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調理場はむせかえるほどの甘い匂いで、吐き気をもよおすほどだった。
今日はバラ園の花で大量のジャムを煮込んだらしい。
ジャムは瓶という瓶に詰められ、機械(アーム)が棚に分けていく。別の棚には、食パンがどんどん焼かれて整然と並べられている。
美しい朝の光景。
わたしは機械が規則正しく動くのを眺めながら食べるためだけに、早起きをする。
パンが棚にたまってきたら、まるごと一斤を手に取る。まだ温かいそれをちぎってジャムの瓶に入れた。ぼたぼた垂れて汚れるのがわかっているので、シンクの前で食べる。
ソフィアが見たら、眉を顰めるだろうなと思う。
昨日はろくに食べられなかったから、お腹は減っている。
わたしは昨日、流産した。
久しぶりにキッチンで食べていると、ソフィアの記憶が鮮やかによみがえる。まるで今も部屋で眠っているだけのような気すらした。
ソフィアはいつも昼近くにならないと起きてこなかった。
だから、朝食はひとりで好きなように食べた。たとえばパンの一斤を半分に割り、真ん中あたりに穴をあける。その中にたっぷりジャムを入れて食べるなんて、お行儀の悪いふるまいすらした。糖分が脳に供給され、徐々に目が覚めていく。覚醒の儀式。
だいたい三斤目を食べ終わるあたりで、消化しないまま喉元までせりあがる。仕方がないので、いったん吐きだす。それから四斤目に手をつける。
けれど、今日は半分も食べられない。
珍しくソフィアが朝早く起きてきた日をふいに思いだす。あの日も大量にバラのジャムが煮込まれた日だった。
◇
「もうやめなよ、ブランカ。胃が荒れる」
パンを咀嚼しながら、答える代わりに時計をみると「失礼ね」と不機嫌そうな声が返ってきた。
「たまには早く起きるわよ」
「昨夜は早く寝たの?」
「……寝てない。コードを読み込んでたら朝になった。お茶でも飲もうと思ったんだけど……いつも、こんな早くから食べてるの?」
ソフィアはわたしの四斤目のパンを取り上げ、ちぎって口に放り込む。
「甘すぎ」と文句を言いながらも、半分くらいは平らげて、残りはダストボックスにためらいなく放り込む。
「あ……」
「残念そうな顔すんじゃないわよ。吐くのと同じでしょ」
「一度、体の中を通るのと、そのまま捨てるのじゃ全然違う」
「そうね。胃の中が荒れる分、捨てるほうがマシ」
ソフィアはそう言い捨てて、二人分のミルクティーの準備をした。口調はきついけど、ソフィアは優しい。いつもよりシナモンの香りが強いのは気遣いだ。荒れた胃にいいらしい。読書家のソフィアはいろんなことを知っていた。
「はい、どうぞ。ミルクは多めにしてある。砂糖は入れないで」
「ありがと。バラのジャムは入れていい?」
「ダメ。糖分過多。それにシナモンは香りが薬なんだから意味がない」
ソフィアのいうことはいつも正しいから、しぶしぶ言うとおりにする。
「それにしてもバラジャムか……」
棚に整然とならぶ瓶を見て、ソフィアはため息をついた。
「大量生産、なんとかなんないもんかな」
「プログラム、書きかえるの難しい?」
「んー、昨夜も資料読み込んでたんだけど、どこがバグかわかんなくて。別のコード加えたのよね……。畑の方、いじればいけると思ったんだけどな」
施設(ホーム)はすべて自動で運用されている。畑の収穫も加工も破棄もプログラムで適量を保っていたのだけど、このところ供給過剰のまま止まらなくなった。
わたしとソフィアしか住人がいないというのに、機械は毎日二十人分の食事を作り出す。破棄分の多くは肥料になるが、野菜や穀物が豊作すぎて困る。
「畑がなければ収穫されないと思って範囲を狭めてみたの。まさかバラの花を収穫するとはね……」
「おいしいよ?」
「そういうことじゃない。あーもう、管理プログラムのこと、マリアにもっと聞いておけばよかった……」
