。 「運動神経は良さそうだった、ほんと」 「だって、今年の冬までハンドボール部で走り回っていたし」  貞晴は、陽介の言葉に、(どうりで)と思いつつ、 「よく知っているな」 と驚いてみせると、陽介は眉を上げて、 「運動部って、それぞれのユニフォーム着て屋外で練習しているからさ、だれがどこの部ってだいたい分かるだろ」 と言って貞晴を見た。 「そうか? 僕は知らないけど。ヨースケ、おまえ凄いな」  貞晴は正直な気持ちを言った。 「おまえの場合は、下向いて黙々と練習しているからな。だから分かんないんだよ」 と、陽介は無表情に言った。そして、なにか思いついたように「そうだ」と声を上げた。 「どうした」と貞晴。 「さっきのあれ、どういう意味だよ」  陽介が貞晴に肩をぶつけてきた。 「あれってなんだよ」 「俺が山之内のこと『最低だ』って言ったら、おまえ、『そうかな』って」 「ああ、あれね」  貞晴は、どう誤魔化そうかと考えたが、陽介は本当に知りたそうな顔で貞晴を見ていた。仕方なく、貞晴は言葉を続けた。 「確かに、あの場で準備を手伝わなかった山之内さんたちは良くなかったと思うよ。でもね」 「でも?」 「ヨースケが言った『最低だ』の意味は、それだけじゃないだろ?」  貞晴は、歩みを緩めた。対向して歩いてくる集団を避けたのだ。このまま一気に話しをしたくない気持ちがあった。思ったことをさらけ出すのは慣れていなかった。  再び、二人は歩き出した。陽介の無言が、話を待っていた。 「ヨースケは、レク委員を代わってもらったにも関わらず、遠藤さんに気を遣わない山之内さんに腹立っているんじゃない?」  貞晴は仕方なく語り出し、その言葉を聞いて陽介は「そうだ」と答えた。 「その腹立ちは、少し違うんじゃないかっていうことだよ」 「なにが違う?」  貞晴は、このとき陽介のしつこい性格を思い出していた。こだわっていることは引き下がらない。 「レク委員の交代は、遠藤さんが自分で言い出したことだよ。山之内さんが遠藤さんに頼んだことじゃない」 「遠藤のお陰で山之内は楽をしてるじゃないか」 「だからと言って、山之内さんが遠藤さんに気を遣う義理はないよ。むしろ、避けたいくらいだろう。山之内さんだって馬鹿じゃない。自分が無理を言ったことぐらいは分かっているさ。だから、一刻でも早くレク委員交代のことは忘れたいんじゃないかな」 「それは、山之内の論理だろう? あいつのせいで遠藤は女子から距離を置かれている。実質的な被害を被っているんだぞ」 「それも、遠藤さんの行動の結果だろ?」 「サダっち、山之内の味方か?」 「僕はだれの味方でもないし、だれの敵にもなりたくないよ」  意識せず口をついて出た言葉だったが、貞晴の胸を刺した。そんな貞晴の様子に頓着せず陽介は言った。 「心の中では山之内に味方しつつ、外では遠藤を助けるのか」 「僕だって遠藤さんは遠藤さんなりに良かれと思ってやったのだと思っているし、正直、進んで仕事を引き受けるって立派だと思うよ。でも、だからと言って、山之内さんが悪で、遠藤さんが善っていう線引きはしたくないだけなんだって」  貞晴は一気に語って、気恥ずかしさを覚えた。陽介は、少し間貞晴を見つめると、「そうか」とつぶやいた。 「あんまり絡むなよ」  貞晴の言葉に、陽介ははにかんだように笑い「すまん」と言った。 十 放課後  放課後になった。貞晴の背後で、教科書を勢いよくカバンに放り込む音がしている。  振り返ると、もう陽介は席から立ち上がっていた。 「じゃ、お先。部活があるから」 と、陽介は貞晴に言って廊下に向った。貞晴が何気なくその後ろ姿を見送っていると、入れ違いに卓が入ってきた。  左腕は器具で固定したままで、肩を怒らせこちらに歩いてくるのが見えた。その顔は、いつもの朗らかな卓ではなく、目は怒りでぎょろついていた。 「ハル、おまえ、格技館には行かないのか」  押し殺した声で、卓が話し掛けてきた。 「よう。今日から学校に来ていたんだな」 「ふざけんじゃねぇ!」  D組の教室が一瞬静まり返った。潮が引くように貞晴と卓の周りから人が去り、二人を遠巻きにした。  貞晴があえて話を逸らそうとしたことが、かえって卓を怒らせたようだ。 「さっき堀田から聞いたぞ。退部届なんて、なんのつもりだ」  卓の大声が教室に響いた。クラスメイトは一層息を潜めた。 「タク、そのことはちゃんとおまえに話そうと思っていたんだ」  貞晴は人目のないところで話がしたかった。卓を教室の外に連れ出そうと、右腕を掴むと卓はすぐさまそれを払いのけた。 「今話せよ」 「僕もできるなら部活動は続けたかった」 「だったら続けろよ。なんでいきなり退部なんだよ。俺への謝罪とでも言いたいのかよ」 「そうじゃない。これは、僕の問題なんだ」 「俺が怪我したことは、おまえのせいじゃないって言っただろ?」 「おまえの怪我に僕が関わったのは事実だよ」 「事故なんだよ! 柔道に怪我はつきものだろう」 「そう、事故だよ。だから、タク、おまえは僕の退部には関係ないんだ」 「なんだよ、それ。……なんだよ」  卓の声のトーンが下がって、再び教室はざわめき出した。 「座れよ」と貞晴。陽介の席を指差した。  卓は、まだ肩が疼くのか器具の上からかばいながら、陽介の席に座った。貞晴は、自分の席に腰掛けると、体を半身卓に向けてゆっくり話し出した。 「僕にとって柔道は、子供のころからやってきたものだし、生活の一部だとばかり思っていた。けれど……実は違うってことに気がついたんだよ。違和感を抱えていたことを誤魔化しながらやっていたと気がついたんだ」 「違和感って?」 「だれかを倒すってことが受け入れがたい」 「それが勝負だろ」 「その勝負に立ち向かっていく気持ちがもうないんだよ」 「勝負が嫌なら、大半のスポーツは出来ないぞ」 「遊び程度で済むなら問題ないよ。柔道部に所属している以上、それは無理だろ」 「もう出来ないのか、柔道が」 「相手と組んだとき、強く襟をつかめない。足も動かない」 「気持ちの問題だろ」 「そう。気持ちの問題だ。だから、僕の問題なんだよ」 「個人の問題だとして、その気持ちを乗り越えるのが大事なんじゃないか」 「乗り越える意味が、僕には見えない」 「少し時間を置けよ。そうすれば気持ちも変わるんじゃないか」  卓は、わずかな希望にすがるような目をして貞晴を見た。 「春休みの間、ひとりでずっと考えた。考えて、考えて、決めたことなんだ」  貞晴がそういうと、卓は片手で髪をかきむしりつぶやいた。 「なんでそうなったんだよ。俺が受身を失敗しなけりゃ良かったのか?」  貞晴は、卓から目を逸らし 「そうじゃない。卓はなんにも悪くない」 と言った。  しばらく二人は、互いに目を合わさずそのままの姿勢で黙っていたが、 「なぁ、タク。おまえなら分かってくれると思うけど、僕らみたいなでかい体の人間は、なぜか悪者扱いされてきたことないか?」 と、貞晴はぼそぼそと話し始めた。 「僕、小学校のころから体格だけは良かったから。同級生が怪我したとき、僕がそばにいたら僕は必ず責められた」 「……まぁな」 「相手が相撲をしかけてきて、断るつもりで避けたら相手が勝手にこけて捻挫。サッカーしていてゴール前で競ったら、相手が勝手にこけて腕を骨折。教室で数人が面白がって僕にかかってきたから、逃げていただけなのに一人が勝手にこけて怪我。同級生より少し大きくて腕力があるだけで、なぜか周りが怪我をする。そんなこと、一度も望んだことなんてないんだよ。だれも傷つけたくないから、教室では消えてしまいたかった」 「そうか」 「柔道はさ、道場に行けば上級生や僕より大きい人がいたから、まだ居心地は良かったかな」 「今はどうなんだ」 十一 放課後2 「小学生のときからせっせと道場に通ったからさ、だんだん上達してきたんだよね。そしたらさ、今度は周りが期待し始めて、だんだん苦しくなってきてたんだな」 「……」  卓は無言で貞晴の言葉を待った。 「自分の大きな体の存在の言い訳に、柔道を利用していることが苦しくなってきたんだよ」 「言い訳? 利用? なに言ってんだよ」 「そう、『なに言ってんだ、僕は』と思う。だけど、誰かを倒したいと一度も思ったことがない人間が、練習に没頭するためには理由が必要だったんだ」 「相手に勝ちたいと思って組んでなかったのか?」 「早く終わらせることだけ考えていたな」 「だから寝技は嫌いなのか?」 「三十秒は、果てしなく長いよ」  はぁ、と卓は深いため息をついた。いつの間にか右手で頬杖をついていた。 「俺、高校に入って、柔道部でおまえに出会ったときは本当に嬉しかったんだぞ。背格好が同じくらいのやつは、中学の部活にはいなかったからな」 と、卓は言った。貞晴が見ている方向を目で追いながら。 「タクとの練習は楽しかったよ」 「楽しい、か。……なんだよ、それ」  寂しそうに卓はつぶやいた。  いつの間にか、教室には生徒がほとんど残っていなかった。開け放たれた窓からは、吹奏楽部の部員たちがめいめいに練習している楽器の音が聞こえる。  突然、窓から強い風が吹き込んで、カーテンを高く舞い上げた。  卓は、腕時計で時間を見ると、力なく立ち上がり 「堀田は、まだ退部届は受理してないって言っていたぞ」 と言い残してD組の教室から出て行った。  窓際では、カーテンがまだひらひらと揺れていた。  貞晴は、しばらく雲の多い空を眺めていたが、のろのろと立ち上がるとまだ風の吹き込む窓を閉め、電気を消し、誰もいない教室を出た。  貞晴が校舎玄関を出ると、紺色の袴の集団が目の前を駆けていた。  その集団から一人が外れて貞晴に近づいてきた。陽介だった。 「よう、サダっち。話は済んだのか」 「……うん」  貞晴は、だれからも構われるのが嫌で顔を背けた。 「退部、いいんじゃねぇの。俺は、それでいいと思うぜ」  陽介が貞晴の横顔に向って言った。 「え? ああ。聞こえていたのか?」 「そりゃぁ、あれだけでかい声だったらなぁ、聞こえるさ」 「そっか」  「俺、あの時、格技館に居たんだよ。瀬川卓が救急車で運ばれた、あの時」 「え?」  貞晴が驚いて陽介のほうを向くと、腕を組んでまっすぐ貞晴を見ていた。静かで優しい目だった。 「あの日は剣道部の練習日じゃなかったんだけど、備品の整理で行っていて。ちょうど済んだとき、柔道部が試合形式で練習していたから眺めていたんだよ」 「見ていたのか」 「一部始終ね」  貞晴はなにも言えなかった。 「おまえが瀬川に技をかけて一緒に倒れこんだあと、瀬川はうずくまったまま動かない。それを前に、青い顔して立ちすくむおまえがいた」 「止めてくれ」  貞晴は声を絞り出した。 「あれから、おまえが部に顔を出していないことも知っているよ」 「止めろって」 「だから!」  陽介は貞晴の制止の声に言葉を重ねた。 「だから。俺は見ていたから。事故だって知っているから。その上で、おまえが退部を選ぶのもありだって言っているんだ」  陽介と貞晴の視線がぶつかった。 「俺が思うに、サダっちの手に入れたいものは柔道にはなかったんだよ。だから退部したっていいんだよ。おまえもこれが引きどきだと思ったんだろ?俺はそれを支持するよ」  貞晴は戸惑いながら陽介を見た。陽介の、貞晴の気持ちに踏み込んだ言葉は、貞晴が考える以上に、貞晴の気持ちを貫いていた。 「ありがとう」  貞晴はなんと言えばよいのか分からず、とりあえずお礼が口をついて出た。 「ばーか、礼なんて言うなよ。おせっかい言うな、ぐらい言ってみろ」  陽介はいつもの人を食ったような笑顔になっていた。  貞晴も緊張が解けて、いつの間にか笑顔になっていた。 「じゃ、言わせてもらう。おせっかいなんだよ、おまえは」  負けじと言い返した貞晴に、陽介は 「女に振られたみたいなしょぼくれた顔しておいて、よく言うぜ」 と、貞晴をからかった。 十二 レクリエーション委員補佐  新学期が始まって半月ほど経った。  祐子は、先日の体育の一件以来、クラスの女子生徒たちとはうまくやっているようで、昼食は萌たちと机を囲んで食べていた。  D組の教室では、陽介の普及活動により、ほぼクラス全員が彼のことを「ヨースケ」と呼び始めていた。そして、陽介がクラスメイトをやたらと呼び名で呼ぶので、その呼び方がD組内の標準になりつつあった。  それに一番困惑しているのは、貞晴だった。  陽介は事あるごとに「サダっち」「サダっち」と連呼するので、現在その呼び名の普及率は「ヨースケ」に次ぐ地位を築いていた。  陽介は、相変わらず貞晴の背中から突いてくる。貞晴の脇が弱いと知るや、脇を突いて体の大きい貞晴が身をよじるのを面白がっていた。  陽介の人を巻き込む性格は、陽介に人を引き寄せ、陽介が構う貞晴の周りにも常に人がいるような状態を作り出していた。教室では地味に目立たず控えめに、だれとも深く関わらず静かに過ごすつもりの貞晴の目論見は陽介によって崩されつつあった。  午後の授業が済んだ休憩時間に陽介と貞晴の席に憲太郎がやってきた。 「よう、コバケン。どした?」  憲太郎に陽介が声を掛けた。 「今日の昼休みに、レク委員の全体会議があったんだけどさぁ、俺、体育祭実行委員になっちゃった」  憲太郎は頭を掻きながら陽介と貞晴を見ていた。そして、中腰になって二人と視線の高さをそろえると、 「体育祭のときだけでいいから、レク委員のサブになってくれないかな。ヨースケとサダっちを見込んでなんだけど」 と頼んできた。  貞晴と陽介は顔を見合わせ、二人で憲太郎の顔を見た。お人好しの人柄が顔に滲み出ている。体育祭実行委員の役も断れなかったんだろうと思った。 「ああ、いいよ。サダっちが頑張ってくれるから」と陽介。 「ええぇ、僕?」 と、貞晴は慌てた。 「一人でやるのは大変だろうから、二人で分担してやってよ。詳しいことは、来週のレク委員会で分かるから」 と憲太郎が言うので、貞晴はそれをさえぎった。 「ちょっと待って。適任者は他にもいるって」 と言うと、憲太郎はにっこり笑い、 「いや、このクラスだったら、二人が最適任者だと思うよ」 と胸を張って言った。陽介も、 「しょうがないじゃん。コバケンは、もっと大変な仕事をやるわけだから、これくらい協力しようぜ」 と言った。 「まぁそうだな。二人でやるならいいよ」 と、貞晴がしぶしぶ承知すると、憲太郎はにっこり笑って 「じゃ、よろしくね」 と言い、自席に戻っていった。すぐに後ろから陽介が突いてきて、 「それでさ、俺、今、部が忙しいから、後はサダっちに任せるよ」 と言ってきた。 「なに?二人でやるんじゃないのか」 「そうだよ、二人でレク委員のサブだよ」 「なのに、『任せる』って何だよ。話が違うじゃないか」 「俺さ、剣道部の部長なんだよね。今、新入生が入って面倒みなきゃいけない時期なの。だから、サダっちに後をお任せしようかな、なんて思っています」 「『思っています』なんて丁寧に言ってもだめ。ヨースケだって引き受けただろ?」 「分かっているよ。必要になったらちゃんと手伝うからさ、安心しろよ」 と鷹揚に陽介は言った。貞晴は、陽介と憲太郎に担がれた気分だった。  その放課後、貞晴は売店に寄ると、その屋外に設置されている藤棚の下のベンチに数人の女子生徒が集まっているのが見えた。よく見ると、その中に祐子も混じっていた。その集団から「吉川くーん」と声がしたので振り返った。  祐子の隣に座る優衣だった。  見覚えのある顔だった。一応、知っている女子から声をかけられたので、今更無視するわけにいかず、まっすぐベンチに近づいた。  そこには、祐子と萌を含む4人の女子生徒がいた。  皆一様にカメラを手にしていたので、貞晴は、全員写真部の部員と察した。 「いい写真、撮れている?」  貞晴は誰にというわけでもなく話し掛けた。これが、貞晴の見せかけの人当たりの良さであった。  女子たちは鈴のように笑った。 「なかなかねぇ。学校の日常風景は変化ないから」 と、優衣が言った。 「そうそう、体育祭とか燃えるけどね」  そう付け加えたのは萌だった。優衣も萌も、高価そうな一眼レフのカメラを持っていた。 「ところで、文系のクラスはどう? 吉川くん」  なんの脈絡もなく優衣が問いかけてきたので、貞晴は戸惑いを隠せなかった。 十三 女子の事情 「どうって。普通だけど」  貞晴は口ごもりながらそう答えるのが精一杯だった。 「私、吉川くんは理系を選ぶとばっかり思っていたよ。数学、とても出来たのに」 と優衣が言った。 (そういえば、この人、数学の宿題のこと、よく聞きにきていたっけ。去年に同じクラスだった本間さん……)  貞晴は、忘れかけていた名前を思い出して、顔と名前が一致した。 「ああ。えっと。そう、文系にしたんだ」 「私も文系にしてD組になりたかったな」  優衣は口をアヒルのように尖らせていた。そして、 「だって、2年D組ってとっても雰囲気が良いんでしょ。男子と女子の仲が良いみたいだし」 と続けた。どうやら、優衣は萌と祐子からD組の様子を聞いているようだった。 「仲が良いって、一部だろ?」  貞晴は笑いながら言った。大体、だれのことを言っているか想像がつく。陽介とその周りの男子と萌たちのグループの女子生徒のことだろうと思った。 「吉川くんだって、去年と打って変わって女子に協力的なんでしょ?」 と、優衣が続けた。萌が隣で頷いている。 「どういうこと?」 と貞晴が聞くと、萌がすかさず、 「女子の体育の準備手伝っていたでしょ? 去年のサダっちはそんなことしたことないよね」 と言った。 「それに、去年は近寄りがたい雰囲気だったのに、今年はなんだか感じが違うな」 と、優衣が言った。  優衣と萌の論評に晒されてたじたじになった貞晴は祐子を見た。  すると祐子は、 「体育のことはね、レク委員の小林くんが吉川くんに頼んでくれていたの。吉川くんは、男子レク委員のサブだから」 と言った。 「そうだったんだ」と驚いた顔の萌。 「萌も知らなかったの?」と優衣。萌は、その言葉に頷いている。  驚いたのは貞晴である。貞晴が男子レク委員のサブを引き受けたのは、今日の午後のことである。先日の体育の準備で手伝ったのは、貞晴自身の意思だった。  貞晴は、祐子の真意が気になったが、帰宅のバスの時間が迫っていたので、 「帰りのバスの時間だから」 と言ってその場を去った。振り返ると、祐子が胸元で小さく手を振っていた。  翌朝、校舎玄関で貞晴は祐子とばったり出くわした。 「おはよ」 と、祐子は元気良く声を掛けてきた。 「……おはよう」と貞晴は小声で言うと、祐子はよく聞こえなかったのかそばに寄ってきて「え、なに?」と覗き込んだ。 「昨日のこと」 「?」祐子は小首をかしげていた。 「昨日、なんであんなこと言うの?」 「あんなことって?」 「僕が、男子レク委員のサブだってことだよ」 「だって、そうでしょ?」 「前の体育のときは、まだそうじゃなかった」  貞晴がそこまで言って、祐子は初めて貞晴の言いたいことが理解できたようだった。貞晴は続けた。 「あのとき遠藤さんを手伝ったのは、だれからも頼まれていないし、レク委員サブだったからでもないよ」 「だって、昨日は優衣たちがすごく追求していたし」 「だからって嘘はどうかと思うよ」 と言いながら、貞晴が靴を靴箱に放り込んでいると、 「もう、吉川くん。女子のこと分かってないな」 と、祐子は言い返してきた。それは、貞晴にとって予想外のことだった。嘘に罪悪感を感じない図太さに驚いたのだ。祐子は言葉を続けた。 「吉川くんが思っている以上に、女子の世界は大変なんだから。あのとき、吉川くんが私を手伝ったことに理由がなかったら、困るのは私なんだよ」  貞晴には理解できない説明だった。 「理由ならあるよ。人手が多いほど準備が楽にできて、早く終わるじゃないか」 「一番に手を貸してくれたのが吉川くんだったから、困っているんだよ」 「なに言っているんだか分からないけど」 「兎に角、吉川くんが良い人のお蔭で私は助かったけど、べつの面で困ったことになるかもしれないから、昨日のことは、そういうことにしておいてよ。ね」  祐子は軽く頭をかしげた。ポニーテールが軽く跳ねた。  祐子が先に廊下を走ってゆくのを見ながら、貞晴は、「なんだよ」とひとりつぶやいた。 十四 体育祭、準備開始  週が明けて数日経った放課後、貞晴のところに、憲太郎が祐子を伴って体育祭実行要領を持ってきた。そこには、開催日とともに競技種目と競技上のルールが記載されていた。  開催日は、5月下旬の金曜日だった。  開催まで1ヶ月ほどあるが、その準備期間が十分かそうでないかはレクリエーション委員の手腕にかかっていた。レクリエーション委員がやるべきことは、競技種目ごとの出場者の選定、応援合戦の内容決定およびクラス内の役割分担だった。いずれにしても、クラスメイトたちの合意と協力がなければ成立しないものである。 「ヨースケは部活動に行っちゃったから、悪いんだけどとりあえず遠藤さんと二人でどう準備を進めるか相談して、担任にホームルームの時間をもらうよう言ってよ」 と、貞晴に言うと、憲太郎は教室を出た。これから、体育祭実行委員と体育教官との打ち合わせがあるそうだ。  その場に残された祐子を見て、貞晴はそっけなく「座ったら」と言った。 「うん」と言って座った小さな祐子の後にワンテンポずれてポニーテールが追いかけている。 「なにかアイデアある?」 と貞晴が聞くと、祐子は小首をかしげて言った。 「各種目の出場者は、まずは希望者を募ったらいいと思う。足りなければ、レク委員が調整すればいいし。問題は、応援合戦なんだけど……」 「そう。何をして、誰にどんな役割を持ってもらうか決めないと」 「それから、応援旗も作らなきゃ」 「そうか。じゃ、応援旗作成班と応援パフォーマンス班に分けようか」 「そうだね」 「担任の大澤に、遠藤さんから言っといてよ。明日のホームルームで体育祭の準備について話し合いをしたいって」 「うん」 「司会も遠藤さん、できるよね」 「え?」 「この実行要領の説明もしないとね。それも、よろしく」 「え?」 と言うと、祐子は貞晴を見て黙ってしまった。 「なに?」と貞晴。 「なんで、そんな非協力的なの?」 と祐子は言った。 「協力的だよ。とても」と貞晴。 「違うよぉ。前は、もっと自分から進んで働いてくれたじゃない?」  祐子は、以前の体育の準備のことを持ち出してきた。 「あれは、小林くんから頼まれたってことになっているんだろ」 と、貞晴はよそのほうを見ながら言った。 「やだ、根に持ってる。なんで?」 「根に持ってなんかないよ。大体、僕はレク委員のサブだから」 「でも、これから体育祭までは主体的にやってもらわないと」 「それ、ヨースケに言ってよ」 「分かった。ヨースケ君にも言うよ。だけど、見損なったな、吉川くん」 「なんだって?」 「もっと、優しくて親切で、人のために頑張れる人かと思っていた」 「は?」 「始業式の日、なんて良い人なんだと思ったばかりなのに」 「え?」 「優衣が、『吉川くんは優しいよ』って言うからそうなのかとばっかり思っていたし」 「ユイってだれ?」 「本間さんのことだよ」 「なんで本間さんが出てくるの?」 「それは、優衣がそう褒めていたってことで」 「そうやって、あることないこと女子同士で言い合っているんだ」 「それは、違うよぉ」 「違わないよ。なんでも自分の都合よく脚色して言っているんだ」 「その言い方、ひどい」  祐子は怒った目で貞晴を見た。その瞬間、貞晴は我に返った。思いついたことをそのまま相手にぶつけるなんて、自分らしくないと思った。  実はこの数日、貞晴は祐子に対してもやもやとした割り切れない気持ちを抱いていた。  貞晴が体育の準備を手伝ったのは、クラスため面倒なことを引き受けてくれた祐子へのささやかな労いの気持ちであったのに、その気持ちをないがしろにされたような気がしていたのだ。 「……変なこと言ってごめん。明日は、僕かヨースケが司会をするよ。要領の説明は、悪いけど遠藤さんにしてほしい。僕らはレク委員の会議に出ていないから」 と、貞晴は怒った祐子をとりなした。祐子に嘘をついてもいいと思える理由があるなら聞きたかったが、それをこの場で追求するのは自分がしつこい人間のような気がして、聞けなかった。  貞晴の頭の中で、ひとりでハードルを準備しようとした祐子となにか小細工をする祐子が一致しなくて混乱していた。クラスメイトには極力無関心を努めてきた自分がそんなふうに他人のことを考えていることにも驚き、ますます貞晴は混乱していった。 十五 ホームルーム  翌日のホームルームでは、陽介が頼みもしないのに司会をしてくれたので貞晴はほっとしていた。人前で話しをするのは苦手だった。  陽介が司会で、祐子が競技と応援合戦の説明をし、貞晴は書記として壇上に立った。  貞晴は、チョークで文字を黒板に書きながら内心驚いていた。陽介の会話の巧みさは知っていたつもりだったが、大勢を前にしてその舌はますます滑らかになって、クラスメイトの関心を引くように話を進めていくさまは、感心するよりなかった。  陽介は、クラス全員を応援旗作成班と応援パフォーマンス班に分けると、ホームルームの残りの時間、それぞれの班で具体的な話し合いを進めさせた。貞晴は、レク委員サブとして応援旗作成班に関わることになり、応援パフォーマンス班は陽介が受け持つことになった。  貞晴は、教室の後方に集まった応援旗作成班のメンバーを見渡しながら彼らの雑談が静まるのを待った。そして、 「この中で、絵を描くのが得意だったり好きだったりする人、いるかな?」 と皆に向って聞くと、一部の女子たちが 「真紀ちゃんが、絵がとっても上手だよ」 「真紀ちゃん、漫研だしね」 と口々に言い出した。女子レク委員交代肯定派のメンバーたちだった。真紀は「やぁだ」と彼女たちの肩を叩くもののその顔はまんざらでもないようだった。 「山之内さん、もし良かったら応援旗の図案をデザインしてもらえるかな。もちろん、みんなで相談しながら決めてゆくことだけど、案がないと話もできないから」 と、貞晴が声を掛けると、真紀は俯いたまま「うん」と言った。  その後、応援旗を描くために必要な道具のことや細かい分担を決めて、応援旗作成班は解散した。  クラスメイトが散り散りになっても、真紀は教室の後ろのロッカーにもたれて考え事をしていた。 「どうしたの?」と貞晴。 「あ、ううん。どんな図案にしようか、ちょっと考えていただけ」と真紀。 「僕は、絵のセンスがまるで無いから、絵が描けるってことだけで尊敬するな」 と貞晴が言うと、真紀は赤い顔をして 「そんなことないって」 と謙遜した。そして、少し考えてから、 「吉川くんや和田くんのほうがすごいよ」 と俯いて言った。 「どうして?」 「だって、レク委員じゃないのに、こうやって皆をまとめているし」 と真紀は口ごもりながら言った。貞晴は、少し驚いた。そして、やはり真紀は女子レク委員を交代してもらったことを気にしているのだと思った。 「僕は小林くんから頼まれただけだし、目立つ仕事はヨースケがやってくれるからたいしたことないんだ」 と、貞晴は言い、一呼吸置くと 「山之内さんもデザインの仕事、引き受けてくれただろ。出来ることをやったらいいんだよ」 と優しく真紀に言った。  真紀は、さらに赤い顔をして「うん」と頷くと、「頑張る」と言って貞晴を見上げた。  そこへ、 「ねぇ、応援旗はどういった話になった?」 と言いながら、祐子が寄ってきた。貞晴は、横目で顔がこわばる真紀を認めたが、気がつかない素振りであえて明るく 「もう、ばっちり。持ち寄りの道具のことも決めたし、山之内さんが旗の図案を考えてくれるし」 と言った。  祐子も明るい声で 「そうなんだぁ。真紀ちゃん、ありがとう。かっこいいの、期待してるよぉ」 と言い、続けて 「旗のサイズなんだけど。こうなっていてね……」 と、体育祭実行要領を真紀に見せながら応援旗についての細かい決まりを伝えていた。  祐子は言いたいことを言い終えたら、「じゃね、よろしく」と言い残して、まだ数人残って話し合っている陽介たちのところに戻っていった。その後ろ頭では、いつもよりポニーテールがよく跳ねていた。 (犬の尻尾みたいだ) と思いながら、貞晴はそれを見送った。  週が明けて月曜日の朝、貞晴が自分の席に着席したとき、真紀が駆け寄ってきた。手元には、二つ折にした紙を持っていた。 「一応、図案ができたの」 と上気した顔で紙を貞晴に見せてきた。  その紙が開かれた瞬間、貞晴は「おおぉ」という驚嘆の声を抑えられなかった。  真紀が描いてきたのは、てっきりアニメのキャラクターだろうと思い込んでいた貞晴は、真紀とそのイラストを見比べずにはいられなかった。その図案は、本物そっくりのトラがいろんな動物を踏みつけているという、かなり攻撃的なものだった。 「うまいねぇ、山之内さん。すごいよ」  貞晴が思わず出した言葉に、真紀は顔を上気させていた。 十六 ブロック塀と写真   翌朝、貞晴がバス停から校門まで道を歩いていると、高校の裏手の塀の前で見慣れたポニーテールが揺れていた。  祐子が、人気のない学校の塀沿いの路地でなにかを熱心にカメラに収めていた。  貞晴はなにげなく近づいてみると、祐子は以前にも見せた蟹歩きでカメラを構えたまま塀に沿って動いていた。  貞晴は笑いをこらえつつ、 「遠藤さん、何か面白いものがあるの?」 と声を掛けた。すると、祐子は、「ひぃぃ」と軽く悲鳴を上げて貞晴のほうを向いた。 「ごめん、驚かずつもりはなかったんだ」  貞晴は、内心、前も一度こういうことがあったなと思いつつ慌てて謝った。 「吉川くんか。驚いちゃった」と祐子。 「何を撮っているの?」と貞晴。  祐子は、そっとブロックを積んだだけの塀を指差した。 「?」  貞晴にはその意味が分からなかった。その表情を見て祐子は付け加えた。 「あのね、こういうブロック塀のブロックってね、みんな表情が違うんだよ。知ってた?」 「……いや。知らなかったけど。つまり、遠藤さんはブロック塀のブロックを写真に撮っていたの?」 「そう!」  祐子は力を込めて言った。貞晴は、それで祐子が塀に沿って動いていたことに納得した。が、ブロック自体に被写体としての魅力があることには理解はできなかった。 「ところで、また、ファインダーを覗いたまま歩いていたね」 「えっ本当?」  貞晴の指摘に、祐子は驚いた顔をした。貞晴はその自覚のない祐子に驚いた。 「本当だよ。こうやってね」 と言いながら、貞晴は祐子の蟹歩きを真似てみせた。 「やだ。傍から見たら、そう見えていたんだ」 と祐子は少し顔を赤らめていた。 「前から、不思議だったんだけど、どうしてカメラを構えたまま歩くの?」 と貞晴が聞くと、祐子は少し考えて「自覚は無いんだけど」と前置きしてから、 「いつも思っているのは、ファインダーに撮りたいものが収まらなくて、それが悔しくて悔しくて。それで、対象を見る角度をちょっとずつずらしたり、焦点を合わせる位置をずらしたりして写真を撮ったらどうだろうかっていろいろ試しているんだよね」 「それで、いつまでもファインダーを覗いたまま被写体を追いかけているのか」 「そういうことになるね」 「でも、そんな撮り方、あぶないよ」 「うーん。つい目の前のことに集中しちゃうんだよね。私って」  眉を寄せて困った顔をした裕子を見て、貞晴は祐子がファインダー越しに何を見ていたのか知りたくなった。 「今撮った写真、見せて」 と手を出した貞晴に「下手だからね」と祐子は言い訳しながらもカメラを差し出した。  貞晴は、カメラのボタンを切り替えてカメラに収まっている画像を一枚ずつ見ていった。  最初は、ブロック塀の写真。ブロックと正対して撮った写真が延々と続いた。ブロック表面にできたシミやコケの様子やブロックとブロックを接着しているセメントの盛り上がりなど貞晴が気にとめたことのないものが画像として切り取られていた。それらが四角い枠いっぱいに収まっていることで被写体のブロック塀が実生活と完全に切り離されていて、先入観なくその質感を楽しめる写真になっていた。 「へぇ」貞晴は自然と声が漏れた。面白く感じて画像を次々に繰った。祐子は黙って貞晴を見上げていた。  登校の風景や自転車置き場の様子などを撮った写真を見て過ぎると、桜の写真が出てきた。 (なんだ、これは……)  貞晴が始業式の朝に見た白く雲のように浮かんだ満開の桜が、まるで違うものとして写真に収まっていた。黒い幹に焦点が当たって、白い花びらはそれを際立たせるための小道具のような扱いだった。祐子の目には湿気を吸って黒く光る幹のほうが魅力的に見えたようだ。貞晴の知らない桜であった。 「……どうかな」  待ちきれなくなった祐子が聞いてきた。 「ああ、ごめん。面白かったよ。どれも」と貞晴。 「ほんと? みんな、変な写真だっていうのよ」と祐子。少し嬉しそうだった。 「そろそろ行かないと間に合わないよ」  貞晴は、腕時計を振ってみせ一緒に行こうと促した。 「そうだね」 と祐子が答えたので、貞晴は来た道を戻ろうと歩き出した。しかし、祐子が付いてきいてる気配がなかったので振り返ると、祐子はまだその場にいた。そして、 「吉川くん。先に行っていて。私、後から行くから」 と、その場で手を振った。 「なんで。遅刻するよ」  「いいの。ちょっと用事があるから、先に行ってて」 と祐子は、泰然としてその場を動かなかった。 (用事があるなら、写真を撮る前に済ませたらよかったのに)  貞晴は祐子の言葉が不自然で気になったがそのまま一人で校舎に向った。 十七 貞晴サマ  案の定、予鈴が鳴っても祐子は教室に入ってこなかった。  貞晴は教科書を読んでいるふりをしながら教室の出入り口をずっと気にしていた。扉にはめ込まれたすりガラスに人影が浮かぶたびに顔を上げてはまた視線を教科書に戻す、ということを繰り返していた。  そして、1時間目の授業にぎりぎりのタイミングで祐子が慌しく教室に駆け込んできた。出入り口近くに座っているクラスメイトから「おはよう」と声を掛けられても、息が上がっていて笑顔で手を挙げるのが精一杯の様子だった。 (全力疾走か。校舎の裏から? まさかな)  貞晴は、肩で息をする祐子の様子を見ながら最初の考えを打ち消した。登校時に祐子と会ったところから校舎までは、1キロメートル近くはあるだろう。それを教科書が詰まったカバンを抱えて走るのはかなりしんどいことだ。 「マメ子、寝坊かぁー」  貞晴のすぐ前の席の矢野浩太が大きな声で祐子に声を掛けた。教室がどっと沸いた。祐子はすぐに振り返り、 「寝坊じゃないし。マメ子って止めてよ!」 と、大きな声で抗議した。 「なんだ。寝る子は育つのになぁ。それじゃいつまで経ってもマメのままだな」 と再び浩太が声を上げると、さらに教室が沸いた。 「もう! 矢野には言われたくないし」  祐子は握りこぶしを振って自席から浩太に言い返した。  まだ教師が来ていないことをいいことに教室がざわつき出したなか、「なんで、マメ子?」と貞晴が独り言のように口をついて出た疑問を浩太は聞き逃さず、勢い良く振り向くと 「エンドウマメ、子」 とゆっくり言った。にやっとして「ぴったりだろ」と付け加えた。 「でも……」  貞晴が言いかけたとき教室の前方の扉が開いた。教師が入ってきたのだ。教室はすぐに静かになり浩太も姿勢を直したので貞晴はそれ以上なにも言えなかった。  1時間目の授業が終わったとき、どんどんと足音が聞こえそうな勢いで祐子が浩太の席までやってきた。そして、 「マメ子って止めてよね!」 と張りのある声で言った。視線はまっすぐ浩太に向いていた。 「なんで」「いいじゃん」と浩太の周りに男子が集まり口々に言い出したので、 「ほら、こうなるでしょ。広がっちゃったらいちいち訂正できないから、今のうちに止めてよね!」 と怒った顔をして祐子が言った。 「オレ、可愛いと思うけどな。マメ子」  浩太が片腕をイスの背に回して鷹揚に言った。浩太の悪びれない態度に周りの男子もにやにやしながら成り行きを見守っていた。貞晴も自席に座ったまま、手元の教科書に目を落としつつ息を潜めて成り行きを伺っていた。 「私は嫌なの。冗談でも嫌なの。背が低いことは私にとって最大のコンプレックスだからそれはネタにされたくない!」  視線を浩太に向けたまま祐子は引き下がらない。それでも浩太は、「いいじゃん。本当にちっさいんだから」と悪びれる様子もなく笑っていた。  イスに座っている浩太よりやや高いぐらいの身長しかない祐子には、睨んでもそんなに迫力がないのは確かだった。浩太は祐子の反応を面白がっている様子だった。 「身体の特徴をあだ名にするのは止めろよ」  関わらないつもりだったが貞晴はつい口を出してしまった。その言葉に浩太の周りに集まっていた男子たちの雑談が止まった。浩太は少し驚いた顔して数秒貞晴の顔を見てから、 「なにも遠藤の身長を笑うつもりで『マメ子』って言ったわけじゃない」 と言った。 「矢野くんにそのつもりがなくても、相手が嫌ならもうその呼び名は使えないよ」  貞晴は表情を変えず淡々と言った。そばで祐子が力を込めて頷いていた。浩太は言葉に詰まり貞晴から目を逸らした。そして「……なんで、吉川がそんなこと言うんだよ」と呟いたあと、黙ってしまった。そこへ 「矢野ちゃん、こうなったら仕方ないじゃない。貞晴サマの言うこと聞かないと、英語も数学も助けてくれないよぉ。せっかく席が前後なのにもったいないじゃん」  陽介が貞晴と浩太の間に入ってきて、わざとおどけた声で言った。そして、周りを見渡して偉そうに胸を張って 「貞晴サマがマメ子禁止令発令。以上」  と宣言した。  「ちょ、ちょっと待てよ。貞晴サマって、禁止令ってなんだよ」と慌てる貞晴。 「マメ子禁止令だぞ、お前ら。これ以上マメ子は駄目だぞ、駄目なんだぞぉ」  さらに芝居がかった陽介の態度に一斉に笑い声が起こった。ただ一人、浩太は固い表情をしていたが。  自分の意見が通った様子を察した祐子は笑顔に戻り、貞晴の机に手を置くと身をかがめ小声で「ありがとう」と言い、周りの男子たちには「そういうことで、よろしく!」と元気良く言い残して自分の席に戻っていった。  ざわつく教室の中で、クラスメイトたちが「貞晴サマが」とか「貞晴サマの禁止令で」とかクスクス笑いながら言い合っているのが耳に入った。  関わらないつもりがいつの間にか渦中の人になっている状態に貞晴は動揺してしまっていた。 十八 オトコのコの気持ち 「こういうのって止めてくれよ! 『禁止令』って大げさなんだよ」 「なんで? 分かりやすくていいだろ」  そう答えた陽介に貞晴は腹立ちが抑えられなかった 「僕は、物事を茶化して話を大きくするのは好きじゃない」  貞晴は少し声を落として陽介に詰め寄った。貞晴がだんだん不機嫌な顔つきになってきているのを、陽介はまじまじと見ていた。周りの男子たちも困惑気味で様子を見ていた。誰一人として、貞晴が怒るということを想像できなかったからだ。いつもにこやかで親切な秀才、それが貞晴のイメージだった。大柄なのに威圧感がないよう、貞晴が長年苦心して身に付けたものだった。  陽介は貞晴の腕を掴むと教室の後ろの空間に連れていった。  「悪かったって。謝るよ。すまん。そんなにお前が怒るとは思わなかったんだよ」 「からかわれるのは嫌いだ」 「からかってない。感動したんだ」  陽介は小さい声で貞晴に話し掛けた。さらに声を落として、 「エンドウマメ子、小学生レベルだろ?」 と言った。貞晴は陽介が何を言いたいのか分からず黙っていた。 「矢野ちゃんはさ、遠藤に構われたかったんだよ」 「は?」 「ほら、気になる子のスカートめくる、みたいなもんだよ」 「話題を逸らすなよ。僕は茶化されるのも話を誇張されるのも嫌なんだ」  貞晴は我慢ならず口を挟んだ。 「お前が個人的に矢野ちゃんを注意しただけで終わらせたらたとえ矢野ちゃんが『マメ子』って言わなくなっても、もう教室中に広まった後だから考えのないやつはこれからきっと言うぞ。その都度遠藤が訂正するのも可哀相だろ。でも、禁止令ってことで大きい声で言えば、もうだれも遠藤の前ではそうは呼ばないだろう。たまたま、お前が良いこと言ってくれたからそれに便乗させてもらった。みんなから信頼されているお前からの禁止令ってことにしたほうがお互いに牽制しやすいだろうから。嫌な思いをさせて悪かった」 と少し低い貞晴にしか聞こえない程度の声で陽介は一気にしゃべった。 「僕ってアタマ悪いのかな」  貞晴は初めの怒りはどこへやら、真剣な顔で陽介を見た。 「え?」 「信頼とか牽制とか、話が繋がらないんだけど」  貞晴は本気で悩んだ顔をしていた。陽介は少しおどけた顔をして 「そりゃ、遠藤に構ってもらいたいやつらはたくさんいるだろ」 と言うので、貞晴は黙って陽介を指差すと陽介は慌てて「違うよ。オレは、違うから」と否定した。 「信頼って部分は?」と貞晴。 「お前、オレを差し置いてみんなに宿題を教えてるだろ。かなり好評だそ」と陽介。 「え、宿題? ああ。授業中に済んだ分を見せてあげてるだけね」 「オレに見せろよ。このオレに」 「だって、ヨースケは『忙しい』って言いながらさっさと部活に行くだろ」 「こんなに近いのに、オレは寂しいって言ってんだ、コノヤロ。そうだ、次の英語の分、ちょっと見せろ」  そう言うと貞晴の机の中を漁り出した。  わざと荒っぽく漁っている陽介に貞晴は自然と笑いがこみ上げてきた。茶化して誇張したのは陽介流の円満解決術だったことに一本取られた気分だった。  祐子のコンプレックスは貞晴のコンプレックスと表裏一体であり、自力ではどうしようもない部分を攻められたときの逃げ場のない辛い気持ちは貞晴には痛いほど分かった。祐子の言い分を聞かない浩太の姿に貞晴自身がいたたまれない気持ちになった。それでつい口を出してしまったのだか貞晴自身はその話をどう決着させるか考えていなかった。浩太が強情な性格だったら言い争いが続いて、余計話が大きくなっていたかもしれないのだ。 「英語のノートはカバンの中なんだよ。ほら、時間ないぞ」 「急かすんじゃねぇ。くそ、なんてこれがスラスラ書けるんだよ」  貞晴は楽しい気持ちでノートを写す陽介を眺めていた。  英語の授業が済んで、次の3時間目は化学の授業だった。理科実習室に移動をしなければならない。  貞晴と陽介と憲太郎が並んで歩いていると脇を祐子がすり抜けていった。追い越しざまに「さっきは、ありがとうねー」と言いながら長い廊下を駆けていった。 「なんだか、遠藤っていつも走っている印象があるよなぁ」  陽介が誰にともなく言うと、憲太郎が 「あれはわざとだと思うよ。走っていたら誰とも並んで歩かなくていいから」 と答えた。 「どういうこと?」 と貞晴が聞くと、再び憲太郎が 「去年に、男子と一緒に歩いていたことで部活を止めなきゃいけなくなったんだよ」 と答えた。 「ああそれ、知ってる。男子ハンドボール部の先輩だったんだろ」と陽介。 「何それ」と貞晴。  憲太郎が陽介のほうを伺うと、陽介は親指で貞晴を指しながら「こいつ、なんも知らんよ、多分」と憲太郎に言った。 「そっか、運動部の中では有名な話なんだぜ」と憲太郎が事の顛末を話し出した。 十九 うなじ  「去年のことなんだけど、ハンドボール部の3年生男子が遠藤を好きになってしまってさ、なんだかんだって付きまとってたんだよ。帰り道とか。