施設の管理をしていたのはマムだった。新しいプログラムも作っていたし、不具合を直すのもお手の物だった。快適に管理された施設は当たり前ではない。いかにマムが毎日気を配っていたのか、いなくなってからわかった。
わたしたちが十六になったばかりのときに、マムは死んだ。
マムといっても、わたしたちの本当の親かどうかわからない。わたしたちはランダムに選ばれた保管庫の受精卵が元で、施設に住む大人のお腹から生まれる。
わたしとソフィアは、一緒にマムのお腹から出てきたけど、受精卵の卵子がマムであるとは限らない。厳密には「母」とは呼べないと教えてくれたのはソフィアだ。だからソフィアはマムとは呼ばず、「マリア」と呼んだ。
「マリア」が名前ではないことを知ったのは、マムが死んでからだった。それは役割の名称で、子どもを宿した者は敬意をもって「マリア」と呼ばれたというのも、ソフィアが教えてくれた。
わたしが知っている大人は、マム以外、子どもを産んだことがなかったが、昔はこの施設に「マリア」が何人もいたという。だからマリアの後に固有の名前をつけて呼んだ。マリア・イザベラというように。マムにも名前があったはずだけど、わたしは知らない。それにこのごろ、顔は覚えていても、大好きだった声は思いだせなくなった。昔のことはどんどん忘れる。
「なに泣いてんの」
「マムの声、どんなだっけ」
「録音ならデータ室にある……」
「違うの」
ソフィアがすぐにでも探しに行こうとするので止めた。わたしが泣くと、ソフィアは困惑する。情緒が安定しないのは、甘いものを食べすぎるからだとお小言を言う。
昔はこうではなかった。大人たちがいたころは、バランスのいい食事をして、たくさん遊んで規則正しく生活した。いまは好きな時に食べて、眠る。そして過去のことは忘れる。
「声が聴きたいわけじゃないの……。マムのこと、どんどん忘れちゃうから……」
「仕方ないよ。それが時間ってもんでしょ」
ソフィアはそう言って抱きしめてくれた。
でもそれはマムの真似事だ。こうすればいつもわたしが泣き止むから、そうするだけ。まるでプログラムで泣いたり笑ったりする人形みたい。
ソフィアは合理的なだけで、抱きしめるのは「愛」とか「情」なんて理由じゃないことはわかっていた。それでも感情の高ぶりがおさまっていく。人のぬくもりはわたしにとって精神安定剤だ。
泣き止むとほっとするソフィアの気配がした。
ソフィアは泣いたり嬉しくて飛び上がったりということはない。マムが亡くなったときも、ソフィアは冷静で、淡々と分解液を棺桶(ケース)に流し込んだ。わたしは三日ほど何も食べられなかったのに。
鼻をすするとソフィアが、優しく言った。
「マリアに会いに行く?」
うなずくとソフィアは保管庫の鍵を取った。
マムの棺は卵子の保管庫にある。
卵子はマイナス196度で凍結されているけど、保管庫自体は適温に保たれている。なるべく外の環境を入れないように、防護服に着替えて入るから息苦しい。
棺は冷凍庫ではなく、床に置かれていた。本来、人が亡くなれば分解液ごと海に流し、自然に返る。こうして残すことはないのだけど、わたしがあまりに泣くものだから、ソフィアがここに置いていつでも会えるようにしてくれた。
中身は分解されて、液状になっている。でも、わたしにはすこしでもマムの気配が必要だった。
「ただの分解液をとっておく意味がわからない」とソフィアは首をかしげるけど、わたしの意思を尊重してくれる。ソフィアのそんなところが大好きで、愛しくて、いつでも抱きしめて手を握っていたい。けれど、嫌がられるのはわかっているから、横顔を眺めるだけにしておく。わたしとほとんど同じ顔立ちだけど、ソフィアの方が少しだけ尖った鼻や顎をしている。なにもかもシャープな印象のソフィアの唇だけ、ふっくら丸みを帯びていた。わたしはときどき、その唇にかじりつきたい衝動に駆られた。
「昔、墓という概念があったって話したの、覚えてる?」
「うん。焼いたり、土に埋めたりして亡くなった人を偲ぶのでしょう? ロマンティック」
「ロマンティック? 不衛生よ。当時はウィルスのまん延で世界が壊滅するなんて、想像もできなかったにしても……気持ち悪い」
「だって、残っていれば何年も、何百年も忘れられないでいられる」
「それは執着心ってやつじゃない。わたしたちがもっとも忌むべきもの」
教育プログラムでは、自分のものも他人のものも区別をつけてはいけないことを教えられる。
ウィルスによって壊滅しかけた世界を運用していくためのルール。人類は施設の外にもたくさんいたと歴史のプログラムで習った。男たちが主導した世界は、争いが多かったのだそうだ。
今はここしかないのだから、全てを共有し、大事にしないといけない。子どもは施設みんなの子どもだから、大人はみんなマムだ。でも、わたしは自分を産んだ人のことだけ、マムと呼ぶ。ほかはソフィアだけが特別。忌むべきだと教えられた執着を、手放せない。
もし、ソフィアが先に死んだら、海に返すつもりはなかった。いつでも会えるように、ここで凍結させたい。でも、ソフィアはためらいなくわたしを分解液に浸すだろう。そうして、忘れる。
「わたしは……ソフィアのこと、忘れたくない」
そういうとソフィアは困ったように目を背けた。
「棺をわざわざ残す気持ちはわからない。けど……ブランカにとって、これは墓と同じで記憶装置なんだと思う」
わからないなんていいながら、適切な言葉をくれて泣きそうになる。そう、記憶装置。顔や声を忘れても、棺を見るたびマムがしてくれたことを鮮明に思いだすのだ。収穫機械に夢中で畑で泥だらけになったわたしを洗ってくれたマム。
「ブランカは機械が働くのを見るのが好きなのね」
ここの子どもとして大切に扱ってくれるのはみんな同じだけど、そのあと機械の仕組みを教えてくれたのはマムだけだ。ここの子どもというだけではなく「ブランカ」として、大切にしてくれた。機械の話は難しすぎて、途中で眠ってしまったとしても。
「こーら、泣いちゃダメ。余計な成分を落とさないで」
うなずいてなんとかこらえる。保管庫は清潔に保たれないといけない。
それからいつものように「巡回」した。
範囲を決めて、卵子の入っている棚を見て回るのだ。
「この辺りは三十年くらい前」とソフィアの声は楽しげだが、わたしはあまり気がすすまなかった。
「マムのもあるかな」
「年代的にはあるかもね」
卵子は凍結用のタンクに入れられている。
この卵たちが受精することは、もうない。精子が存在しないからだ。「男」は何百年も生まれず、唯一残された精子は機械のバグで死に絶え、卵子と受精卵が残った。最後の受精卵はわたしとソフィアが誕生するときに使い切り、ふたりが死に絶えると同時に人類は消滅する。
唯一、残せるとしたらクローンだ。けれど、その技術はタブーだった。
母体へのリスク、生まれる確率の低さ。生まれても多くが幼少時に死滅する。男が減少したとき、クローンの研究は進んだが、やがて、リスクが大きいとして継承されなかった。
「クローンは人類の仕組みからはずれるとタブー視されたけど、できなかっただけ。ただし、マリアの研究日誌には試した形跡はあるけどね」
これもソフィアが教えてくれたこと。
「せっかく生き残る道があるのに……理解できない。マムならリスクの少ない方法を編み出してたかも」
「完成してたとしても、わたしは嫌だな。同じ遺伝子を増やし続けるなんて、ぞっとする」
「じゃあ、同じ卵だったわたしたちは?」
「違うよ。同じ卵子から生れても遺伝情報は違うもの」
目覚めることのない卵たちを見ていると、わたしは悲しくなる。けれど、ソフィアはそれがいいのだと言った。
「わたしもこの卵になりたい」
ソフィアがそう言ったとき、わたしは憤った。
「どうして? 生まれなかったらわたしとソフィアは出会えなかったんだよ? それでもいいの?」
口走って気づく。ソフィアは何にも執着しない。別にそれでもいいと言われたらどうしよう?