でも、その先輩は当時彼女がいて、それがハンドボール部女子の3年生だったから、男子先輩と一緒に歩いているところを見られた遠藤は女子部員たちから部内イジメにあっていたわけ」 「イジメって、そんなことで……」  貞晴は絶句した。 「いや、女子の事情は難しいからな。一年生の部員は遠藤が被害者だと思っていたらしいんだけど、先輩には逆らえないからね。これ、陸上部のコの情報ね」 と憲太郎が補った。 「だからってシカトしてたら同罪じゃない?」と陽介。続けて、 「去年の秋ぐらいだったかな、遠藤が一人で大量のボールを運ばされたりユニフォームを汚されたり一人で学校の敷地外を走らされていたり。あからさまだったんだよな」 と呟いた。 「遠藤もさ、ああいう『妹キャラ』だから、ついその3年生の男子先輩になついたんじゃないのかな」と憲太郎。 「どうだろうなぁ……」  陽介は無表情で答えた。 「ちょっと待って。それ、本当のこと?」  貞晴は勢い込んで二人を覗き込むと、陽介と憲太郎は「ああ」「うん」とシンクロして頷いた。 「俺が思うに、なんか変な気を回してるんだよな。レク委員の会議に行くときだって『一緒に行こうよ』って誘ったら『後で行く』とかいうんだぜ。オレなんかと並んだって誰も文句言わねぇっつうのに」  笑いながら憲太郎が言った。  貞晴は、今朝、裏手の塀のそばで手を振って貞晴を見送った祐子を思い出していた。もしかしたら祐子は一人、あの場所で時間を潰してぎりぎりの時間に全力疾走して教室まで来たのかもしれない。カバンを抱えながら。 「なんでそこまでしないといけなんだよ」  貞晴はまた腹立たしい気分になった。それに陽介がすぐに気がついて 「お、今日はよく怒る日だな。サダッち」 と笑って言った。 「怒っているわけじゃないよ。ただ、理不尽だと思って……」と口ごもる貞晴。 「そうだよ。悪いのはとっとと卒業した先輩たちだ。もうそいつらはいないのにな」と陽介。 「まぁ、遠藤は可愛いからな。じっとしているとちょっかい出されるんじゃないか。男子から」 と憲太郎が言うので、陽介も「そうそう」と同意した。 「え?え?」  貞晴は二人を見比べながら言葉を探していると、陽介が 「ちがうよ。そんなんじゃねぇってさっき言っただろ」 と笑いながら言った。憲太郎も「ちがうって」とニヤニヤして言った。そして、 「1年生のときにそういうことがあったからさ、2年の新クラスでいきなり女子と対立するようなことをしたのは驚いたよ」 と憲太郎が続けて言うと、 「そうだな。根性あるよな、遠藤は」と陽介。  それには貞晴も内心納得した。祐子はしんどいことも納得した上で、やってやろうという気概があるように思えた。 「結局、部活を止めざるをえなかったんだね。残念だったろうな」と貞晴。 「ちょっとしごかれるくらいなら我慢できたんだろうけどな。きっと何かあったんだろ」 「何か知ってるの?」と憲太郎。 「や、なんとなくそう思っただけ」と陽介。  化学の授業中、貞晴は祐子のことを考えていた。  憲太郎や陽介から聞いた話は初めてのことばかりで改めて自分が同級生たちの噂話に頓着してこなかったことを知った。それも仕方がないことで、貞晴はまるで他人の振る舞いやその人物評価など興味がなかったからなのだが。  ただ、初めて聞いた祐子の去年の出来事は、いつもの彼女の笑顔と結びつかず、貞晴は戸惑っていた。陽介が言った言葉、「根性あるよな」というのが、去年のイジメと今年の笑顔を結びつけるキーワードなのかもしれないと思った。  そんな彼女の根性でもってしても、部活の継続ができなかったというのはどういうわけだろうかと思った。汚れたユニフォームのことを陽介が知っているということは、それを堂々と着て練習していたのだろうし、そんな彼女が部活を止めた理由を貞晴は知りたいと思った。 (それにしても……男子から人気があるんだな、彼女)  貞晴は、隣のテーブルでガスバーナーを触っている祐子を見て思った。その後頭部を眺めているとき、いつも目につく揺れるポニーテールより白いうなじを見ていたことに気づいて、貞晴はそんな自分に驚いて一人赤面していた。  祐子の側には萌がいて、自分に火を点けさせてくれとせがんでいた。 (そういえば、この二人は写真部だったっけ)  祐子と萌の仲良さそうな様子を見て、ほんの少し貞晴は気持ちが軽くなるような気がした。人と人が仲良くしている様子はなによりも気持ちが晴れることだった。 二十 恋心Ⅰ  その週のホームルームで、再び体育祭のことが話し合われた。  真紀が考えた応援旗の図案は、トラの毛色の黄色とD組のクラスカラーの黄色が同じということで、クラスメイトに概ね好評だった。さらに学年優勝への願いをかけて、トラが踏みつける小動物を他のクラスカラーに塗り分けようと提案したのは陽介だった。男子生徒の間でその提案は受けて、結局その案が採用されることになった。  体育祭の応援パフォーマンスは、長い昼食休憩の間に行われる。午後のクラス対抗リレーを控えての応援合戦なので、例年非常に盛り上がる。3学年通して全クラス二十一組あるため、それぞれの演技時間は準備と撤収を合せ4分と決められているのでさほど大がかりな事はできない。しかし、応援パフォーマンスも採点されクラスの得点になるので、どのクラスもインパクトあるものを目指している。  ホームルームが終わり、陽介たち応援パフォーマンス班の一部は、応援旗の図案と関連性のあるパフォーマンスにするため残って相談し直すことにした。  相談と言っても、仲間内でがやがやと雑談しているだけなのだが。  彼らを教室に残し、貞晴と真紀は体育祭実行委員会から配られる応援旗用の布を受け取りに教室を出た。  真紀は両手に色指定を書き込んだ応援旗図案を持っていた。応援旗で使う塗料は、体育祭実行委員会に必要量を申し込んで、後日配布を受けるのである。布を受け取るだけなら、貞晴だけでよかったが、塗料の注文は真紀でなければ分からないので一緒に来てもらっていた。真紀も喜んでついてきてくれた。  貞晴は、先ほどまで真紀が真剣な表情で図案の色を考えていたことを思い出していた。とても絵というものが好きで、少しでも良く仕上げたいという気持ちが伝わってきたのだった。  今、貞晴にはそこまでのめり込めるものはない。うらやましさを感じていた。  真紀と二人で廊下を歩いていると、向こうから優衣がやって来るのが見えた。  優衣はすでにこちらに気がついているようで、歩みを早めて近づいてきた。 「吉川くん! 今日は、これから部活に行くの?」 「いや、出てないんだ。部活」と貞晴。 「やっぱり辞めるの?」と優衣。  他のクラスの女子にストレートに訊かれて貞晴は内心動揺したが、先日、放課後に卓と言い争った件があるだけに噂になっているのかもしれないと思った。正直言って、自分のことを他人に取り沙汰されるのは嫌だった。貞晴が返事を言いよどんでいると、優衣はその質問への返事は期待していなかったようで、 「もし帰るまで時間があるんだったら、数学の問題で分からないところ教えてほしいんだけど」 と言ってきた。話し掛けてきた本題は退部のことでなくて貞晴はほっとした。  優衣は、傍らにいる真紀など存在しないかのように貞晴にだけ視線を向けていたので、真紀は気まずくなりそっとその場から離れていった。 「本間さん、理系でしょ。理系のほうが授業は進んでいるはずだから、僕が分かるかなぁ」 と、貞晴はとぼけた。しかし本当は、目の前の本間優衣よりは数学が出来る自信はあった。 「ちょっと見てくれるだけでいいから! あとでD組に行くからね。それじゃ」 と言い残し優衣はにこやかに去っていった。その際、少し離れていた真紀を軽く睨むことを忘れていなかった。  睨まれた真紀はすっかり怯えたような表情になり、少し可哀相に思った貞晴は 「大丈夫?」 と真紀に声を掛けると、真紀は少し驚いて、それから作り笑顔を見せて言った。 「吉川くんは、ほんと優しいよね」  貞晴は、その意味がよく分からないまま応援旗用の布を受け取って教室に帰ると、すでに優衣がいて萌と祐子とでおしゃべりしている最中だった。それでも優衣は、すぐに貞晴に気がついて寄って来た。 「こっち、こっちに来て。訊きたいのは、この問題なんだけど……」 と、優衣は待ってましたとばかりに貞晴を呼んだ。貞晴は、優衣に促されるまま2,3歩進んでからふと振り返ると、真紀がカバンを持って教室から出るところだった。 「山之内さん。ありがとう。お疲れさま」  真紀の背中に反射的に声を掛けると、真紀は振り返ってから、こわばった表情のまま俯いて「バイバイ」と言って教室を出て行った。真紀が振り返ったときに見ていた方向を貞晴が見ると、優衣が大きな瞳でじっと開け放たれた出入り口を見ていた。貞晴に見られていることに気がついた優衣は慌ててにこやかな表情を向けて 「さ、見て見て。この問題なんだけどね」  と手に持っていた問題集を側の机の上で広げて問題を指でなぞった。 「どれどれ……」  貞晴が身をかがめて優衣の指先を目で追って問題を読んでいるとき、優衣はもう一方の手で髪をしきりにかき上げていた。艶のある栗色の髪の毛が彼女の腕の動きに合わせて貞晴の視界で揺らめいた。優衣も隣で覗き込んでいたからだ。 (うっとうしいな) と思いつつ貞晴が顔を上げるとその動きに合わせて優衣も顔を上げた。にっこりと笑いかけてきたが、貞晴はその笑顔には応えず無表情のまま後方の黒板まで行くと、その場でコツコツと音をたてながら解答をチョークで書き始めた。  貞晴はすぐに集中の世界に入っていたので気がつかなかったが、貞晴が解答を書き終えて振り返ったときには、教室に残っている生徒全員が貞晴を注目していた。 「すごい、答え合っているよ!」  優衣の隣で解答を見守っていた萌が巻末の解答ページを見ながら叫んだ。 二十一 恋心Ⅱ  2年D組の教室で拍手が鳴り響いた。 「これ、●●大学の入試問題だよ!」  萌は大学の名を叫びながら興奮して問題集を上下に揺すっていた。隣で優衣はぼうっとした表情で「すごい」と呟いた。そして我に返ったように、急いでノートに解答を写し始めた。  優衣が黙々と書き写しているあいだ、D組の生徒たちは口々に驚嘆の声を上げていたが、それは、自分たちが苦手意識を持つ数学を難なくその場で解いたことに対しての驚嘆である。目の前で手品師が鮮やかに手品を披露したときにおこる喝采にも似ている。しかし、優衣はその喝采には加われなかった。問題集の巻末には略解しか掲載されていない。計算の途中経過も含め略解の2倍ほどのボリュームになっている貞晴の解答の凄さは、一度その問題で悩んだ経験のある優衣が一番分かった。  貞晴は、集中が解けた途端に拍手を受けて、一瞬状況が理解できなかった。  黒板から振り返ると、放課後にD組に残っていた生徒たちが口々に「すげぇ」「かっけぇ」と言い合っていた。  貞晴は、じつは優衣が示した問題を見て興奮していた。できると確信していた。問題を読んだ瞬間に最終解答への道が見えていた。ひとつひとつ要素を導きだしていく作業にわくわくした気持ちで頭を使っていた。  最終解答にたどり着いたとき、背後で「答え合っている」と叫ばれたとき夢から覚めた心地だった。夢中で問題を解いていた自分に気がついた貞晴は、急に恥ずかしくなって 「答えは合っているみたいだし、僕はこれで帰るよ。それじゃ」 とその場を離れカバンを掴むと教室を出た。  そのとき貞晴の背後でだれかが「なんで吉川って文系なんだ?」「そうだよな」と話している声が聞こえた。  貞晴が逃げるように廊下を歩いているその背中に優衣は 「ありがとう」 と声を投げかけたが貞晴は何も応えずにそのまま廊下を曲がっていった。  優衣が廊下に身を乗り出している後ろから萌と祐子が様子を覗き込んでいた。優衣は、貞晴に無視されたことにショックを受け、つぶやいた。 「私、迷惑だったかな」 「きっと聞こえなかったんだよ」と萌。 「もしかしたら予定があって、急いでいたのかも」と祐子。 「だったら余計悪いじゃん」と元気なく扉に寄りかかる優衣。 「ちょっと、祐子」と萌が軽く祐子の二の腕を叩くと「そんなことないって。予定があったら先に言うよ。単に聞こえなかっただけだから、明日改めてお礼を言ったらいいだけだって」と優衣の肩に手を置いて慰めた。 「そうだよ、優衣ちゃん。私は、考え事でもしていて優衣ちゃんの声が聞こえなかったんじゃないのかなっていう意味で言ったんだよ」 と祐子は優衣の前に出てきて弁解した。 「そうだね。あまり深く考えず、明日またお礼いうわ」  優衣は慰める二人に笑顔を作って向けた。そして 「これでまた吉川くんと話すチャンスができたわ。さて、萌、祐子、一緒に帰る?」 と今度は本当の笑顔で二人に笑いかけた。 「ごめんね、私、体育委員だからちょっと用事があるんだ」 と祐子は小首をかしげて言った。優衣と萌は「そっか」とあっさり言うと、二人で帰りの寄り道先を話し合い始めた。  優衣と萌が教室を出たのを見送ったあと、祐子は黒板に書かれた貞晴の解答を見つめていた。そしておもむろにカバンからデジタルカメラを取り出すと、黒板に向ってシャッターを押して再び黒板を見つめた。  萌と優衣は帰る途中にハンバーガー屋に寄り、シェイクを片手におしゃべりに興じていた。 「やっぱり納得いかないんだよね」と優衣。 「なに? サダッちの解答のこと?」と萌が聞くと、 「ちがうよ、あれは完璧だって。そうじゃなくて、吉川くん自身があんなに数学が出来るのに文系を選んだってことよ。なんでだと思う?」 と、優衣は聞き返してきた。 「さぁ、なんでだろうね。少なくとも、志望学部の入試に理科2科目が必要ないってことなんじゃない? 志望先が文系学部ってことなのかな」 「でもね、去年の二学期の期末テスト前に私、吉川くんに聞いたんだもん。理系と文系、どっちって。そしたら、『理系』て、あっさり答えていたよ」 「ああ、その話ね。覚えてるよ。だから、優衣はそれから理科を頑張ったんだよね」 「私のことはいいんだけど。その言葉が嘘って思えないからさ、その時点ではサダッちは理系に進む気マンマンだったと思うんだよね」 「嘘じゃないかどうかは分かんないよ」 「嘘つく理由がないじゃない! どうせ2年に進級したら分かることなんだし」 「そりゃそうだ」 「だからさ、私が思うに……」  いったん優衣は思案顔になって言葉を切った。 「思うに……?」萌もつられて復唱して優衣の顔を覗き込んだ。  優衣は一大決心を述べるような顔つきで萌に近づいて、小声で言った。 「文系クラスにさ、吉川くんの好きな人がいるんじゃないのかな」   二十二 恋心Ⅲ  萌は一瞬絶句して、優衣の顔を見た。そして、 「どうかなぁ」 と大きな息を吐きながら言った。優衣に同意しかねたからだった。 「なんで? そういう可能性もあるってことよ」 「でもさ、うちの高校、文系はクラス数が多いよ? 文系選んだからってそういうコと同じクラスになれるとは限らないし……」 「同じクラスになれなくても、共通の話題はできるよ?」  優衣は自分の考えに固執してそこから離れられない。 (それは優衣の考え方だよ……)  萌は内心そう思いながら、気弱な顔をした優衣にきっぱりと言った。 「私はね、サダッちってそんなことで進路を決めるタイプじゃないと思うよ。去年、同じクラスになって、頭のいい人ってこういう人のことをいうんだってつくづく思ったもの。もっと先を見て、将来のために文系を選んだんだと思うよ。大丈夫だって。きっとそんな子いないよ」  萌が断言すると、優衣の表情がみるみる明るくなった。それでも口では「そうかな?」と言うので萌は、「そうだよ」と念を押した。そして、続けた。 「私はさ、高校に入るまで成績良かったし、正直言って自分のことを頭がいいと思っていた。でもね、サダッちを見ていると自分の凡人ぶりを思い知らされて嫌になる。はっきり言って、あの人はうちらとはレベルが違う人だよ。見えているものが違うような気がする。だからさ……」  そこまで言って萌は口ごもった。 「何? 何よ」と優衣。続きが気になって急かした。 「だからさ、そもそもサダッちって、高校生活とか恋愛とかに興味があるのかなって」 「なに? そもそも、私たちと前提が違うってこと?」 「だって、バレンタインデーの日にち知らなかったじゃない! しかも『なんで?』とか言って誰からもチョコを受け取らなかったらしいし」  萌は優衣の反応を伺うように見た。 「たしかに」と優衣。空を仰いで、2ヶ月ほど前の苦々しいバレンタインデーのことを思い出していた。優衣は手作りチョコを貞晴に渡そうと用意していたものの、先に手渡しをアタックした子が断られているのを見て渡す勇気を失ったのだった。後日、貞晴が二月十四日がいったい何の日であるかも、その一ヵ月後に何があるのかも知らない人であることを知り、優衣は脱力したのだった。  少し間を置いて、萌は優衣に言った。 「改めてサダッちのことを考えてみると、まるで俗世と隔離された僧侶みたいなんだよね。あえて人と関わらないようにしていて、彼の周りに空白地帯があるように見える」 「でもさ、今年はヨースケ君とか小林君とか周りにだれかいるじゃない。レク委員の代わりもしてるんでしょ?」 と優衣が言うと、萌は 「そうなのよ。だからビックリしてんのよ」 と言った。 「そうだよね、それに『サダッち』って呼ばれるなんて去年では有り得なかった」 「あだ名で呼ばせるスキがないっていうか」 「そうそう」  うんうんと頷きながら優衣は言った。そして「それが今年は雰囲気も変わって、さらに感じが良くなってイイよね。廊下でさ、ヨースケ君とじゃれていたりするのか可愛くて」と笑顔で言った。  その笑顔に萌の胸はちりっと痛んだ。 「ほんと、変わったよね」  萌のほうが毎日教室でその様子を見ているのだ。俗世に無関心な僧侶がいきなり修行を放り出して町民暮しを始めたような変化にはとっくに気がついていた。 (ほんとに変わった。あんな緊張感のないアイツ、去年は見たことなかったもの) と、萌は心の中で思いつつ、 「なんで、あんな、とらえどころの無い人がいいの?」 と、優衣に聞いた。優衣は躊躇せず 「そういうところがミステリアスでいいんじゃない? 頭はいいし、スポーツできるし、背は高いし、顔も私好みなの」  と言い切った。  萌はさらなる胸の痛みを感じて、自分の質問に軽く後悔をした。それでも、 「そうね、優衣は頭のいい人が好きなんだよね」 と努めて良き理解者を装った。 「そう、そして親切で優しい人が好きなの」と優衣。 「確かに親切だよね。だれにでも」  萌はさして深い意味を込めずに言ったがそれに優衣が反応した。  「でも、だれにでも優しいのは嫌なんだよね」  優衣はしょげた顔をしてみせた。 「どうしたの?」  萌は優しく、出来るだけ優しく優衣に言った。  この弱くて動揺しやすい優衣のことが、萌は好きでしかたなかった。優衣が困ったり、悩んだりしたときに優衣の心に触れられるのではないかと期待して、想いを込めて言葉をかける。期待がそのまま叶えられることがないことをわかっていながら、自分の言葉で優衣が笑顔になるのが幸せで、気持ちを込めずにはいられなのだ。 二十三 萌の気持ち  そんな萌の気持ちをまるで知らない優衣は続けて言った。 「あの山之内って子。今日、廊下でやけに嬉しそうに吉川くんと歩いていたんだよ。吉川くんも親しそうに話していたし」  優衣の不安がぽろりとこぼれ出た。 「ああ、真紀ね。うちのクラスの応援旗をデザインしてくれているのよ。サダッちも応援旗の担当だから、仲良くなっても仕方ないかな……」  萌はあえて優衣の不安を煽ることを言った。不安になって、もっと自分を頼ってくれればという期待があった。    実際、萌も真紀の態度の変化に気がついていたので、今後貞晴次第で本当に仲良くなる可能性もあると思っていた  しかし、それをいちいち優衣には言わなかった。彼女が不愉快になることを率先して口に出せば、優衣は萌から離れていくとわかっていたからだ。萌ができることは、現実にたがわない程度に優衣の不安を煽るくらいだった。 「えー、そうなのぉ? やっぱりクラスが違うってハンデだわ」  優衣は、テーブルに両腕を載せて突っ伏していた。優衣の目に見えて落ち込んでいる様子を見て、萌はその手を握りたくなってとっさに思いとどまった。自分の手の平に汗をかいていることを感じた。すぐに平静を装い、 「大丈夫だって。これから体育祭の準備があるでしょ! どこのクラスでも放課後に大勢で残ってにぎやかに準備するんだし、そのときにD組に遊びにくればいいんだよ」 と、優衣に言った。そして、「それに、体育祭当日だって応援したり差し入れしたりできるし。もっと近づくチャンスだよ!」と心にもない励ましを言った。  その言葉に優衣は、大きな眼を潤ませながら顔を上げて萌を見た。 (この顔、可愛い)  萌はどきりとして優衣を見つめ返した。優衣は笑顔になると 「そうだね。萌の言うとおり。体育祭で応援しているのも知ってもらえるよう、来月からは放課後に萌のクラスに通うわ」 と言った。  萌は内心馬鹿なこと言ったと思いつつ、その笑顔に見とれていた。  ハンバーガー屋で優衣と別れてから、萌は自転車をこぎながら気が重たくなってしまった。優衣は、萌との関係は何でも話し何でも聞く間柄だと思っている。それはそれで嬉しいことだが、自分が同じ気持ちの振りをするたびに嘘が積み重ねられるのだ。  帰り際、優衣にお礼を言われた。貞晴に好きなコがいるのではないかという疑いを萌が完全否定したことについてだ。「萌の言葉はいつも私を安心させてくれる」と言われて舞い上がり、その後一人になったとき自己嫌悪に陥った。 (安心なんてさせてない。不安がらせているのに)  優衣がそばを離れないよう、自分の存在価値を高めようとして優衣の不安な気持ちに付け込んだ自分が後ろめたかった。そして、そんな自分が嫌いでしかたなかった。  萌は自転車で帰る途中、信号待ちをしているときに三つ網にした自分の髪の先をつまんでいじった。くせっ毛の髪。まとまらなくて縛るしか整える術のない髪。優衣の柔らかくて素直な髪とは大違いだった。ずれた眼鏡を直す。レンズの奥の細い目はとくに好きになれなかった。  もともと外見に強いコンプレックスを持つ萌は、自分の持たないものを持つ優衣に強く憧れた。光に反射する優衣の髪、長いまつげに縁取られた大きな眼、そしていやみのない高さをもった形良い鼻など、どれをとっても萌には可愛らしく好ましく思えた。さらに、親しくなるにつれ自分をなにかと頼る優衣と離れたくない気持ちを持った。自分が憧れる存在から頼られるのは、身が軽くなるような心地よさがあった。そして、いつの間にか、萌の心の中には(優衣の隣にいるのはつねに自分でありたい)という欲求が生まれたのだった。  しかし、その欲求を満たすために自分自身がする行為の浅ましさに、苦しむようになってきていた。大好きな人に対して、自分のエゴで不安な気持ちにさせることは良くないことだと分かっていたが、分かっていながらつい優衣を追い込む自分が嫌だった。  写真部で副部長を決めるときも、優衣と琴子は萌を推薦した。しかし、萌は優衣がいかに副部長に適役かを皆の前で語り、優衣がやるべきだと訴え、結果萌の思うように事が運んだ。去年以上に優衣が萌を頼る構図が出来上がったのだ。  下心のある本当の自分を優衣に知られたくない。隠し通さないといけない。だけど、辛い。そんな葛藤を繰り返す毎日だった。  そのころ貞晴は、自宅の最寄のバス停に降りたところだった。  自宅までは、そこに置いてある自転車を使いさらに十分ほどかかった。街灯もほとんどない田舎道を走ることにも慣れた。柔道漬けだった去年は帰宅が午後九時を過ぎることも度々あって、そんなときは闇の塊に自分が溶け込んでいくような気分になったものだった。  去年と打って変わって夕食に間に合う時間に貞晴は帰宅できるので、両親と食卓を囲んで食事を取っていた。両親には春休み中に柔道部を止めることを伝えてあるので、食卓にはいつも3人分が用意されている。  しかし3人揃ったからと言って格段に食卓がにぎやかになるわけではない。貞晴も貞晴の父、耕一も積極的に話をするタイプではなかったので、母の杏子が何か雑音を起こす程度のどうでもいい話をして食事は過ぎてゆく。 二十四 貞晴の気持ち  耕一は、地元に代々続く寺の僧侶として、日々檀家の葬儀や法要に追われていた。杏子も裏方として寺の雑務一切をこなし、檀家との付き合いに気を配る毎日だった。夫婦二人三脚で寺を途切れさせないよう頑張る姿を幼いころから貞晴は遠巻きに見るだけだった。  貞晴は小学校に上がってからは柔道の練習に明け暮れていたので、落ち着いて家族の側にいた記憶がない。高校2年生になって初めてその側に近寄れたような気がするが、今更なにをどうしていいのか、何をしゃべっていいのかも分からない。「部活を止める」とか「2年には文系を選択する」という必要なことは伝えられても、それ以上のことを二人に語ることは難しかった。  なぜなら、語る役目を別の人間が担っていたから。  貞晴には、兄が一人いる。5歳年上の祥明だ。兄弟なのに喧嘩をした記憶のないことに、貞晴は時折驚く。彼もまた、貞晴が遠巻きで見ていた対象の一人であった。  貞晴が物心ついたときから、祥明はだれとでもよくしゃべる子供だった。そして長男の常であるが、跡取りとして扱われそれを当たり前として受け止め、若干の責任感から積極的に両親に関わりその傍らで遊び学ぶことを許された存在だった。貞晴は彼らと家族であるのに、いつの間にか寺院に出入りする他人に混じり、「お坊さんの家族」を見ていた。  なぜかそこで祥明は、貞晴の気持ちや行動を話題に持ち出した。しばしばそれは的はずれであったが、貞晴にはいちいち抵抗する気持ちはなかった。幼い当時の5歳の年齢差はそういう抵抗感さえも起こさなくなるほど大きなものだった。  貞晴がこの家庭で身に着けたものは、兄が言いたいことを言いたいようにいわせておくということと人相手の商売で心身ともに疲れている両親に心配をかけないように振舞うことだった。  大勢の人が集まるときは檀家の子供たちと遊ぶこともあったが、なにかあれば結局体が大きい上にその寺の子である貞晴が怒られることになるので、いつしか貞晴はそういう子供の集団から離れ一人でできることに没頭するようになった。それは、読書とドリルだった。特にドリルはクイズを解くように面白がってやっていた。どんどん解けるので杏子は難度の高いものも与えていった。物を言わない子供がたまに示した興味を、忙しさであまり構えない自責の念を持つ親がそれぐらいは好きなだけやらしてやろうと過剰に与えてしまった結果、貞晴は兄の宿題も解けるようになっていった。  だからといって、親への義理立てでドリルをやっていたのではなかった。貞晴は特に数字を使ったものが面白く感じていたのだ。算数が数学に姿を変えてますます貞晴の興味を引いた。そのころから貞晴は、いくつか上の学年で学習するはずの内容の参考書を自分で買い、ひとり黙々と解いて遊ぶようになっていた。  自分で(数学が好き)と自覚したのは、中学生のときに担任から(数学が好きなんだね)と言われたことがきっかけだった。数学のことをもっと知りたいと思ったり解いているときは時間があっという間に過ぎたりする、と何気なく面談のときに担任に話したら、そう言われた。好きとはこういうことなのか、と初めて知った。  貞晴にとって「好き」とは難しい感情だった。父の耕一が食べ物の好き嫌いを許さない人だったので美味しいと感じなくても嫌いになることはできなかった。いったん嫌えば、それを口にすることが苦痛になるからだ。嫌うという感情を心の中の小さな箱にしまうような感覚で、貞晴はその感情を視野に入れないようにすることに成功した。しかし、嫌うことを禁じた貞晴にはなにかを猛烈に好むということもできなくなってしまった。食べ物に関していえば、大好物のものができればそればかり食べたくなってしまう。しかし、他人と食事をする機会が多かった貞晴には、美味しいものに手を出すことを遠慮する気持ちが先立ち残り物を食べることが多かった。残り物といっても十分あるからけして飢えた記憶はないが、好きなものだけで満腹になった記憶もなかった。それでも満足する心を持つ術は、嫌いなものを作らないと同時に好きなものも作らないという気持ちの処し方だった。  唯一、貞晴が快いと思うもので満腹になるまで楽しめたのが数学だった。解ければ楽しく達成感に満たされた。解いてももっと難しい問題があったので、興味は尽きることがなかった。中学校のとき覗き見た兄の高校数学の教科書はカッコいいと思った。さまざまな公式がシンプルで綺麗に見えた。その数のルールを自分でも使えそうに思って挑戦して何なく使えた。それからますます貞晴は数学に愛着を持った。  食事が終わり貞晴は自室に戻り。ベッドに横たわった。今日の放課後に優衣に示された数学を解いたときの快感が蘇ってきた。思いついて机の上の数学の参考書を開いて問題を解こうとして、すぐに止めた。これがなんになるのだ、という気持ちが沸き起こってきたからだ。  去年の年末に、祥明が行方不明になった時点でもう貞晴の進学先はほぼ決まったようなものだった。仏教系大学に進学し寮から通う祥明が、授業にも出ず寮にも帰らない状態が明らかになって貞晴の身辺はあわただしくなった。それまで檀家のだれも貞晴が何をしようが何になろうが気に留めていなかったのに、そのときは一斉に注目が集まった。貞晴には(もしものときは……)という大勢の心の声が聞こえるようだった。ただ、父の耕一は結論を急ぎはしなかったし、祥明が見つかってから父一人で話をしに出向き、兄の「寺を継ぎたくない」という意思を聞いたあとでも貞晴に僧侶になることを強いたりしなかった。母の杏子も同様であった。それが貞晴の気持ちを大きく揺さぶった。  そして貞晴は、ひとりで考え結論を出した。美味しいものだけで満腹にならない人生でもいいじゃないかと。大学は仏教系にしようと決めた。 二十五 一本早いバス  貞晴は再びベッドに寝転がった。木目が黒く浮いている板張りの天井が視界に入る。ところどころしみも付いている。壁はいまどき珍しい土壁で、あちらこちらに傷が付いている。貞晴はポスターを貼りたいと思わないので土壁でも不満はないが祥明が家にいたころは弟相手に壁に対する文句をずいぶん口にしていた。  再び今日の放課後のことが脳裏に蘇る。「なんで文系なんだ?」帰り際に背後からか聞こえた声がエコーのように頭に響く。「仏教系の大学にいくからなんだよ」と小さな声で呟いてみるも、その答えは貞晴をなんだか悲しい気持ちにさせた。  貞晴の家は古い木造建築で、長年の時の経過がいろんなところに見て取れる。ふと祐子のことが思い浮かんだ。彼女がカメラのファインダーを覗く姿を思い出し、少し頬が緩んだ。貞晴は寝転んだまま、両手の親指と人差し指で長方形を作りカメラのファインダーを覗くように指と指の間から天井や壁を見た。見慣れた景色も写真のように切り取ってしまえば新しい解釈で見ることができる、自分の生活も過去や未来から切り離して見ることで、また違った解釈で過ごせるのかもしれない、と思った。ただ、自分がそういった見方ができるかどうかは自信がなかった。祐子のように、目の前のものの魅力を感じて無心に写真を撮るようなことが自分にできるとは思えなかった。  次の日の朝、貞晴はいつもより早く目覚めてしまったので、一本早いバスで登校することにした。バスに揺られながら、貞晴は祐子のことを考えていた。祐子は朝に写真を撮っていることが多い。もしかしたら、学校のどこかで会えるのではないかと思った。もし会えたなら、いろいろ話がしたかった。なぜ桜の幹を撮るのか、なぜブロック塀を撮るのか。祐子はカメラのファインダー越しに何を見ているのか。何を思っているのか。祐子なら、予想を超える答えが返ってきそうで楽しみに思えた。  果たして祐子は今日も学校の敷地の裏手にいた。以前、ブロック塀を熱心に撮っていたところだった。今日の彼女は側溝に屈みこんでいる。見るからに危なそうだった。その背後に近づいて貞晴は迷った。急に声を掛けたら驚いてしまうだろう、どうしよう、と。ふと思いついて、貞晴は足元の小石を蹴って側溝に落とした。  ぽちゃん。  大きくもなく小さくもない音が響き、水面にいくつもの輪を描いた。  それを見ていた祐子はゆっくりと視線を上げて貞晴を見つけた。 「あ、吉川くんだ!」 「おはよう、遠藤さん」  自分の予想が当たって貞晴は嬉しかった。同時に確信した。祐子は撮りたいものは早朝に撮っているということを。放課後に部員と集まって、一緒にカメラを触ったりはするのだろうがそのときは撮りたいものを撮っていないのだろうと思った。 「あれれ、今日は早いね。なにか用事でもあるの?」と祐子。 「いや、そういうわけじゃなくて。早く目が覚めたから早く来ただけ」と貞晴。 「そっか」  そういうと祐子は貞晴を置いて歩き出した。貞晴はその後ろを付いていく。 「今日は何を撮っているの?」  祐子はカメラを構えたまま、 「んー。溝のね、内側が面白いなと思ってさ」 と言いながら答え、少し体を硬くしてシャッターを切った。そしてカメラから顔を上げると、側溝の内側を指差して、 「底はあんなに汚いのに水面は角度によってとても綺麗に反射しているの。ほら、この角度、鏡みたいでしょ。それに内側の側面に草が生えているじゃない。だらしなく垂れているのが面白くて」 と言った。  「なんでも面白く感じるんだね」  少し離れた位置から貞晴は声を掛けた。彼女のファインダーに入らないように。 「なんでもじゃないけど。変かな?」と祐子。ファインダーを覗いたままだ。 「全然。変じゃない」と貞晴。祐子ははっと貞晴を見て、はにかみながら「写真は好き?」と聞いた。貞晴はどきまきしながら頷いた。嘘をつくには少し勇気が必要だった。  再び祐子は歩き出した。貞晴は一定の距離をとって付いていった。祐子が振り返って少し笑った。貞晴もつられて笑った。貞晴が何も言わないので祐子はまた歩き出した。今度は少し早い速度で。貞晴も少し歩みを速めた。途端祐子が振り返った。今度は少し困ったような顔をしていた。 「あの、なにか用かな?」 「邪魔はしないから。写真を撮っているのを見ていたいんだけど」  貞晴はとっさに言ってしまったがこれは本心ではない。少し祐子と話がしたかった。 「ごめんね。人から見られていると思うと、カメラを楽しめないの」と祐子。 「僕のことは気にしないで」 「気にするよ。側にいられたら」 「だれかに見られるのが嫌なの?」  貞晴は話したいことから会話がずれていくことを感じながらも聞いてしまった。  祐子は少し間を置いてから、小声で言った。 「そう、嫌なの」 「それは、去年のハンドボール部でのことがあるから? だったら、僕は大丈夫だよ。もめるようなことにはならないよ」 「どうしてそうだと吉川くんが分かるの?」 「え?」 「私、今日は写真撮るのは止めるわ。じゃこれで。先に行っているから」  祐子はそういうと道端に置いてあるカバンを掴むと走り去っていった。   二十六 追いつ追われつ  2年D組では放課後に応援旗用の布に下書きの作業をすることになっていた。  まず応援旗の全体を十六等分にして、それぞれのパーツに対応する下絵の拡大コピーを見ながら手書きで写していく。かなりアバウトなやり方だったが、細かいところやバランスは真紀が後で修正することなり、まずは人手のかかることを応援旗作成班で作業することになった。  祐子がてきぱきと残ったクラスメイトに指示を出したので、みんなが教室の机を全部後ろに下げあっという間に床で作業できるスペースができた。そこに応援旗用の布を広げ、貞晴がみんなに下絵のコピーを渡して作業が始まった。  貞晴は祐子に今朝のことを謝りたかったが、昨日の放課後、貞晴がクラスメイトの前で数学の難問を解いてみせたせいで休み時間になると誰かが寄ってきて「ノートみせて」とか「これ教えて」とか聞いてくるので祐子に話しかけるタイミングを逃していた。ただ、貞晴としては謝るといってもなぜ祐子が写真を撮ることを止めてしまったのか本当のところが分からないので「邪魔してごめん」と言うのが関の山だったが、とにかく祐子に謝り、改めて話しをしたかった。  祐子は貞晴と離れたパートを受け持って作業していた。貞晴はそれを横目で見ながら自分の担当パートに線を入れていたが、絵心のないうえに祐子のことを考えながら作業していた貞晴にはさっぱりうまく線が引けず一人困っていた。すると真紀がそばから「こうしたらいいよ」と手を出して線を補ってくれた。 「ありがとう。山之内さん、やっぱりすごいね」 と、貞晴が心から感心していると 「そんなことないって。どうせ色を塗るから大雑把でいいよ」 と真紀ははにかみながら言った。  その瞬間、貞晴がふと祐子のほうを見ると祐子本人としっかりと目が合ってしまった。貞晴が真紀と話しているところを見られていたのだった。祐子は無表情のまますぐ下を向いて作業を始めたが、貞晴の心中は穏やかではなかった。なぜだか分からなかったが、祐子にだけは自分が他の女子と仲良く話をしているところを見られたくないという気持ちが起こった。  貞晴はすぐさま立ち上がると祐子の側に言って 「ちょっといいかな」 と声を掛けた。祐子は 「今、下絵書いていて忙しいし」 とそっけなく言うので貞晴は隣にしゃがむと 「今朝のことだけど」 と切り出した。すると祐子は貞晴を無視して 「真紀ちゃーん、これでいいかな」 と大きい声で真紀を呼んだ。  そのとき萌と優衣が教室に入ってきた。 「わぁ、だいぶ進んだねぇ」と萌。そのまま応援旗に近づきしゃがんで眺め出した。  優衣は目ざとく貞晴を見つけると、「吉川くん」と声をかけて近寄ってきた。 「え、本間さん」  隣に立った優衣につられて貞晴も立ち上がった。祐子がさりげなくその場を離れたことに貞晴は気がついたが、優衣が話しかけてきたのでそれをむげには出来なかった。 「吉川くん、昨日はありがとう。数学の宿題教えてくれて、すごく助かった」 「ああ、昨日の。あ、そう。それは良かった」 「吉川くんはどういう参考書を使っているの?」 「え?参考書? ああ、えっと、適当に本屋でみつくろっているんだけど」 「出来たら今度、その本の名前と出版社を教えてほしいんだけど……」 「ちょっと、ごめん。えっと、またね」  貞晴はそういうと優衣をその場に残して教室を出た。祐子が一人そっと教室から出たからだった。  慌てて貞晴もその後を追って廊下を走った。そのとき誰かと肩が当たったが「ごめん」とだけ言い残し相手も見ずに祐子を追いかけた。 「ちょっと待って。遠藤さん」  祐子が階段を下りそうになったところで貞晴が大きめの声をかけると、祐子は振り返って貞晴を軽く睨み、何も言わず階下に姿を消した。 「おいおいおい、どうしちゃったの」  貞晴が振り返ると濃紺の袴を履いた陽介が立っていた。 「いやいやいや、なんでもないし」 と、貞晴は陽介から目を逸らして答えると、 「なんでもないってカンジじゃないけど」と陽介。「俺を突き飛ばしてまで急ぐなんて、なんか切羽詰まっている?」 「……遠藤さんに謝りたかっただけなんだけど、なんか避けられているんだよね」  取り付くしまのない祐子の態度に困った貞晴は陽介に白状した。 「へぇ。なんで?」 「分かんない」  陽介は体の大きい貞晴がもじもじしている姿が可笑しくて仕方がなかったが笑うことはどうにかこらえた。 「あのさ、俺の部活が終わったら一緒にお好み焼き食いにいかね?」  突然陽介が切り出した。貞晴は突然の誘いに驚きながらも「いいけど」と言うと、陽介は「教室で待ってて。お前、格技館は近寄りにくいだろうから」と言って2年D組に向った。無言で貞晴がそれに並ぶと、陽介は「忘れ物取りにきたんだ」と言った。 二十七 雨模様  貞晴はだれもいない教室で、雨のしずくが付きはじめた窓ガラスを見ていた。 (なんで遠藤さんは、あんな目で僕を睨んだんだろう)  理由は貞晴には難解すぎて分からなかったが、ただひとつ分かったのは祐子にそんな目で見られることがとても嫌だということだった。 「よう、お待たせ。行こうぜ」  陽介が教室の出入り口に立っていた。「雨降ってきたな」「うん」と二人は言葉少なく急いだ。本降りになる前に店に着きたかった。  校舎を出る前に、貞晴は売店傍の公衆電話で母親に帰りが遅くなることと夕食が要らないことを早口で伝えた。 「えらいな、親に連絡するんだ」  感心した様子の陽介がそういうので 「いやさ、うちは両親と一緒に食事するから。一言言っておかないと親父がうるさい」 と何気なく貞晴が答えると 「いいなぁ、ファミリーって感じで」 と、陽介が珍しく寂しそうな顔で呟いた。  陽介に連れられてやってきたお好み焼き屋は、貞晴は初めてだった。陽介は勝手知ったる様子で中に進むと奥のテーブル席に荷物を置いた。すぐに無愛想な年配の女性が注文をとりにきた。 「オバちゃん、いつもの」と陽介。 「はいはい。エビイカ玉モダン、ソバだね。もう一人のコは?」 とその女性が化粧っけのない顔を貞晴に向けてきた。 「じゃ、同じで」と貞晴。 「ここの、うめぇから。オバちゃん無愛想だけど」 と、陽介は笑って言った。 「よく来るの? ここ」と貞晴。 「ああ。お袋の帰りが遅くなる日は大抵ココでお世話になってるかな」と陽介。  貞晴はそれを聞いて陽介の母親が働いていることを察したが、陽介の家庭の事情をまったく知らないことに気がついた。  二人がテーブルの上に運ばれた水を飲む間、沈黙がほんの少しの間流れた。 「で、いつから遠藤に避けられてるの?」  陽介はテーブルに備え付けられた水差しで、貞晴の空いたコップに水を継ぎ足しながら聞いた。 「え?いきなりその質問?」と慌てる貞晴。 「ったり前。そのために誘った」にやりとする陽介。 「……今朝からだよ」しぶしぶ答える貞晴。 「なんで?あ、理由分からないんだったけ?」  陽介は自分のコップにも水を注ぎながら聞いてきた。 「心当たりならあるよ」  貞晴は、今朝の始業前に学校裏手であったことを陽介に説明した。  話を聞き終わるや、陽介は 「あー、そういうわけか」 と、納得した様子だった。 「なんでお前が納得するの? 僕にはさっぱり分からんよ。確かに、写真を撮るのを邪魔したのは悪かったけどそこまで怒ること?」 「そこじゃねぇよ。怒っているのは」 「どこ?」 「お前といるところを人に見られるのが嫌だって遠藤が言ったんだろ?」 「そう。ちょっと傷ついた」 「あのな、違うんだよ。遠藤はお前と早朝一緒にいたっていうことを人に知られたくないんだよ」 「そんなに嫌わなくっても」 「嫌われるのは遠藤のほうなの。多分、遠藤の周りにお前のことが好きなやつがいるんじゃないのかな。その子に気をつかって……」 「ちょっと待って。今何て言った?」 「嫌われるのは遠藤」 「その後」 「遠藤の周りにお前のこと好きなやつがいて」 「なんでそうなるんだよ!」 「だって、遠藤がそう言っているんだって。お前が『人に見られても大丈夫』って言ったときに遠藤に『どうして分かるんだ』って言い返されたんだろ?それはつまり『私は人に見られたら大丈夫ではなくなる状況が想像できます』って言っているようなもんだろ?」 「そうなるの?」 「多分な。遠藤はお前のことが好きな女子の存在を知っていて、出来ることならその子との間に波風を立てたくないと思っているんだよ。なのに、お前が追いかけるから困って睨んだような顔になったんじゃないか?」 「じゃぁ、遠藤さんは僕のことを怒っているんじゃなくて、僕が近づくのを困っているということ?」 「そういうことだろ」  そのとき二人は同時に口を噤んだ。注文したものが運ばれてきたのだ。 二十八 スマホ  出来上がった2枚のモダン焼きがテーブルの鉄板に乗せられ、ソースの焦げる匂いが漂った。 「うわ、うまそ」貞晴は自然に声が出た。 「だっろー」陽介は貞晴に割り箸を渡し、自分はヘラでモダン焼きを割った。  しばらく貞晴も陽介も熱いモダン焼きと格闘して無言で食べていた。  それぞれが3分の2ほど食べた頃、空腹も落ち着いたのか食べるペースが落ちた。その頃合を見て貞晴は「遠藤さんのことだけど」と切り出した。 「うん」陽介は頬張ったまま相槌を打った。 「仮に陽介の説が正しいとすると、学校で僕が遠藤さんに話しかけるのは迷惑なのかな?」 「俺の説って。まぁいいや。教室とか大勢いるところだったらいいんじゃない?」 「……僕さ、今朝のことを謝りたいんだけどそういうのって教室じゃ話しづらいよ」 「まあな」 「どうしたらいいと思う? 僕、こういう状況初めてでさ、分かんないな」  ヘラでモダン焼きを突く貞晴に陽介は噴出してしまった。 「なんだよ、笑うなよ。悩んでんだからさ」  貞晴のふくれた顔に陽介はさらに楽しそうに笑った。 「面白がるなよ」  貞晴が不機嫌な顔をしたので「ごめん。ちょっと意外だなぁと思って」と陽介はなだめた。そしてやや真面目な表情になると 「直接謝りたいならコレ使えば?」  とズボンのポケットからスマホを取り出した。 「あー、そうか。でも、番号分かんない」 「俺、わかるよ。ラインも出来るし」  なんてことない風に陽介が言うので貞晴は驚いた。 「いつの間に教えてもらったんだよ!」 「お前、スマホ持ってなかったもんな。俺さ、レク委員のサブをやることになってからすぐ遠藤と番号交換したんだ」  貞晴には陽介の如才なさがとても羨ましく思えた。 「じゃ、遠藤さんのスマホの番号を知っているんだね。それ、教えて」  貞晴がノートの端にでもメモをとろうとカバンを開けかけたとき、陽介が「これ、使いなよ」と自分のスマホを差し出してきた。  貞晴は手のひらに乗った陽介のスマホを見てしばらく考えて言った。 「ラインはよくわかんないから、電話してもいいかな」 「おお、いいよ」  陽介は貞晴からスマホを取り戻すと、祐子の電話番号を表示させてから再び貞晴に渡した。  貞晴は店の外に出ようといったん腰を浮かしたが、客が入ってくるのと同時に雨音が聞こえたのでその場で電話をかけることにした。  陽介のほうは我関せずの様子で残りのモダン焼きにかぶりついていた。貞晴はコップの水を飲むと大きく深呼吸して発信ボタンを押した。 「はい、もしもーし。ヨースケ君?」  数回のコールで祐子は電話に出た。貞晴は喉の奥が引っ付きそうになるのをこらえ、意を決して声をだした。 「もしもし。吉川です。ヨースケからスマホ借りました」  電話の向こうで息を呑む気配があった。 「あの、切らないでね。今朝のこと謝りたくて電話したんだ。今朝は、写真を撮る邪魔してごめん。それから帰りも付きまとったようになってしまって、本当にごめん。ただ謝りたかっただけなんだ。迷惑かけたとしたらごめんなさい」  貞晴が一気に話すと、少しの間沈黙があって祐子の声が聞こえた。 「うん。私のほうも、今日の帰り際はよくない態度だったと思う。ごめんね」  電話の向こうにはいつもより落ち着いた声の祐子がいた。 「僕さ、遠藤さんの写真、すごくいいと思うよ」 「ありがとう」祐子が先ほどよりリラックスしたように思った。 「だれもが知っていて、それでいて気に留めない景色に焦点を合わせてそこを切り取って新しい姿にするっていいなって思う。だから、つい、そばで見ていたくなって……」 「うん。分かってる」 「…あのさ。だれかに見られるのは、そんなに嫌かな?」 「吉川くんは初めて私の写真に同調してくれた人だから、本当はね、写真のこととか話をするのがすごく楽しいんだけど、やっぱり人に誤解を受けたくないから…」 「そっか」  去年にハンドボール部で起こったことを知らない貞晴だったが、祐子が人の誤解に敏感になっていることはよく分かった。 「教室ではしゃべれるよね。前みたいに」 「うん」祐子は元気よく返事した。 「それじゃまた。今日は謝りたかっただけだから」  貞晴はそういうと祐子の「バイバイ。またね」の声を聞いて、スマホを陽介に返した。 「ありがとう。便利だね、コレ」と貞晴。 「サダっちは持たないの?」と陽介。 「親の方針だから」 「確かに。俺のコレもお袋の方針だもんな」 二十九 雨に滲む  「で、そんなに遠藤の写真に惚れたの?」 と、陽介が残りを食べ終えた貞晴に聞いた。 「なんだよ。しっかり盗み聞きしていたのかよ」 「聞こえるんだからしょうがねぇだろ。で、遠藤の写真はいいの?」  しつこい陽介に貞晴は 「好みが分かれるところだけど僕は面白いと思うよ。なんなら見せてもらえば?」 と答えると、 「なんだよ、そのそっけない言い方。さっきは分かった風なこと言ってたじゃん」 と、陽介が言った。そしてすぐに「ま、いいや。ゴールデンウィーク明けに遠藤に見せてもらおっと」と言うと、「いくか」と貞晴を促した。  お好み焼き屋を出ると、すっかり雨が本降りになっていた。  店の軒下で陽介が、 「俺の説はどう? 正しそう?」 と聞いてきた。貞晴は少し考えて 「よく分からないけど。人に誤解されたくないって言っていただけだから」 と答えた。 「8割方、正しそうだな」と陽介。 「でも、ヨースケの説だとだれかが僕を好きってことだろ? それは信じられないけど」 「自分じゃ分からんよ。そういうのって」  陽介は含んだ笑いをしてそのまま「じゃあな」と雨の中を自転車を押して帰っていった。  貞晴は、陽介と反対方向に傘を差して歩き出した。祐子と電話で話せたことで貞晴の気持ちは少し晴れた。満腹も手伝って雨の中でも足取りは軽かった。  大きめの黒い傘に当たる雨音が、次第に貞晴の世界を狭くしてゆく。ぱらぱら、ばちばち、という音を聞きながら、貞晴の頭の中は祐子の「バイバイ。またね」の明るい声がリフレインしていた。 (ヨースケのやつ、なんであんなことを言うんだろう)  好きと嫌いの感覚を無視し続けてきた貞晴には、自分がだれかから好かれる対象であると考えること自体が怖かった。それで、祐子が恐れる誤解が何なのが、ほかの可能性を想像してみることにしたが状況にぴったりの仮説があまり浮かんではこなかった。  分かったのは、祐子が去年のような体験を繰り返したくないと思っていることと、貞晴と仲が良い様子を誰かに見られると同じことが繰り返されると祐子自身は思っているということだった。祐子がそう思っている以上は、貞晴がどう説明しても、今朝のような時間はもう持てないということだった。  そう自覚したとき、貞晴の胸に寂しさが込み上げてきた。 (あれ、どうした。何だ、これ)  貞晴がその気持ちに戸惑っていると、気持ちはやがて悲しさを伴い、バス停に着くころにはそれはやるせなさに変わっていった。祐子がそこまで誤解を恐れている状況がやるせなかった。  バスに乗っても貞晴は祐子のことを考えていた。  貞晴の目には祐子はそんなに弱い人間には見えなかった。レクリエーション委員の交代を買ってでたこと。その仕事をきっちり果たしていること。矢野浩太にはっきり意思表示したこと。他人に自分がどう見られるか気兼ねするような人間はそんなことはできないと貞晴は思った。 (なのにあんなに困るなんて。僕はどうしたらいい?) と、貞晴までもが困った気持ちになってきた。  そのときバスが急ブレーキをかけた。貞晴やそのほかの乗客の上体がガクンと前のめりに傾いた。その衝撃で貞晴は物思いから覚めた。 (あれ、なんで僕はこんなに悩んでいるんだろう)  窓の外を見ると街灯の光の輪郭が窓のしずくで砕けて見える。  貞晴は、その煌いた光のかけらに本当だけど本当でない、かりそめの姿を見た。 (やっぱり遠藤さん、それは違うよ)  貞晴はいま少しでなにか見えそうなもどかしさを抱えながら、その言葉を胸の中で繰り返していた。  その日の夜、祐子は、リビングに置いてあるパソコンの画面の前で自分が撮りためた写真を見ていた。写真を見ながら、その写真を見たときに「へぇ」と言いながら顔をほころばせた貞晴の顔を思い出していた。  思いがけず、貞晴から電話をもらったことがとても嬉しくて、同時に困った。 いつもなら眠る時間だったが、眠る気になれずぼんやりと画面を見て過ごしていた。 「祐ちゃん、まだ起きているの? お母さん、寝るよ」  風呂上りの祐子の母が声をかけてきた。 「うん、すぐ寝るよ」ちょうど祐子はこのままぼんやりしていても仕方ないと思い始めていたところだったので、母の声を潮にパソコンの電源を落とし立ち上がった。 「おやすみなさい」  祐子はキッチンで水を飲む母に声をかけると、そのまま和室に入っていった。  その部屋の奥には、据え付けて日の浅いことがわかるつややかな仏壇が、ろうそくの形をした電球で照らされていた。  祐子は仏壇の前に正座すると静かに手を合わせ、「お兄ちゃん、おやすみなさい」と小さくて深い声で呟いた。そのまましばらく祐子は手を合わせたまま動かなかった。  祐子が顔を上げたとき、晴れやかに笑う写真の中の兄の目と合った。「お兄ちゃんのカメラで撮った写真、褒められちゃったよ」と声をかけた。 (だめだ)と祐子は思った。まだ涙で滲んで、兄の瞳を見つめることができなかった。 三十 誤解の誤解   ゴールデンウィークが明けて最初の放課後、体育祭まであと一月足らずということでどの教室でも準備のためあわただしく作業していた。  蒼山高校の体育祭の応援は、競技エリアにはみ出していなければ何をしてもいいのでどのクラスもノボリを立てたり風船で応援旗を飾ったりして自分のクラスが目立つよう工夫を凝らす。応援で使う小物も笛や太鼓などの鳴り物でなければなんでもいいので、手作りでメガホンやポンポンなどクラスカラーで統一したものを紙やペットボトルなどで作って準備する。  2年D組では、応援旗は色が塗られはじめ、その隣では応援資材を作る一団が机を囲んで布を切っていた。貞晴と陽介は準備の進行を管理する側に回って、クラスメイトに仕事を割り振っていた。  クラスメイトに一通り仕事が行き渡ったところで、貞晴は「遠藤さんに写真見せてもらった?」と陽介に聞いてみた。 「ああ。見たよ」  陽介は短く答えると貞晴を見た。「なに?」見つめられて貞晴は身構えた。 「いやさ。思っていたものと違って、ちょっと驚いた」と陽介。 「へぇ。どんなのだった?」 「道路の白線ばっかり」 と、陽介がげんなりしていった。「白線?それだけ?」と貞晴が聞いたとき、陽介が目で合図した。横を見ると、祐子が立っていた。 「なにヒソヒソ二人で話ししているの?」 「道路の白線についてどんな意味があるのか」と陽介。祐子はすぐに自分の写真のことだと察した。「あの写真に意味はないって」祐子は恥ずかしそうに笑った。 「それは見たことないな。見せてよ」と貞晴。  祐子はポケットからスマホを出して貞晴に渡した。確かに延々と道路の表面を取った写真が続いていた。 「もしかして、休みの間は白線にはまってた?」  貞晴は写真を眺めながら聞くと、「そうなの! 散歩していたら急に気になって」と祐子は嬉しそうに答えた。 「こうやって白線ばかり見てると、途切れ具合とか盛り上がり方とかそれぞれ味があって面白いね」  貞晴が真顔で言うのを陽介は目をむいて驚いた。祐子は「分かってくれる?」と理解者の存在に感動した様子で言った。 「なんとなく。それに、特に新しい白線は色や素材感でアスファルトとのコントラストが際立って綺麗だね」  感想を続ける貞晴に陽介は「二人の世界だな。話に入っていけねぇ」と笑った。にこにこと貞晴の話を聞いていた祐子はその一言で我に返ったように、「そうだ。忘れていた。競技メンバー表を提出してこなきゃ」と言うときびすを返して教室を出ていった。 「逃げたな」と陽介。 「わざと言ったのか?」と貞晴。もう少し祐子と話していたかった。 「わざとじゃないよ。そのままを言っただけだって。変な解釈をしたのは遠藤だって」と陽介。続けて「誤解が嫌か…誤解されたっていいじゃんな」と陽介は言った。  貞晴はその言葉にはっとした。 「そうだよ。誤解されたっていいんだよ」 「え?」 「誤解があると困るっていうのが、遠藤さんの誤解だと思うんだ」  貞晴は続けた。「誤解のない人間関係って実はありえないんじゃないか。思い込みや先入観なしで物事を見れる人間のほうが少ないよ。誤解があって当然で、それは人同士が関わっていくなかで解消されるものなんじゃないの」  しばらく考えて「同感だけど」と陽介は口を開いた。 「遠藤の場合は誤解を解く余地がなかったんだろ。部活の先輩相手だったから。それがトラウマになってるんじゃない? 俺は、教室の中ぐらいはそんなことを気にせずノビノビしたらいいのになと思っただけ。本人が嫌なら仕方ない」 陽介の言葉を受けて貞晴は、 「その去年の件のこと、もっと詳しく知りたいんだけど誰に聞いたら教えてくれるかな?」 「そんなことして、どうするんだよ」 「遠藤さんが教室だけでなくどこででもノビノビしてくれたらいいなと思って」 「それ本気?」  陽介は貞晴の顔を覗き込んだ。貞晴は顎を引くように身を少し後ろに引きながら「うん」と言った。 「お前、自覚してるの?」と陽介。「何を?」と貞晴。 「遠藤のこと、好きだってこと」  陽介は声を落として言った。数秒遅れて貞晴の顔をじわじわと赤くなってきた。 「今ごろ顔を赤らめて」  陽介は声を立てずに肩を揺らして笑った。貞晴は、手元のノートで顔を扇いだ。一気に上昇した体温をどこかに逃がしたかった。  そのとき、 「あれ、祐子はどこ?」 と教室の隅から誰か女子の声がした。その声に貞晴が身を硬くするのを見て、陽介はまた笑った そして「遠藤ならさっき教室から出ていったよ。メンバー表を出しに実行委員会に行ったんじゃないか?」とその声のほうに向って答えていた。 三十一 屈折   「おい、そんな難しい顔するなよ」  陽介は笑顔のまま言った。 (僕が、遠藤さんを好き? 好きなのか、僕は? どうなんだろう)  思案顔の貞晴は、陽介に指摘されてすっかり動揺していたのだ。 「どうしちゃったの?」と陽介。無言の貞晴をつつく。 「ヨースケが変なことをいうから。そんな、す、す、す、す……」  貞晴は、好き、という言葉も言えずにいると「好きだろ? 好きだから気にかかるんだろ? 好きだから去年のことも知りたいんだろ?」と陽介から攻め立てられた。 「好きってわけじゃ……」  かろうじて貞晴が抵抗しようとすると、「じゃ、嫌いなの?」と陽介が続けた。 「嫌いじゃないよ!」すぐに貞晴が言い返すと、 「好きだからムキになるんだろ。いいじゃんか。認めてしまえよ。だれにも言わないから」 「止めてくれよ。そういう話は苦手なんだって」  困った貞晴は陽介の両腕を掴んで言った。 「ったく。素直じゃねぇな。面倒くせぇ」  陽介のおざなりな言い方に貞晴はショックを受けつつ、「素直じゃない」という言葉が胸で響いた。 「なに、ヒソヒソ声で盛り上がってるの?」  突然声をかけられ貞晴と陽介はびっくりして見上げると、二人のそばに萌が立っていた。 「いや、俺たち、小道具に凝ってるよなって。な!」 「あ、そうそう。猫耳と尻尾。いいアイデアだよね」  萌は乾いた笑いを浮かべている二人を見比べながら、「あのさ、手が空いているなら、黄色の平面ナイロンテープを買ってきて欲しいんだけど」と言った。  萌は小物製作をしている女子たちをまとめてくれていた。 「ああ、オッケー。何個?」と陽介が立ち上がった。 「とりあえず5個」と萌。 「よし。じゃあサダっち、いくか」 と、陽介は貞晴の二の腕を叩いて歩き出した。  体育祭の準備で必要な一般的な文具類や資材はこの時期、蒼山高校の売店には山のように積まれる。ポンポンの材料になるナイロンテープは定番商品なので必ず売店にあった。  二人連れ立って売店に向っていると階段で卓を含むF組男子の数人と出くわした。その中には卓の他に柔道部の仲間だった大森雅之が混ざっていた。  貞晴は、卓とは先月に話合って以来口をきいていない。廊下などですれ違っても卓が貞晴を睨むか無視するかのどちらかだ。  雅之が「よう。ハル、ヨースケ」と声をかけてきた。「おう、マサ。準備すすんでる?」と陽介は雅之に答えた。「順調だせ」と答える雅之に貞晴も「よう、久しぶり」と笑顔で声をかけた。が、卓が視界に入って笑顔がやや硬くなる。雅之も貞晴の退部届のことは知っていたので、気兼ねしてそれ以上は何も言わず、「またな」とそうそうその場を通り過ぎた。貞晴は卓にも声をかけようとしたが卓は貞晴に目を合わせず足早に集団について通り過ぎた。しかし、数歩歩いたところで突然振り向いて、口を開いた。 「堀田と話はしたのか?」 「始業式以来ほとんどなし」と貞晴。 「中途半端だな」  卓はそう言い捨てるとそのまま大またで歩いていった。  貞晴は緊張していたのか、大きくため息をついた。 「なんというか、ストレートだな。彼」と陽介。 「……うん。まっすぐ」と貞晴。 「ハハ。中身が屈折しているお前とは正反対だ」 「おい、屈折て」 「ああいう率直さって、俺、苦手」  陽介が表情を変えずに言った。貞晴は「え?」と陽介を見ると、 「だって、ヒトの都合無視して言いたいこと言って自分はスッキリするなんて、ひどくない?」 と陽介が言った。 「あははは」  貞晴は笑うしかできなかった。そうしなければ目が潤みそうになるからだった。 「せっかく売店行くんだし、なんか飲み物飲んでいこうぜ」  陽介は貞晴の気持ちを知ってか知らずか、明るく貞晴を促した。  二人は目的のものと一緒に売店でジュースを買うと、藤棚の下で腰を下ろした。  貞晴は、木漏れ日でまだらに見える陽介の横顔を伺いながら(不思議なやつだな)と思った。陽介の言葉はいつも貞晴の胸を打つ。打たれて貞晴の心は波立つのだが、それが不愉快でないのが不思議だった。 「何?」  貞晴の視線に気づいて陽介が貞晴を見た。 「いや……。卓って悪いやつじゃないから。さっきは印象悪かったかもしれないけど」と貞晴。 「お前な。お人好しすぎんだよ」  陽介はまた正面を向きなおしてジュースを飲んだ。 「卓に悪気はないから。僕も良くないと思っている。急に退部決めたから」  そう貞晴が答えると陽介は黙りこくった。顎を突き上げてジュースを一口飲むと貞晴のほうに向いた。「さっき会った柔道部のマサだけどさ、俺たち去年、同じクラスだったのよ」  貞晴は陽介が何を言い出すのかと身構えた。 三十二 猫耳 「お前に言うつもりはなかったんだけど。そのマサがさ、この前、俺にお前の退部の本当の理由を聞いてきた」 と言った。 「俺たち、最近よくつるんでるだろ。だからかな。『何か知ってるか』って」 「本当の理由か。確かに卓にしか説明していなかったな……」  貞晴はポツリと言った。貞晴の言葉に納得していない様子の卓が柔道部の仲間に細かく説明しているとは思えなかったので、他の部員たちが貞晴の退部を不思議に思っていても仕方ないと思った。  貞晴自身にしても意外だったが、このとき貞晴は初めて他の部員の気持ちを想っていた。 (突然止められて戸惑ったやつもいただろうな)  春休み中に考えていたことは、いかにうまく柔道部と距離を置くかということだった。練習に身の入らない自分が部活動に参加しても迷惑なだけだと思い他の部員のためにも自分は部活から離れようと決めたが、それは実は身勝手な言い訳だったと分かった。 「サダッちにはサダッちの理由があるから、柔道部退部の件は堂々としていたらいいと思うんだよ、俺は。ただ、一緒に頑張ってきた仲間が抜けるのを寂しいと思ったり、せめて理由は知りたいと思ったりするマサの気持ちもよく分かった」 「で、なんて言ったの?」と貞晴。 「『俺には分からん』って」 と、陽介は言った。「本当のところは本人にしか分からんことだろ?」と付け加えた。 「そっか。マサたちには心配かけたのかな」と貞晴。 「そうだな」 「気がつかなかった」 「そうだな。周りに無関心だもんな、お前」 「……」 「黙るなよ」 「……」 「あのな。俺がマサの話を持ち出したのはお前を責めるつもりじゃない。たとえで出したんだ」 「たとえ?」 「お前、遠藤にまつわる去年のことを知りたいって言っていたろ? それってさ、周りの人間に聞いても結局のところ本当のことは分からないんじゃないか?」 「あ、そっか。本当のところは本人じゃなきゃ分からないってことか」 「そう。当時周りから遠藤がどう見えたかというより、遠藤がどう感じたかということを知るほうが大切なんじゃないか」  陽介はまっすぐ貞晴を見た。真面目な表情に大人びた影が見える。以前からたびたび陽介に張り付く大人の影にドキリとさせられるのだった。 「そうだね。直接本人に聞くのが一番いいかも……ただ」 「ただ?」 「かさぶたをはぐようで悪いな」  貞晴は顔をしかめて言った。 「そうだな。……言いたくないこともあるだろうな」  陽介も静かに同意した。  貞晴と陽介の二人が教室に帰ると、祐子はすでに教室にいて萌たちと黄色いものを持って楽しそうにしゃべっていた。  陽介が萌に近づき、「はい、これ」とナイロンテープを差し出した。 「なに楽しそうにしているの?」  陽介が聞くと、祐子が「見て、見て」と両手を上に上げて、何かを頭の上に乗せた。  試作品として出来上がった猫耳だった。ダンボールに布を貼り付けただけのものだったが立体的に仕上げており、小柄な祐子によく似合っていた。 「おお! 可愛いじゃん」  陽介がわざとらしいほどの大声で言った。少し離れたところでそれを眺めていた貞晴も心の中で(可愛い)と呟いていた。 「なぁ、可愛いよな!」  陽介が貞晴に振り向いて言った。祐子も猫耳を頭に乗せたまま貞晴のほうを見た。貞晴が首を縦に振ると、祐子ははにかんで、貞晴にはますます可愛く映った。  そこに騒ぎを聞きつけた数人の男子たちが寄って来た。「なになに?」「お、猫耳じゃん」「貸してー」と口々に言うと祐子の手から猫耳を奪った。 「へぇ、上手くできてんなぁ」  そう言いながら自分の頭に乗せているのは矢野啓太だった。 「くっ」  陽介がこらえきれずに笑った。「なんだよ」すぐに啓太が反応した。 「オトコがつけたら、鬼の角みたいだな」  その言葉に皆一斉に笑った。笑われた啓太はカッとなって、「なんだよ!お前らも付けるんだぞ」と言った。 「そうだな。コレと尻尾を着けるんだもんな。ちょっと恥ずかしいな」 と、貞晴が言うと、啓太はそっと貞晴の頭に猫耳を乗せた。瞬間、周りは大爆笑になった。 「似合わん。似合わな過ぎる」 と言って、啓太が一番笑っていた。 「みんなで着けたら違和感もなくなるって。さぁ、人数分頼むぜ」  陽介は雰囲気を変えるように張りのある声でクラスメイトたちに言った。    三十三 機会Ⅰ  それから数日は、体育祭までの限られた日数の中でそれぞれが担当している準備に追われていた。貞晴は、祐子を好きだと自覚してからかえって自分の気持ちが落ち着いてきて、祐子に去年のことを急いで聞くこともせず、あわただしく動き回る彼女を見守っていた。 それだけで暖かい気持ちになれた。見ているだけで満足していた。去年のことは、(体育祭が済んで落ち着いてから聞けばいい)と思っていた。 「今を逃したら、聞きにくくなるだろ?」  陽介の意見である。  体育祭まであと2日を残すばかりのとき、なにも聞かないままの貞晴に対して陽介は言った。 「今は、同じレク委員の仕事をしているから話すことも多いだろ? 体育祭の話題に絡めて聞いちゃえよ」 「絡めるってどうやって?」 「そんなの自分で考えろ」 「聞いてもすぐに話してくれるかどうか……」 と言いよどむ貞晴に  「こっちが聞く準備があるってことを伝えないと、相手もしゃべれんだろ」 と、陽介はきっぱり言った。  貞晴は、陽介に言い返す言葉が見つからない。 (こういうところ、なんだよな)  自分より先んじた考えをする陽介にかなわないと思うと同時に、なんで自分に陽介が構うのかがよく分からなかった。  翌日の放課後、いよいよ最後の準備日となって教室は騒然としていた。  この日は応援旗を運動場に設置しなければならなかった。貞晴と祐子を含む数人で、塗料を含んで重くなった布を所定の時間に運んだ。  運動場はトラック整備に実行委員会の生徒たちが走り回っていた。トラックの周りにはすでにクラスごとに応援用スペースの区画整理ができており、スペースの背後に2本の支柱が立てられていた。  数人の体育教官がはしごとともに各クラスを順次回って応援旗を据え付けてゆく。 「僕が見ておくから、みんなはクラスに帰って」  貞晴は他の準備が気になって他のクラスメイトに言った。みんなその意が分かるので、「それじゃ」と連れ立って戻っていった。  しかし、祐子は一人残った。「先生を手伝うのに、もう一人ぐらいいたほうがいいでしょ」と言って貞晴に笑顔を向けた。  男子と二人きりになるのをあんなに嫌がっていた祐子が自分から残るのは珍しいことだった。今回は、応援旗の準備ということで理由がたつのでいいのかもしれない、と貞晴は思った。  思いがけず校庭の隅で祐子と二人きりになった貞晴は、今がチャンスなのではないかと気づいたのだが、会話がうまくその話題に誘導できない。祐子は明日の競技のことやすでに設置されている他の応援旗の感想など他愛のないことをしゃべっている。しかし、意識しすぎる貞晴は自然と口ごもりがちになってしまうのだった。 「どうしちゃったの? なんだか元気ないね」  祐子が心配そうに覗き込んでいる。 「いやいや。元気はあるよ」 「そう、よかった。明日が本番だから心配しちゃった」  祐子に心配されてうかつにも良い気分になった貞晴は、競技に障ることを心配されたと知って苦笑してしまった。 (悩んでもしかたない)  意を決して、貞晴は努めてさりげなく切り出した。 「あのさ、遠藤さんは去年ハンドボール部だったんだよね?」 「……うん。そうだけど?」  祐子がけげんそうな顔をしている。 「僕さ、柔道部で格技館にこもって練習してたから、他の運動部のことよく知らなくて。遠藤さんが今は写真部だっていうのは知っていたけど、去年、ハンドボールやっていたっていうのはついこの前知ったんだ」 「……」  無言の祐子に「警戒しないでほしいんだけど……」と貞晴が言うと 「何が言いたいの?」 と、貞晴の知らない冷ややかな声で祐子が言った。 (そうとう嫌なんだな)  貞晴は手ごわい予感がした。 「つまり、僕が勝手に想像していることだけど、運動神経も良くて頑張り屋の遠藤さんが部活動を途中で止めるということは相当なことがあったんだろうなと思っていて……」 「……」  祐子は無言で貞晴を見上げている。 「そのことに捕らわれて、今ももし悩んでいるとしたら……その解決に力になりたいと思っている」  そう言い切った貞晴の耳は祐子の声だけを捕らえようと他の音の存在を消していた。まるで無音の世界に立っているのかのようだった。自分の鼓動だけが激しく打っているのが感じられた。 「……悩んでいるって訳じゃない」  貞晴から視線を逸らして祐子は言った。 三十四 機会Ⅱ 「でも、誤解が怖いよね?」  貞晴は喉がカラカラだったが、声色に注意してできるだけ優しく言った。祐子は子供のようにコクンと頭を縦に振った。 「そこまで怖がる理由を教えてもらえる?」 「なんで?」  祐子は言った。「なんで、吉川くんがそんなこと聞くの?」 「なんでって……」緊張にこらえながら貞晴は必死で継ぐ言葉を考えた。 「質問に、質問を返すのは反則だよ」  出した言葉がコレだった。意地が悪い言葉だと分かっていたが核心を語るにはまだ心の準備が出来ていない。 「どうしてそんなことに興味があるの?」  祐子はしつこく質問してくる。 「遠藤さん、ハンドボール好きでしょ?」  貞晴は、放課後フェンス越しにハンドボール部の様子を見ている祐子を知っていた。 「今でも、やりたい? ハンドボール」  貞晴が念を押すように言うと、祐子はまたコクンと頷いた。  素直に頷く裕子を見ていると、貞晴の緊張も和らいできた。貞晴は晴れた空を仰ぎみながら言った。 「そんな遠藤さんがなんで部活動を止めたんだろうって思っちゃだめかな?」  さらに 「誤解されるのが嫌なのは、だれだってそうだよ。だけど、誤解のない人間関係ってあるのかな?」  貞晴は祐子を見た。祐子も貞晴を見た。 「僕はできれば、遠藤さんに誤解を恐れてほしくない」  祐子ははっと貞晴を見上げて、すぐに俯いた。 「……あのね、」  祐子が口を開きかけたとき、 「おぉ、遅くなってすまん。2年D組の旗はこれかぁ?」  梯子を担いだ堀田が二人の後ろにいた。  いきおい貞晴と祐子はぎょっとした顔で振り返ったが、貞晴が「はい、そうです」とすばやく反応してその場を取り繕った。  応援旗の両サイドには、もともといくつか丸カンが打ってあるのでそれを支柱のフックに掛けるだけである。  堀田は手馴れた様子で掛け終わると、梯子をたたみながら 「瀬川が……なんか知らんがお前のこと怒っとったぞ」 と飄々とした風情で言った。 「……知っています」  「もう柔道部には来ないつもりか?」  堀田は心から案じている目で貞晴を見つめながら言った。 「はい」  貞晴もまっすぐ見つめ返して答えた。 「未練はないか?」念を押すような堀田に貞晴はきっぱりと「ありません」と答えた。 「そうか。わかった」  堀田は短くそう言うと、梯子を抱えて他のクラスに向った。 「さ、教室に帰ろうか」 と、貞晴は祐子を見ると、祐子がじいと貞晴を見ていた。 「な、なに?」 「やっぱり柔道部、止めるの?」  卓とD組で言い争ったことは祐子も知っているようだった。 「なにがあったか教えて」  それには答えず貞晴は歩き出した。 「吉川くんが私のことを知りたいように、私も吉川くんのこと、知りたい」  その背中を追いかけながら祐子は言った。  その言葉は、相当な力で貞晴の心を揺さぶった。ここは自分も祐子に話すべきだと思った。手短に話せそうになかったが、 「お互い、教え合いっこ、しようか」 と柔らかく笑って言った。  しかし、そうは言っても今日は体育祭準備の最終日、いつまでも二人で準備を抜けるわけにもいかず、今日の準備解散後、高校から少し離れた公園で待ち合わせることにした。  その待ち合わせ場所は祐子が指定したのだが、貞晴が使うバス路線のバス停の近くに位置しており、貞晴に気を遣ってくれたのだった。  貞晴が公園に入ると、祐子が先に来て植え込みの影になっているベンチに座っていた。  貞晴は、自動販売機で缶ジュースを2本買うと、わざと足音を立てて近寄った。  祐子はすぐに貞晴に気がついて立ち上がり、その場から手を振った。 「ごめん、歩きだから遅くなって」  ベンチの傍らに自転車が止めてあったのを貞晴は見た。 貞晴は祐子に缶ジュースを手渡し、人一人分の空間を空けてその隣に座った。 「いよいよ、明日だねー。体育祭」  祐子が無邪気に貞晴に話かけた。 「そうだね……」  貞晴は答えて、ジュースのプルトップを引いた。プシュっと炭酸が抜ける音が響いた。 三十五 祐子の事情Ⅰ 「早速だけど、僕のほうから話をしようか」  貞晴がゆっくりとした動作で祐子を見た。ここに来る道すがら、自分から話をしようと決めていた。祐子はコクンと頷いた。  貞晴は出来るだけ長くならないように、自分と柔道の関わりと止めるきっかけになった事故について話をした。話終わるときには、もう空は暮れなずんで、街灯が点灯していた。  祐子は、黙って聞いていたが、最後に 「長いことやってきたのに、残念だね……」 と言った。 「残念っていうか。かえってさっぱりした気分。たんに、僕がそこまで強い人間じゃなかったってことだよ」 「本当はそんなに格闘系のスポーツが好きじゃなかったってことでしょ? だったら、よく頑張ったよ」 「ありがとう」  貞晴は力なく笑った。 「でも、遠藤さんは好きだったハンドボールから離れてしまった、よね?」 「……うん」 「なにがあったの?」と貞晴。  祐子は口ごもり「何から話せばいいのかよく分からないんだけど……」と言うので、貞晴は「なにからでも」と言った。  祐子の語ったことは、憲太郎や陽介が知っている事実が実はごく表面的な輪郭しかたどっていないことを知らしめるものだった。  祐子は、まず自分の兄の存在を語った。  4歳違いの兄、修一は、一年半前にバイクの事故であっけなく死んでしまったという。兄妹仲がずいぶん良かったらしく、話していくうちに祐子は涙ぐんでいた。両親の落胆ぶりも相当だったようで、子供として一人残った祐子は心とは裏腹に明るく振舞っていたそうだ。  それは、まだ十五才の祐子にはとても厳しいことだった。誰よりも信頼していて心を許していた兄が突然いなくなり、その悲しさを表すこともできず、ひとり悲しみに堪えていたころ、進学した高校で部活動の先輩が声をかけてくれたという。  赤木大輔、当時蒼山高校3年生、男子ハンドボール部所属。彼は、遠藤兄妹と同じ中学校の出身で、3人ともハンドボール部に所属していた。男子と女子は違う顧問の下で活動していたので、関係が深かったのは修一と赤木大輔で、二人は同時期に部活動の先輩後輩だった。祐子のほうは、大輔のことをたくさんの先輩の一人としか思っていなかったが、その後修一の葬儀に出席してくれたことで印象深い先輩となった。  祐子が大輔と同じ蒼山高校に進学したのは偶然のことだった。そして、女子ハンドボール部に入ったのも中学校からの流れて自然のことだった。入部してからお互いに存在に気がつき、大輔のほうから声をかけてきた。そのときは、なにかお礼めいたことを言ったきりで、ほんの挨拶を交わした程度であったが、家族以外で兄との思い出を共有できる数少ない一人と出会って祐子は嬉しかった。だからといって、祐子から積極的に話かけるようなことはなかった。大輔を見かけると、ペコリと頭を下げるくらいで、あとは心の中で兄を思い出して、つかの間の暖かい気持ちを感じていただけだった。  大輔の態度に変化が表れたのは、6月が終わろうとするころだった。夏の総体の予選である県総体の試合が終わり、3年生が部活動を引退したころだった。祐子が部活動を終えて帰っていると、祐子の家の数件手前の角で大輔が待っていた。祐子の記憶では、大輔が修一が進学した大学にチャレンジしたいと言ってきて、ついては修一が使っていた参考書などを借りたいとの申し出だった。  祐子はさして疑問もはさまず母に了解をとって、一冊の参考書を手渡した。それから、幾度か大輔の待ち伏せがあり、他愛のない会話(とっても、修一にまつわる話が多かったが)をしながら帰宅することが続いた。  夏休みに入るころ、部活動が終わってから祐子は一人部室に残るよう先輩から指示された。いよいよ夏の盛りに入っていこうかという頃である。夕方であっても、窓を閉め切ればすぐに室内はサウナのようになるのに、5人ほど2年生の女子の先輩は入ってくるなり窓をしめた。そして、用件を伝えた。5人のうち1人が大輔の彼女であることと、これ以上大輔に近づかないようにという警告だった。  祐子は驚いた。大輔に彼女がいたということと自分がその恋路を邪魔しているということに。まったく不本意なことだった。大輔のことは、兄の後輩であり自分の先輩、としか見ていなかった祐子には彼女らの指摘は誤解以外の何者でもなかったが、知らなかったこととはいえ悪いことをしたと思い、裕子が先輩女子にいったん謝ってその場はなんとか収まった。そして大輔に対しては、祐子は先輩女子からの話を伝えて、これ以上待ち伏せ意などは止めてほしいと伝えた。大輔は了承、実際に待ち伏せは無くなり、この話は全て終わったかと思われた。  しかし、夏休みが空けてすぐのころ、校内で大輔が祐子に声をかけてきた。祐子は関わる気は無かったが、大輔から参考書を返したいとの話があり、結局その日の放課後にある公園で待ち合わせ、会ったのだった。このときの様子を複数の生徒に見られてしまい、噂になってしまい祐子は先輩女子の逆鱗に触れることになったのだ。その理由は噂だけではなく、その先輩女子と大輔との関係が決定的に終わってしまったせいもあった。大輔が受験を理由に終わらせたそうだが、本当のことは祐子もわからなかった。 「そうだったんだ。……それからが大変になったんだね」  貞晴はすっかり暗くなった空を見て言った。 三十六 祐子の事情Ⅱ 「うん。きついこと言われるたり練習が増えたりするくらいは、我慢しようかなって思ってた。修兄ちゃんも頑張っていたハンドボールだし」  俯いて祐子は言った。 「我慢できないことがあった?」と貞晴。  祐子は黙って、手元の缶をもてあそんでいた。と、不意に顔を上げて  「ある日突然、だれからも無視されたら、吉川くんならどうする?」 と聞いていた。 「だれからも?」 「そう、部員全員」 「うーん」 と、貞晴が言いよどんでいると、祐子は矢継ぎ早に「挨拶はもちろん話し掛けても無視、むしろ近づかないように避けられたり、ラインが既読スルーされたりしたら、どうする? そんな状態で、私はどうすべきだった?」と聞いてきた。  貞晴は、(そうか)と思った。手ひどく周囲に存在を拒否されてもなお祐子は、きっとその中でどうにかしようともがいていたのだろうと思った。 「なにがあった?」 「だれともなにも話ができない状態になって、部内の伝達事項は部室内のホワイトボードが頼りだったの。そこに練習計画とか練習試合の日程とか書いてあって、仕方がないから私はそれを見て参加するしかなかった」 「……そう」 「ある日、書かれていた練習試合の日が、修兄ちゃんの一周忌と重なっていたんだよね。どうしようと思ったんだけど、結局練習試合のほうに行こうと思ったの」 「ご両親はなんて?」 「まぁ、お墓参りは毎月行っていたし、学校行事を優先すればいい、って言ってくれた」 「そう」 「ていうか、私が意地になっていて、練習試合のほうに行くって決めちゃってた」  当時を思い出したのか、祐子は再び涙ぐんでいた。 「それで?」 「朝早く、その会場に行ってみたらだれもいないの。場所も時間も何回も確認して、間違いないと思っていた。だから体育館のそばで座って待っていたら、ケイタイが鳴って……」  祐子は一回深呼吸をした。 「同じ学年のコだった。夏休みまでは部で一番仲良かったコ。『今、どこにいる?』って聞くからその体育館の名前を言うと、電話の後ろにたくさんの笑い声が起こったの」  貞晴はため息をつくしかなかった。隣を見ると、祐子はもうこらえきれず泣いていた。  部員全員からだまされた祐子の衝撃を思うと、貞晴はため息しか出てこなかった。いったん誤解が生じたあとに起こるトラブルを経験した祐子が、極度に誤解を恐れる理由がわかった。わかったが、この祐子のトラウマを解消することは到底自分ではできないと思った。  しばらく祐子をそっとしていたが、腕時計を見るとかなり時間が経っていた。 「辛いこと、話をしてくれてありがとう。遠藤さんが誤解されたくない気持ちはよく分かった」  貞晴はタオルハンカチで顔を覆っている祐子を見て 「そんなこと経験した人に、やっぱり迷惑だったね。ごめんね」 と言うしかなかった。すると「ちがうの、ちがうの」 と祐子は頭を振って言った。 「今、話をしていて、すごく嬉しかった。ちゃんと聞いてくれる人がいるんだって思ったら、本当に嬉しかった」  ハンカチを顔から下ろして、祐子が貞晴を見た。涙の跡が街灯で光っている。 「そう? 泣かせてすごく悪いなと思っていたんだけど」 「ううん。このこと、だれにも話したことがなかったの。だって、思い返すたびに腹が立ってしかたなくて」 「ハンドボール部の人に? それとも赤木先輩?」 「ちがうよ! 自分に一番腹が立つ」 「え? どうして! 被害者なんだよ、遠藤さんは」 「だって、赤木先輩のことだって私がもっと気をつければ良かったし、女子先輩にももっときちんと謝って、説明だってあのときちゃんとできれば部員全員から無視されなかったかもしれないし、なにより、意地張って修兄ちゃんより練習試合を選んだ自分が許せない」 「だめだよ。そんなこと思ったら」 「だって、そうじゃない? 始まりは私だもの」 「違うよ。巻き込まれただけだって」 「違わないよ」 「……違うよ、遠藤さん。それは……」  貞晴は言いよどんだが、意を決して「それは、いい子ぶっているだけだって。怒っているんだよ。遠藤さんは周りの人みんなに怒っている。腹が立ってしかたがない。でも、それを認めたくないんだ。他人に嫌な感情をぶつけている自分を認めたくないんだ」と言った。  祐子は黙っている。 「そういう気持ちも含めて、やり取りし合っていいんだよ。僕らは」 「僕ら?」 「そう、僕も、遠藤さんも、他の人も、みんな、だよ」  祐子は黙っている。貞晴は帰宅の時間が気になっていた。自分のことではない。祐子のことが気になっていた。バス通学の貞晴は、祐子を送っていけない。 「僕がわかってほしいのは……」貞晴は心配を出さないようゆっくりと言った。 三十七 前向きな気持ち 「誤解をしない人やさせない人なんて、いないんだよ。遠藤さんが誤解されたように、僕だって誤解されっぱなし。でも、僕も人を誤解しないなんてできない。神様じゃないんだから。できることは、偏った見方をしないよう気をつけることしかないんだよ」  祐子は悲しそうな目で貞晴を見た。 「誤解されたら怒っていいんだよ。相手が勘違いしていたら怒って言ってやればいい。そうしたらこっちの勘違いも気づくかもしれない。そしたら、そのあと、許し合えるんじゃない?」 「だれも、振り向いてくれなかったんだよ? 私のこと空気みたいに扱ったんだよ? どうやって気持ちを伝えたらいいの? 行動で示すしかないじゃない。『私はみんなと頑張りたいんだ』って」 「そうだね。無視はひどい。ひどいやつらだよ。僕まで腹が立ってきた」 「え?」 「ハンドボール部の女子全員が、許せない。そうだよね?」  祐子は驚いて貞晴を見た。貞晴の勢いに押されて、つい頷いた。 「その中で一番許せないひとは誰? その赤木先輩の元カノ?」  祐子は俯いて、小さな声で言った。「マリちゃん」 「マリちゃん?」 「そう、白井麻里ちゃん。嘘の練習試合の日、電話してきたコ」  貞晴は(そうりゃそうだ)と思った。一番の仲良しに裏切られたのだから。思いついて、 「その白井さんは、お兄さんのこととか赤木先輩に本を貸していたこととか知っているの?」 と、貞晴が聞くと祐子はかぶりを振った。 「だったら、僕はそのコと話をすることを勧めるよ。どういう結果になったとしても、お互いの誤解は少しは解ける」 「お互い?」 「そう。白井さんに対して抱いている遠藤さんの誤解と、遠藤さんに対して抱いている白井さんの誤解」  話す自信がないのか、祐子は不安そうな顔をした。 「大丈夫だって。僕に教えてくれたように、言えばいい。それで、なんで他のコと一緒に無視したのか、聞けばいい」 「……うん」 「もし、白井さんと話ができたら、結果を教えてね」 「うん」 「よし。じゃぁ、遅くなるから、そろそろ帰ろっか」  貞晴はそのまま立ち上がり、祐子をせかした。もう祐子の顔からは悲しい色は抜けていて、貞晴も一安心だった。歩き出そうとした貞晴に「吉川くん」と祐子が声をかけた。 「今日は、ありがとう。聞いてもらえてスッキリした。こんな風に、励ましてもらえたのもの嬉しかった」 「うん」  ときめきながら貞晴は祐子の言葉を待った。 「ねぇ、こんな風にまた話してくれる?」 「もちろん」 「ありがとう。じゃ、また明日。がんばろうね!」  祐子はすばやく自転車にまたがると、大きく手を振って帰っていった。  その後ろ姿を見送りながら、貞晴は両手を握りしめていた。今日の自分の頑張りを自分で褒めたい気分だった。  そして、翌日。いよいよ蒼山高校の体育祭の日がやってきた。 「よう、サダ。早く小道具を運ぶぞ」  教室に着いてみると、陽介がすでに来ていて数人に指示を出していた。陽介は足元のダンボールを貞晴に渡し、自分はノボリを抱えた。 「昨日、いろいろ話したよ。遠藤さんと」  廊下で肩が並んだとき、貞晴は陽介に言った。陽介は、「おぅ、そうか」と言っただけだった。  運動場に出てみると、トラック周辺を囲むように応援旗が建てられていた。蒼山高校の総クラス数は、各学年6クラス、計十八クラス。一堂に並ぶと、壮観であった。その足元で生徒たちがおのおの準備をしている。どの顔もお祭り騒ぎができるとあってウキウキしている。  貞晴と陽介がいったん教室に帰ると、そこには祐子が来ていた。 「おはよう」  貞晴のほうから声をかけた。 「おはよう! 頑張ろうね」  祐子が元気な声で応えた。「うん」と貞晴は微笑んで言った。祐子の表情がいつもの元気モードだったので、安心したのだった。 「なぁ、遠藤。混合リレーのメンバー表見せて」  横から陽介が声をかける。そのまま、陽介と祐子はなにか相談を始めたので、貞晴は残りの荷物を運ぶためその場を離れた。  そのそばで、教室を出る貞晴と陽介と話す祐子を見比べている萌がいた。 (こりゃ、驚いた)  萌は、ずれた眼鏡を直しながら思った。貞晴が、自分からクラスの女子に「おはよう」と言うなんて、今まで見たことがなかった。しかも、その声には、なんだか暖かいなにかが含まれているような、そんな明るい声だった。 三十八 目撃 「モエ、運動場いこうよ!」  数人の女子がやって来た。 「ごめん。今日はカメラマンなの」  萌は腕章を見せた。蒼山高校では、伝統的にカメラ部が体育祭の記録を写真で残す。最近は邪まな考えで体育祭にカメラを持ち込むものもいるので、今日だけは腕章を着けるもの以外はカメラを持てないルールになっていた。 「モエ! おはよー」  優衣が一眼レフカメラを持って、教室に入ってきた。優衣も萌と同様、腕章を着けている。優衣は教室に入った途端、きょろきょろとなにかを探している。 「サダッちは外。いこっか」  萌は小声で言うと、祐子に一言「さきに出とくね」と声をかけて優衣と廊下に出た。  その背中に「萌は、ムカデ競争と玉入れだからね。ちゃんと帰ってきてよー」と祐子が声をかけた。心なしか、祐子の声も明るく聞こえた。萌は、直感的に嫌な予感がしたが、自分の仕事に集中しようと気持ちを切り替えた。  萌たちカメラ部の数人は、いったん本部のテントに集まり、今日のプログラムに沿って撮影の分担を決めていった。そして、各応援旗と入場行進の風景を撮るため、各自校庭に散らばった。  トラックの片隅にはうじゃうじゃと生徒が集まっている。実行委員と体育教官が声を上げて各クラスの待機場所を指示していた。そのなかに必死の形相の憲太郎もいた。  すぐに入場行進の時間になり、ざわついていた生徒たちも整然と歩き出す。今年のナンバーワンを決める戦いに踏み出したのだった。  蒼山高校では、競技ごとに順位にそった点数が出場クラスに与えられる。最後に応援合戦の採点が合計されたものが最終得点となり、全十八クラスの最終順位を決める。3年生は最上級生の意地をみせるため、1、2年生たちは下克上を狙い、熱戦を繰り広げるのだった。  体育祭は順調に進行し、千五百メートル走が終わったところだった。  千五百メートル走を走った貞晴は、少しバテてしまい、自分たちのクラスの応援スペースの隅に座りこんでいた。その後が男女別のスウェーデンリレーで、2年D組は男子では陽介、憲太郎という俊足で挑み見事1位となった。クラスメイトは大興奮で皆が黄色いポンポンを持って奇声を上げて喜んでいた。引き続き、女子のスウェーデンリレーが始まった。アンカーは祐子だった。祐子の出場を知っている貞晴は、姿勢を直してトラックを見た。次々とバトンがつながれ祐子に渡ったとき、一瞬にして貞晴の耳から背後の大騒ぎが消えた。  背丈がないはずなのに長く見える祐子の足は、伸びやかに地面を駆けていた。黄色いバトンがリズミカルに上下し彼女の周りで黄色が瞬いてみえた。ポニーテールの毛先が彼女の駆けた軌跡をたどっている。トラックに沿ってクラスの前を駆けるとき、いつの間にか貞晴は立ち上がり声を上げて応援していた。  その少し離れたところで、構えたカメラを力なく下ろしたのは優衣だった。競技を撮りつつ貞晴をファインダーで追っていたのだ。ファインダーというのは人の集中力を高めるのか、そのままの視覚より対象を綿密に見ることができる。物憂げに座っていた貞晴の様子が変わったのに優衣は素早く気がついて、その視線の先を見てわかった。いつも落ち着いている貞晴を慌てさせたり、興奮させるのは、祐子という存在であることを。  その優衣の様子をファインダー越しに見ていたのが萌だった。優衣が千五百メートル走のときと反対に応援席側をカメラで追っているのは予想どおりの動きだったが、その動きが急に弛緩しカメラを下ろしてしまったのを目撃した。すぐ2年D組を見て興奮する貞晴とトラック上でトップでゴールした祐子を見て、萌も分かってしまった。貞晴から祐子に向う気持ちとそれに気がついた優衣の気持ちに。 (どうしようかな……)  一瞬迷ったが、次の競技のあとはクラス対抗ムカデ競争である。萌も優衣もこれに出るので、声をかけないわけにはいかない。 「ゆーい、ムカデ競争の準備しよう!」  萌がことさら元気な声で優衣に声をかけた。「……うん」優衣は生気が抜けたような声を出した。  スタートの待機をしている間も萌は気が気でなかった。優衣はなにかを考えているのかぼんやりとしていた。無事に競技が終わることを萌は祈った。しかし、萌の願い空しく、ムカデ競争のスタート直後、優衣は足を出すタイミングを誤りこけてしまった。ムカデ競争は一人がこけると周りも巻き込まれる。スタート直後の気が急くときに崩れた2年B組のムカデは、立ち直るまでに時間がかかった。そして最下位となった。  ムカデ競争のあとは、障害物競走である。アトラクション的な要素が強いこの競技ではあちこちで笑いがおこっていた。その声を背に、応援席から離れた校舎の陰で優衣は泣いていた。 「ムカデ競争のこと、気にしちゃだめだよ」  萌が優衣の肩を撫でた。優衣はなかなか泣き止まなかった。そして、 「ごめ……、ごめん。今、カメラ無理そうだから、萌は一人で写真撮ってきて……」  しゃくり上げながら優衣は萌に言った。いろんなことにショックを受けながらも、カメラ部は分担が決まっていることを優衣は忘れていなかった。 「そうだね。優衣の分も私が撮るから、ここで休んでいて」  萌は優衣の背中をさすりながら、励ます言葉が見つからないもどかしさを抱えていた。同時に、指先に優衣の肩甲骨を感じてときめいている自分に呆れていた。祐子と貞晴の間には、他のクラスメイトと違う関係が築かれつつあることを優衣と萌は悟っていた。 三十九 距離の変化Ⅰ   萌が優衣から離れたあと、一人で泣いている優衣を見かけた真紀はけげんそうな顔をしてその場を通りすぎた。  そのころトラックでは、アトラクションの部活動対向リレーが始まろうとしていた。各運動部が自分たちのユニフォームを着て勢ぞろいしている姿は圧巻だった。  それぞれの運動部にちなんだものがバトン代わりに使われる。テニス部はテニスラケット、サッカー部はサッカーボールといった具合にめいめい好きな道具を手にしている。その中で異彩を放っていたのは、剣道部と柔道部だった。剣道部は防具を身に着け手には竹刀を持っていた。柔道部は普段の道着であったがその手には半畳の畳を抱えていた。 「あれ、ヨースケだな」   剣道部の列の最後尾にいるのを貞晴が見つけた。隣にいた祐子は「えー、どれどれ?」と言いながらその場で跳ねていた。そのあまりの一生懸命さに、貞晴は祐子の脇を持って掲げてやりたい気持ちになったが、その自分の妄想にひとり赤くなった。  二人は2年D組の応援席の後ろのほうで部活対向リレーが始まるのを見ていた。この競技は、得点加算なしの完全なアトラクションなので興味ない生徒たちは応援席を離れて休憩していた。反対に、運動部に所属している生徒たちは部の威信のかかったこの競技を見逃すまいとかぶりつくように待っている。今現在、運動部と関わりのない貞晴と祐子だったが、やはりかつて在籍していた部のことは気になるのだった。  ぱーん、と弾ける音がしてリレーが始まった。  やはりサッカー部、バスケットボール部といった普段から走りこんでいるところは強かった。ハンドボール部も上位集団に入っている。 「すごいな。ハンドの人たち速いなー」  貞晴が思わず出した声に「ほんと?」と祐子が首を伸ばして見ている。 「前に行こうよ」  亀のように伸ばした首を振る動きに貞晴は内心笑いながら祐子を応援席の前に誘った。固まっているクラスメイトに自分が分け入って祐子にスペースを作ってやると、、祐子はそこに滑り込んで、貞晴を見上げて微笑んだ。  貞晴がその近さにドキリとしたとき、一斉に周りがどよめいた。2年D組の応援席の前を剣道部が走り抜けたのだ。竹刀を持つ彼らは面を打ちながら走っていた。その後ろで柔道部が畳の上で受身めいたことをしながら走っている。完全なお笑い担当となって他の部と比べて周回遅れで走っていた。 (こんだけ盛り上がれば、やっていて楽しいだろうな)  去年では思いもしなかったことを、貞晴は考えていた。去年の体育祭のことを思い出していた。1年生でありながら部活動対向リレーに出場した貞晴は、先輩から普通に走るなと言われたものの、ただ走って終わって後で絞られたのだった。  貞晴と祐子の一連の様子を応援席の後ろで真紀が見ていた。息が止まる思いだったが、優衣の泣き顔を思い出して合点した。自分も家に帰ったら泣こうと思った。  綱引きと応援合戦が終わって、短い昼休憩に入った。  祐子はクラスメイトの女子たちと弁当を手早く食べると、ひとり先に校庭に出た。萌達を探して、いち早く午前の体育祭の写真を見せてもらおうと思ったのだ。本当なら、祐子もカメラ部員として撮影に参加すべきだったがレクリエーション委員だったので免除してもらっていた。  藤棚のベンチに行くと、萌と優衣と琴子の3人がいた。 「みんなー、こんなところにいたんだ」  祐子は明るい声で3人に寄っていった。琴子と萌は顔を上げて祐子に振り返ったが、優衣は俯いたままだった。 「どうしたの? レク委員の仕事は?」  萌が気まずそうな表情をして声をかけた。 「まだ、時間があるからさ、みんなが撮った写真を見せてもらおうと思って」  祐子は微妙な空気を感じつつ答えた。  と突然、優衣が無言で立ち上がり、手元のカメラを掴むとそのまま校庭のほうに走っていってしまった。 「ユイ!」  萌が困った顔ですぐに後を追った。残された琴子と祐子は唖然として二人を見送った。  「ねえ」  祐子は琴子に聞いた。「ユイになんかあった? 目が赤かったけど」 「そうねぇ。私もよくわかんないんだ」  琴子はのんびり答えると、「写真、見る?」とカメラを突き出してきた。  祐子は優衣が気になりながらもカメラの画像を見ていた。それを見ながら「どう?」と琴子は聞いてきた。 「うん、いい! 琴ちゃんは見やすい写真撮るよね。構図がいいのかな」  祐子は一枚一枚画像を送りながら言った。琴子は「そう言われると嬉しい」と微笑んでから、一呼吸間を置いて「優衣ね、午前中泣いてて撮影にならなかったって」と言った。 「え! なんで?」  祐子は手を止めて琴子を見た。 「さぁ。そこははっきりと言わなかったけど、多分、吉川くん関係」  琴子の言葉に祐子は二人が駆けていった先を目で追った。その顔は幾分こわばっていた。  琴子はテーブルに肘を突いて頬を支えながら祐子の様子を探るように見た。 「吉川くんとレク委員やって、仲良くなっちゃった?」  琴子の言葉に祐子が一瞬驚いた後、おずおずと頷いた。琴子はさらに 「じゃ、付き合うとこまで行った?」 と聞いてきた。 四十 距離の変化Ⅱ 「まさか!」  祐子は即否定した。すると琴子は祐子から視線を外し、言った。 「じゃぁ、気にしなくてもいいよ。萌も悪いんだ」 「え?」と祐子。 「萌は優衣にけしかけて、困らせて、甘やかすから。優衣も過敏になっているんだよ」  琴子はさらりと言った。  しかし、祐子はそのままカメラを操作する手が止めて琴子を見ている。  琴子は「気になる?」と聞いた。 「そりゃ気になるよ! あんな辛そうな顔していたし」 「じゃぁさ」琴子は祐子を見ると「来週にでも一回、優衣とは萌抜きで話したほうがいいかもね」と言った。 「優衣と萌が別行動って、想像できないけど」と祐子。 「だからよ。D組の吉川くんの情報は大抵、萌経由なんだよ。この前もさ、山ノ内さんと吉川くん大接近、なんてこと言っていてさ。『でも、ぜったい優衣のほうが仲良いから』ってしきりに言うんだよね」 「山ノ内さんと吉川くん?」  祐子はクラスの様子を思い出しながら言うと、 「ほら、同じクラスの祐ちゃんが気づかないような細かいこと言う癖に、祐ちゃんと吉川くんが仲がいいって一言も聞いたことない」 と琴子は言った。 「なんにせよ、優衣が吉川くんファンだったのは前からで祐ちゃんも知っていたわけだから、吉川くんと個人的に仲良くなったんだったら祐ちゃんから直接言ったほうがいい。それで優衣もスッキリするんじゃない?」 と琴子は続けて言った。 「なんだか……」と浮かない表情の祐子が言うと「なに?」と琴子が返した。  祐子は、はぁ、とため息をついて「こういうのって苦手。ていうか、面倒」と言った。 「そうね。祐ちゃんは、人は人、自分は自分、ってところがあるもんね」  琴子は同意した。「でもさ」と続けた。 「そういうこと面倒がっていると、また去年みたいになるよ」 「……うん」と祐子。 「麻里ちゃんがさ、祐ちゃんが自分になにも相談してくれなかったのがショックだって言っていたの、知っているでしょ?」 「……うん」  祐子は頷きながら、去年のことを思い出していた。祐子は、練習試合の日を部員ぐるみでだまされたあとすぐに退部届を提出したのだが、部内で祐子があからさまにのけ者だったことを知っている他の運動部員の間で同情する声が起こった。そこへ麻里は、先手を打って自分がいかに祐子に傷付けられたかを触れ回ったのだった。  祐子も麻里も琴子も同じクラスだった。その様子を一部始終見ていた琴子は、またしてもと思う気持ちになるのだった。 「ね、来週頑張ってみなよ」  琴子は、優しく笑って言った。そこへ、午後の競技を再開するアナウンスが流れたので、祐子は「じゃぁまた」と言って2年D組の応援席に走っていった。  午後は男子選抜の騎馬戦だった。各学年が三つ巴で一斉に鉢巻を奪い合うのである。  貞晴は、自分のクラスの応援席から離れたところでその様子を眺めていた。体格の良い貞晴は騎馬戦の出場をクラスメイトからおおいに勧められたのだが、「ぜったい嫌だ」と固辞した経緯あった。そのときの女子の視線が厳しかったので、今日も刺激しないよう逃げていたのだ。 「お前、騎馬戦に出なかったのか」  いつの間にか、そばに卓がいた。大事をとって競技に出場していないようで、手持ち無沙汰の様子だった。 「うん……」 「なんで?」 「接触プレーは、苦手なんだよ」  「俺との事故のせいか……?」  貞晴は、卓はいまだ自責の念を抱えているのかと驚いた。 「違うよ。もっと前からだよ」  慌てて否定する貞晴に「いつから?」と卓は食いつく。 「ずっと子供のころから」 「子供って、小学生くらいか?」 「まぁ、そのころには自覚していたかな」 「おいおい。とっくに柔道やっていた頃だろ」 「だから、説明しただろ? 誤魔化しながらやっていたって」 「……そういうこと、か」  グラウンドの喧騒が貞晴と卓を包み込む。 「やりたくないことやっても、それなりのレベルに行けるのはすごいな」  卓は視線を遠くグラウンドに投げながら、 「いやみじゃないぞ。俺は、柔道が好きでやりたくて頑張ってきたけどたいしたことない。ほかになんの取り柄もない」と付け加えた。 「これからじゃないか。好きなことに出会えているんだから、大切にしろよ」 と、貞晴が言うと、「お前は何か好きなものに出会えているのか?」と卓は聞いていた。 四十一 反発 「なにか、のめり込むものを持っているのか、って聞いているんだよ」 と卓は言い直した。 「柔道がそうなんだったら、文系に進んだのだってそうだろ? 数学はそんなに好きじゃなかったってことかと思って」 「あ、いや。文系に進んだのは、別の理由があるんだ」 「別の?」 「そう。大学進学のこととか働くこととかを考えると、文系になっちゃって」  貞晴は自分の顔が泣き笑いのような表情を浮かべているのではないかと恐れた。自分で言いながらこんな矛盾はない、と滑稽になったからだった。自分の気持ちに気づいて柔道を止めたはずなのに、今度は進路で自分の気持ちを誤魔化している、そのことを痛感したからだった。 「ふーん。すげぇな。もう、そんな先のこと考えてんだ」  卓はそんな貞晴の心中に気づかず、感心していた。 「俺、まだ全然そんなこと考えられねぇ。なにして働くかなんて想像もつかん」  貞晴の横で卓はつぶやいた。その言葉につられて貞晴は、あの寺で袈裟を着ている自分を思い浮かべたとき(正直つらいな……)と思った。   そこへ、騎馬戦終了の合図が鳴った。すぐに残った騎馬が数えられ、勝った学年が雄叫びのような声を上げていた。 「数学は好きってことでいいんだな?」  喧騒の合間に卓が聞いてきた。 「うん。理由なしで、好きかな」  騒がしさに紛れて貞晴はつぶやいた。 「え? なに?」  よく聞こえなかったようで卓が聞き返した。それに貞晴は 「ああ、好きだよ」 とやや大きな声で答えた。  そのとき、貞晴と卓の後ろを通り抜けたのは、2年D組の矢野浩太だった。次の競技までにトイレに行こうと急いでいるところだった。人ごみを縫って歩いていると頭上から「好きだよ」という男の声が降ってきたので反射的に振り返るとそこには、貞晴と卓が親密そうに向き合っていたのだった。 (なんだって? やべぇ、この二人)  浩太は気持ち悪さを感じつつ、トイレに急いだ。そこで、用を足しているとふとある考えが浮かんだ。  今、浩太を悩ませているのは祐子の軽蔑のまなざしだった。「マメ子あだ名事件」以来、啓太がなにをしても祐子の視線は冷ややかなままだった。浩太にはそう感じられた。それを好意的なものに変えたく道化めいたことをやってもまるで駄目だったので、もう、祐子から好意的に見てもらおうとは思わなくなっていた。しかし、自分とは反対に祐子が好意的な態度で接している貞晴にどうにか一矢報いたかった。 (この話、使える)  晴れ晴れとした顔で浩太はトイレから出て、入場ゲートに向った。  とうとう最後の競技となった。クラス対抗男女混合リレーだった。スウェーデンリレーで男女とも学年1位だった2年D組はこのリレーでも1位を狙っていた。陽介、憲太郎、祐子は当然出場するし、貞晴も出ることになっていた。そして、浩太も出場するのだ。クラスごとで並んでいるとき浩太は落ち着き払っている貞晴が慌てて困る顔と、その顔を嫌そうに見る祐子の顔を思い出して、思わず頬が緩むのだった。 「矢野ちゃん、どうした?」  後ろから陽介が声をかけた。いつもと様子が違う浩太を敏感に感じていた。 「い、いや。別に。リレー、がんばろうな」  心のこもっていない言葉に、陽介は「はは。そうだな」と目だけ笑わずに答えた。  リレーは惜しくも学年2位となった。この競技は参加人数も多いので陽介たちが頑張っても挽回できない差ができた。「まぁ仕方ない。最終得点の結果を待つさ」陽介は冷静な顔で足元を見ていた。  閉会式になり、最終得点と上位クラスの表彰が行われた。  2年D組は、全校中3位、学年ではトップの得点となった。「おおー」とどよめきが起こった。例年上位は最高学年の3年生が占めるが今年はそこに2年生が食い込んだので、大いに驚きと賞賛の声だった。 「くそ、もうちょっとで優勝だったのに!」  貞晴の隣で陽介は悔しさをあらわにしていた。 「ほら、表彰だよ。行かなきゃ」  貞晴が陽介の背を押した。「お前も来いよ」と陽介が腕を引くので、貞晴は「僕よりも遠藤さんだって」と言って、祐子を探した。人ごみの後ろからクラスメイトに押し出されるように祐子が出てきたので、貞晴はその手を引いて3人で表彰台まで行くと自分はさっさと後ろに下がった。貞晴も一緒に校長先生の前に行くと思っていた祐子が慌てて「こっち、こっち」と身振りで呼んだり、陽介が何か言いかけて教師にさえぎられてバツが悪そうにしていたり、それを見て貞晴が愉快そうにしていたりするのを近くで浩太は見ていた。 (なんだ、結局、コイツらばっかり楽しみやがって)  クラスメイトたちが全校中3位の快挙を大喜びしている中で浩太はひとり気持ちが冷え冷えとする思いだった。この体育祭を彼らが楽しみたいがために、余計な面倒をかけられたように感じた。浩太も楽しくないわけではなかったが、そのような捻くれた見方をした時点で楽しんでいた自分がまるで馬鹿に見えてくるのだった。(覚えていろよ)浩太は粘つく視線を貞晴たちに投げつけながら思った。 四十二 閉会  体育祭は今年もおおいに盛り上がって閉会した。  2年D組では、高校近くのファミリーレストランで打ち上げをすることになっていたので、貞晴、陽介、祐子の3人は片付けをしたあと、開始の時間を少し遅れて店内に入った。  すでに奥のテーブルで2年D組と思われる一群が盛り上っていた。3人はすぐにそちらに近づくと、彼らに気がついたクラスメイトたちは騒ぎを止めて忍び笑いをした。 「何だよ?」  陽介は気の抜けたニヤついた顔で聞いた。その声に、どっと集団は湧いた。陽介の顔から一気に笑顔が引いたのを貞晴は見た。 「なに? なにがそんなに面白いの?」  貞晴はにこやかに集団に割って入っていくと、その手が触れた肩の主が慌てて身を引いた。「うわー」とふざけて叫んでいた。 (なんだ、この雰囲気?)  貞晴も違和感を感じづにはいられなかった。そこへ、 「サダっち、告白したんだって? 男子に!」  ひとりの女子が素っ頓狂な声を出した。その後に周りからヒューヒューとはやし立てる声が続いた。 「ヨースケ、残念! 振られちゃったね」  違う方向からまた女子が声を上げた。きゃははは、と声が上がる。 「え、告白? 男子?」  貞晴は想定外の単語を投げかけられ気が動転した。しかもそばに祐子がいた。変な誤解は避けたかった。陽介と目が合うといつもの笑い顔に戻っていた。 「誰かに告白したの?」  陽介は肩頬を上げて笑いながら貞晴に聞いた。 「いやまさか! 告白なんて………」 「してたよー。F組のデカい奴とこうやって見詰め合って、『好きだよ』って」  こらえきれなくなったのか浩太が立ち上がると、身振り手振りで再現した。 (こいつか、へんな話に作り変えたのは……)  貞晴の腹に怒りがふつふつと湧き起こってきた。そんなことはお構いなしに、浩太は 「で、付き合うの? 大男同士で!」と言ってきた。  かっとした貞晴は一歩踏み出すと、長い腕を伸ばして浩太の胸倉を掴んだ。 「なにふざけているんだ?」  貞晴は真顔で浩太にすごんだ。盛り上っていた集団が一気にしんとした。 「お、俺は見たことを言っただけだって。放せよ」  浩太はじたばたと貞晴の手を振りほどこうとしていた。しかし、貞晴の握力のほうが勝ってその手は離れない。 「勘違いするな! 大学進学のことや得意教科の話していたんだよ」  貞晴はやや大きい声で言った。その言葉に一瞬間が空いてから、浩太に向けて「なーんだ」「ほら、やっぱり」「変なこと言うなよ」と野次がとんだ。陽介が浩太を掴む手に自分の手を載せたので、それを合図に貞晴はぱっと浩太を掴んだ手を放した。  グラっと倒れそうになったのを誰かの背で支えた浩太の横顔に貞晴は言った。 「『数学好きか?』って聞かれたから『好きだよ』と答えただけだ」 「はぁ? なんだよ、それ」  浩太は首周りをさすりながら上目遣いで貞晴を見た。虚勢を張っているが、もう劣勢は必至だった。浩太に助け船を出すクラスメイトはいなかった。皆心の中では浩太の言葉を半信半疑に、ただ面白いからというだけで話に乗っていただけのようだった。貞晴が本気に怒って見せれば一気にその話から関心は去り、虚言を吐いた張本人がいけにえのように放っておかれていた。浩太の周りはすでに他の違う話題でざわざわとし始めていた。その中で、浩太は「くそ」と口の中で悪態ついていたがそれはざわめきの中に埋没した。 「こっち、こっち」  幹事をやっている谷本真人が3人を手招いた。テーブルの端に席を残しておいてくれたのだった。自然、浩太と距離ができた。貞晴も心安らかに飯が食えると思った。 「レク委員、お疲れさん」  人懐こい笑顔で真人が言った。陽介は腰かけながら「あいつ、何だよ」と目で浩太を見ながら小声で言うと 「大ニュースだってここに来たときから大騒ぎだったよ」  真人は苦笑しながら言った。 「聞きかじったことを面白半分に言うから、自滅するんだよ」  陽介は皮肉な笑顔を浮かべていた。その隣で貞晴はずっと黙っていた。とっさに浩太の襟を掴んでいた右手を見つめていた。自分にあのような攻撃的な部分があることに改めて驚いていた。 「よくやった」 「え?」  陽介の言葉に貞晴は顔を上げた。 「お前がやんなきゃ、俺がやっていた。俺だったら掴むだけじゃすまなかった」  陽介の優しい笑顔があった。貞晴は肩をすくめた。陽介の言葉は貞晴の気持ちを軽くした。こういう関係も悪くない、と思った。 「しかし、真に受けるなよ。変な話をさ」  陽介はイスに身を深く預けながら誰にともなく言うと 「サダが告白なんて、意外でつい……悪かったな」 と真人が言った。 四十三 仲良し 「サダッちだって、必要ならするよ。なぁ」  陽介が真人の言葉を受けて言った。 「止めろよ」  貞晴は顔を赤らめながら言った。ちょうど頭の中で、好きという気持ちと告白という行為がつながったところだったのだ。  好きな人に、気持ちを伝える。  恋しさが募ったときにそういうことをするという当たり前のことを、貞晴はわかっていなかった。それは他人事だった。しかし、祐子を知って、その行為がにわかに現実味を帯びてきた。前日の成功体験が貞晴に勢いつかせていたのかもしれない。  祐子のほうを見ると、目が合った。貞晴は慌てて手元のメニューに視線を落とした。何を食べるか決めないといけないのだが、集中できない。隣で陽介が言ったセットに貞晴も従った。陽介がちらりと見たが、気持ちの動揺を悟られないように貞晴はそっぽを向いた。  食事が済んでファミリーレストランを出たあとも、まだしゃべりたりない一部が近くの公園に流れていった。 「サダっちはどうする?」と陽介。 「もう帰るよ」  貞晴は歩き出した。その横を陽介もついてきた。 「あたしも帰るー」  そういって二人についてきたのは祐子だった。  貞晴と陽介は祐子の歩く速度にあわせて歩をゆるめた。 「あのね、二人には一言言いたくて……」  3人がクラスメイトの集団から離れたとき、祐子が口を開いた。 「ヨースケ君と吉川くんのお陰で、準備がすごくスムーズだったし、楽しかった。ありがとう! それから、お疲れさま」 「改まって、なんだよ」と陽介。 「えへへ。ちゃんと言いたかったんだってば」   通り過ぎる車のライトで祐子の笑顔が映し出された。その笑顔に貞晴は内心ときめいていた。 「俺も楽しかったよ、ホント。みんな、ノリがいいし」と陽介。 「そうだよねー。協力的な人が多くて、助かったよぉ」 「お前はどうなの?」 黙っている貞晴に陽介が水を向けた。 「僕も楽しかったよ。こんな気分、初めてかな」  3人の気楽さでつい貞晴は本音を言った。 「楽しかったってことか?」と陽介。 「クラスの共同作業とかがさ、ああ、もう終わってしまうのか、っていう残念な気持ちは初めてだよ」 「へぇー。そんなに体育祭を満喫していたんだ!」と祐子。  あはは、と貞晴は笑うと、「そうだね。案外、こういうのって楽しいんだってわかったよ」と言った。それを見て、陽介が黙って肩頬を上げて笑っているので 「それは、ヨースケと遠藤さんのお陰と思っているけど」 と、貞晴は付け加えた。今度は陽介が、あはは、と笑う番だった。 「なに、気を遣っているんだ」 「いや、ほんとだってば。お陰さまで楽しませてもらった」 「そりゃ、どうも」  貞晴と陽介のやり取りを見ながら、 「二人って本当に仲がいいよね」  祐子がしみじみと言った。「すごく、羨ましいな」 「遠藤もちゃんと入っているぞ。俺の仲良しリストに」  陽介が言うと、祐子は「うれしー」と言いながら、その場で跳ねた。貞晴は少し妬けて目を逸らしたのを陽介が見逃さなかった。 「俺、ちょっと急ぐから先に帰るわ。じゃ。おつかれー」  陽介は押していた自転車にまたがると、なにか言おうとした貞晴を無視してそのまま走りさってしまった。 「いっちゃった」 「慌しいヤツ」  残された二人は顔を見合わせて笑った。そして、またゆっくりと歩きだした。  貞晴は陽介が気を遣ったことがわかっていた。陽介のことだから、自分が去ったあとのことをあれこれ詮索することはしないだろうが、貞晴の行動になにか期待を持って去っていったのはわかった。  しかし、貞晴には心の準備ができていなかったし、今、祐子に告白するのはあまりに唐突な気がしていた。貞晴が考え込んでいるところに祐子が話かけてきた。 「昨日はありがとうね。いろいろ話を聞いていくれて」 「こっちこそ。話してくれて嬉しかったよ」 「嬉しい?」 「そう。信用してもらっているのかなって」  貞晴はさらに歩みをゆるめた。正面の交差点で祐子とは分かれなければならない。 「そりゃそうだよ。あんなに自分のこと話したの、家族以外では初めて」 「え、そうなの? 女子同士ではそんなこと話しないの?」  貞晴は意外だった。だったら、四六時中話をしている女子たちはなにを話題にしているのだろうと不思議に思った。 四十四 告白Ⅰ 「人によるけど。私は、苦手かな」  貞晴は意外な気がした。クラスの誰とでも仲良くしているように見える祐子も、人間関係でいつも楽しい思いをしているわけではなのだとわかった。同時に、祐子にとっての自分が他の人間より近い存在だと認めてもらったようで嬉しかった。 「吉川くんはとても話やすいから。ほんとに吉川くんと同じクラスになれて良かった」  その言葉が貞晴を勇気づけた。 「それじゃ、また来週」  二人は交差点に到着していた。去ろうとする祐子のポニーテールが貞晴の目の前で翻った。その瞬間、高速のスライドショーのように毎日の祐子が蘇ってきた。(ああ、僕は毎日この人を見ていたのだ)と自覚した。 「ちょっと待って」  思わず貞晴は呼び止めていた。怪訝な顔で祐子が振り返った。 「あの、その」  貞晴の鼓動は一気に高まった。 「ん? なに?」  貞晴の気持ちを知らない祐子はなにか事務連絡でも聞くような顔で待っていた。  貞晴は一歩祐子のほうへ進み出て、声が車道のノイズに邪魔されない位置に近づいた。祐子は何事かと眉を上げた。 「あのさ、驚かないで聞いてほしいんだけど」 「え? なんだろ」  どんなニュースが聞けるのかという期待を込めた瞳で顔を寄せてきた。黒目がちの瞳が近づいてきたので貞晴の決心は崩れそうになった。一瞬の間に、どうやってこの場を誤魔化そうかと頭の中で考えていた。つかの間の沈黙が耐えがたかった。 「やっぱ、止めとく」 「ええー、言いかけて止めるのってずるい!」 「ごめん。また改めて」 「どうして? 今言いかけていたじゃん!」  祐子は思いのほか食い下がってきた。再び、貞晴の頭はフル回転で動いていた。話を聞く気マンマンの祐子を見ていると、こうやって二人きりになるチャンスはそんなにないだろうからこの機会を逃さないほうがいいように思えてきた。 「じゃぁ、言うよ」 「ねぇ、それって私がびっくりすること?」  祐子の質問に貞晴の緊張はさらに高まった。 「うん、多分」  貞晴は祐子から目を逸らしてかろうじて答えた。 「なんだろ? ねぇ、なになに?」  好奇心旺盛な祐子は待ちきれない様子で自転車のハンドルから身を乗り出してきた。  貞晴は、ごくりとつばを飲むと、 「……好きなんだ」 「?」 「遠藤さんのこと、好きになってしまった」  祐子は驚いた顔で貞晴を凝視していた。そして、そのままゆっくりと乗り出した体を戻した。 「好きです。……好きなんだ」   貞晴は口から出た言葉が掻き消えていきそうで繰り返して言った。心臓は暴れ放題で、脇から汗が出てきていた。耳まで赤くなっていることもわかった。  貞晴が自分の混乱に耐えながらふと祐子の顔をみたとき、貞晴はバケツで水をかけられたようなショックを受けた。  祐子が苦しそうで悔しそうな顔をしていたからだった。 「ごめん、びっくりしたよね。突然、変なこと言ってごめん」  嬉しそうな顔を期待していたわけではないが、まさかそこまで自分が嫌がられているとは思っていなかったので貞晴はしどろもどろに謝った。 「……びっくりした」  祐子は貞晴がやっと聞きとれるかどうかの小さな声を発した。 「本当に、ごめんなさい。でも、けしてふざけているわけじゃないから。本当に、遠藤さんのことが可愛いと思って、好きだと思ったから……」 「それは、嫌なの!」 「?」 「そんな関係は嫌なの!」  きっぱりと「嫌だ」という言葉を聞いて貞晴はめまいを起こしかけた。そこへ 「吉川くんとは、本当に良い友達になれると思っていたのに! 吉川くんとは親友になりたかったのに、そんなこと言わないで!」 と、祐子が言葉を畳み掛けた。貞晴はなんとか踏ん張って祐子を見た。祐子の表情は真剣そのもので、けして貞晴をからかおうとしているものではなかった。 「ともだち? もう友達だよ」  貞晴は残酷な言葉を浴びかける祐子の真意を測りかねた。 「吉川くんとは、ただの友達では嫌なの!」 「……」 「吉川くんは、感覚的なことも理解し合えて、なんでも話が出来る人だから。だから、私にとって唯一の心の友なの。親友になりたいの」  祐子は目に涙を浮かべて思いのたけを貞晴にぶつけた。 四十五 告白Ⅱ 「……心の友?」  なんだそれは、と言いたいところを貞晴はぐっとこらえた。祐子は祐子で涙ぐむほど真剣なのだ。 「ええと……じゃあ、他にだれか好きな人がいるの?」  貞晴は平静さを取り戻していた。さきほどまでの浮かれた気分はどこかへ行き、かわりに、最悪の結果を受け止めるため祐子の事情を理解しようとしていた。 「いないよ、そんな人」  祐子ははき捨てるように言った。その顔はいらいらとして不機嫌になっていた。 「僕のことが嫌いなの?」 「そんなこと言っていない! 心の友だって言っているじゃない」 「それは、ただの友達ではないってこと?」 「そう。私にとって吉川くんは特別なの」 「特別、というのは、どういう意味?」 「特別は特別だよ。だって、私、初めてなんだもん。こんなに人を信じて頼ることなんて」  貞晴はじっと祐子を見た。嬉しいはずの言葉だったが、心はなぜが空しかった。  祐子は繰り返した。 「吉川くんは心の友だから、告白なんてしてほしくなかった!」 「……つまり、僕を男としてみれないってこと?」 「男とか、女とか、関係ないもん。吉川くんとは、本当になんでも話できる良い友達でいたいの」 「いままでそういう友達、いなかった?」  祐子はまるでふてくされた子供のような顔をして、かぶりを振った。 「……僕は男だよ?」 「男の子と女の子が親友になっちゃいけないの?」 「そういうわけじゃないけど……」  貞晴は困ってしまった。祐子の要求はわかったが、はいそうですか、と受けることは貞晴には出来なかった。 「もう一度確認するけど、他に誰か好きな男子がいるってことじゃないんだよね?」 「いない」  祐子は貞晴をまっすぐ見て言った。 (多分嘘は言っていない)  貞晴は引き際だと思った。 「よく話はわからないけど、遠藤さんの言いたいことはわかった。つまり、今の遠藤さんにとって恋愛よりも友情のほうが大事ってことなんだよね?」 「だって、恋愛っていろんな人ともめるでしょ?」  その言葉で貞晴は理解した。 「去年、赤木先輩から告白、されたね?」  貞晴の問いに祐子は頷いた。告白に拒絶反応を示したのはそのせいだとわかった。 「今のままがいいの?」 「今よりもっと仲良くなりたい。友達として」  祐子の言葉は決定的に貞晴を打ちのめした。 「わかった。じゃ、取り消すよ。さっきの言葉。撤回する。これで、ややこしいことはなしだ」  祐子はほっとした表情を浮かべた。貞晴の胸がずきりと痛んだ。 「引き止めちゃって、ごめん。それじゃ、これで」 「私たち、友達だよね?」  立ち去ろうとする貞晴に祐子は声をかけた。 「僕は遠藤さんの味方だよ」   貞晴は最後の力を振り絞ってなんとか言葉を返えした。  少し離れた街灯の明かりがほの暗く祐子の手を振る姿を映していた。きびきびと振られる腕が可愛らしく、切なかった。  貞晴は軽く手を上げて、そのまま振り返らずに帰途についた。 「そりゃ、お疲れさま」  翌週、貞晴は陽介に分かれた後のことを打ち明けた。 「お疲れさまって。このショックを共感してくれないの」  貞晴は週末かけて祐子の言葉を分析したが、告白を拒絶されたことを消化しきれていなかった。 「しているよ。辛いよな、そんなこと言われたら」  昼休み。いつもの藤棚の下でジュースを飲みながら、貞晴と陽介は並んで誰もいない校庭を見ていた。 「でもさ。他にライバルがいないようだし、今後、まったく脈がないとはいえないんじゃいか?」 「ここまで打ちのめされて、また告白って。考えられない」 「じゃ、このまま心の友を演じるの?」 「……」  陽介の質問に貞晴は答えられない。自分でも答えが出ていないのだ。祐子に言った言葉は全て真実だった。祐子のことを可愛いと思い好きになったこと、そして彼女の味方であること。しかし味方であるために、都合の良い友達でいることは、貞晴にはどうしても納得いかなかった。 「心の友、か。見方によってはものすごい強い絆があるってことじゃないか」  悶々と悩む貞晴にとって意外なことを陽介は言った。 四十六 自分の気持ち 「強い絆?」 「そう。強い信頼関係、と言ってもいいかも」  陽介は大人びた表情を校庭に向けたまま言った。 「多分さ、サダッちと遠藤って似ているんだよね。わが道を行くくせに周りに気を遣うところとか」 「そう、なのか?」 「俺の感想だけど。遠藤にしてみたら嬉しかったんじゃないの。そういう人が近くにいるってことがさ。下手にレンアイしてさ、こじれて分かれてその関係が終わるより、変わらぬ友情を選んだのかなと俺は思う」 「僕にはわかんないな。それが遠藤さんの真意として、陽介なら納得できるのか」 「俺はその立場じゃねえし。お前はお前が思うようにすればいいんだよ」 「……」 「トモダチのフリをしてもいいし、距離をとってもいいし」  貞晴はため息が出てきた。 「生殺しだな」 「そうか? なんだか楽しそうでいいじゃん」 「人事だと思って!」  陽介の冷静な言葉を聞いて、貞晴はなんだか悩んでいるのがばかばかしくなってきた。人に話しをしたことで、気分が楽になったせいもある。 「陽介の言うとおりだな。自分で決めなきゃいけない。これから、なにをどうしていくのか、自分で悩まないと」  貞晴は自分に言い聞かせるように言った。 「だからさ。そう、気負わなくっていいんだって。決めるとか悩むとか難しく考えずにさ。そのとき感じたことが全てだよ」  陽介はいつもの薄ら笑いを顔に浮かべて言った。  その日貞晴が帰宅後、自室に入るとそこに耕一がいた。立ったまま貞晴の机の上のノートをめくっていた。数学の演習用ノートだった。 「ああ、おかえり」  耕一は柔らかい笑顔を向けてきた。 「なに?」  貞晴はカバンを置きながら怪訝そうに聞いた。 「よく勉強しているんだな……」 「……なにか、用?」 「なぁ、やりたいことをやりたいようにやっていいんだぞ」 「え?」 「こんなに数学と仲良しなのに、今のままでいいのか」  耕一はすらっと並んだ数学の問題集を眺めて言った。 「だって」 「だって?」 「……もっと大事なことがあるでしょ?」 「そうなのか?」 「そうじゃないか! 兄さんが大学に復学する見込みがないなら、僕がこの寺を継ぐしかないじゃないか」 「それで、数学を捨てて、兄さんと同じ大学に行くつもりか?」 「僕だって考えて考えて、決めたんだ」 「考え抜くことと思い詰めることは違うぞ」 「なに言いたいんだよ」 「だから、やりたいことをやりたいようにやっていいんだ。べつに寺に縛られなくてもいい」 「じゃ、どうするんだよ。父さんの後は」 「お前が本気で寺を継ぐつもりならそれはそれでいい。しかし、そうでないのに無理やり僧侶をやってもいいことにはならん。……どっちなんだ?」 「え?」 「本気で僧侶を目指すのか?」 「……」 「世間には、他の職業をしながら僧侶をやっている人もいる。僧侶の修行は社会人でもできるんだ。私が元気なうちは、やりたいことをやれ」 「……」 「お前に言うことは、それだけだ」  耕一は足袋で畳をこすりながら貞晴の横を通り過ぎた。  貞晴は机に進みノートをめくった。  ページごとに日付が打ってある。問題を見ると、そのとき悩んだことや解けた喜びがよみがえってくる。これが貞晴の日記のようなものだった。そのまま視線を本棚に向けると同様のノートがびっしりと棚を占拠していた。 (面白いこと言っていたな。僕と数学が仲良し? ああ、そうか。お前はだれよりも僕のそばにいたね)  貞晴は自分が書き連ねた数字を指でなぞりながら、目が覚める思いでノートの文字を見て、本棚を眺め、ぐるりと部屋を見渡した。 (そのとき感じたことが全てだよ)  頭の中では陽介の言葉が響いていた。                                     (了)
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