けれど、ソフィアはそれには答えず、ぽつりと言った。
「生まれなかったらプログラムのバグで悩むことも……なんのために生まれてきたのか、考えなくていいから」
最後の方はぎりぎり聞こえる小さな声だったから、聞こえないふりをした。いつもはっきりとした物言いをするソフィアだけに、わたしも動揺したのだ。
なんのためになんて、わたしは考えない。そばにソフィアがいるだけで、生まれてきた意味がある。わたしの執着は恋に似ている。
「わたしたちのも見ていこうよ」
不自然なほど明るくいうと、ソフィアはいつもどおりの彼女になった。
「めずらしいね。いつも避けてるのに」
「だって、採取されたときのこと、思いだすんだもん」
卵子は初潮がきて一年後に採取される。ソフィアの方が少し早くて、うらやましかった。
「あんなに痛いの知ってたなら、教えてくれればよかったのに」
「教えてたら、やらなかったでしょ?」
「やってたよ!」
「ほんとうに?」
「……そりゃあ、すっごーーーく、悩んだあとだろうけど」
そういうとソフィアは珍しく声を出して笑った。
卵子の採取は、義務ではなくなっていた。精子が全滅したあとだったから。わたしたちが男ではなかったから。それでもソフィアが採取を望んだから、わたしもそうした。彼女が経験することは全部したかった。しなければあんなに痛くて恥ずかしい経験をソフィアがしたのだと、知らないままだった。
「こっちがわたしで、こっちがブランカ」
ブランカとラベルに書かれたタンクをソフィアが撫でると、背筋がざわめいた。わたしの分身。永遠に眠る卵。なんのために彼らはここにいるのか。
「ソフィアはどうして、採取しようと思ったの?」
「ブランカは?」
「ソフィアがしたから」
「即答ね」
「合理的ではないこと、ソフィアは好きじゃないでしょう? 不思議だった」
「そうね……。単純に見てみたかった……のもあるけど」
卵のことになるとソフィアは歯切れが悪い。ぼんやりした目をタンクに向けたまま言葉を探している。
「うん」
「わたしがいなくなっても、機械が動き続ける限り、この子は生きてる。そう思うと、死ぬことが怖くなくなる」
「ソフィアは……死ぬのが怖いの?」
そう聞くと体が固まったみたいに、しばらくソフィアは動かなくなった。
死を恐れるのも、生への執着。それもタブーなのだ。
わたしたちは機械がただ、パンを作り続けるのと同じように生きるのを推奨された。食べて眠り、穏やかに笑いあう。すべての人に等しく優しい気持ちを持つように教育される。誰かを特別気にかけないように。
そのために食事や眠る時間も管理され、心が乱れると薬を飲んだ。
この世界が長く続くように。
それなのに世界は終わりかけている。
どんなに争いごとがあっても、世界は滅びなかったのに。
それは執着を手放したからではないかと言ったら、ソフィアはどんな顔をするだろう。
クローン技術を手放したのも、「人類」の存続に執着しなかったからではないか。
「怖いのは、悪いことじゃないよ」
そういうと、ソフィアは首を振った。否定ではなく、「信じたくない」とでもいうように。
「違う、違う、そうじゃない」
感情が乱れるソフィアを初めて見た。
わたしは彼女を抱きしめた。いつもと立場が逆転する。
けれど、触れ合いに慣れていないソフィアは、わたしを突き飛ばしたのだ。
「ご、ごめん! ブランカ! そんなつもりじゃ……」
尻もちをついたわたしより、ソフィアの方が動揺した。
「大丈夫。急に触れちゃって、ごめんね」
泣き出しそうなソフィアの顔。柔らかそうな頬に触れて、口づけたい。でも、それこそ驚かせてしまうから、彼女が差し出した手をつかみ、立ち上がる。
「きっと、寝不足だからよ」
わたしの言葉にソフィアは縋りつくみたいに、うなずいた。
「そうね……きっと、そう」
あの日、ソフィアは生への執着を自覚したのだろう。
真夜中、ソフィアが保管庫に入る姿をみたのは、それからしばらく経ってのことだ。
わたしは夜、眠るのが早く、一度寝付けば朝まで起きることはなかった。
夜中に目覚めたのは、珍しかった。地震があったせいかもしれない。
プログラムで施設内は揺れが少なくしてあるが、外では大きな被害が出ることがあった。畑が気になり、外に出ようとしたときだった。
ソフィアが慌てた様子で保管庫に入っていった。
窓の外を電灯で照らすと、地面には亀裂が入っている。珍しく大きな地震だが、施設の中の揺れは小さなものだ。保管庫のタンクが損傷することはない。
保管庫に入ると明かりがともっていたが、ソフィアは見当たらなかった。タンクの森をくまなく探し歩き、ふと、奥の研究室を思いだした。マムがいなくなって使われなくなった部屋。
ソフィアはやはり、そこにいて、床に這いつくばっていた。床にはガラス片が飛び散っている。
「いたっ」
小さな声にわたしは慌てて彼女に駆け寄った。
「けがしたのっ?」
「ブランカ……ッ」
とっさに血が盛り上がっている彼女の指をくわえた。マムには絶対、やるなと言われた処置。口の中にはたくさんの雑菌があるから、なめてはだめという言いつけは、咥えたあと思いだす。
けれど、彼女の血液が自分に入る感覚に、体が熱くなった。ソフィアの一部が流れ込む。その感覚に夢中になり、ソフィアが「やめて」というまで、口に含み血を吸った。
ソフィアの気まずそうな顔と紅潮した頬。それを見たとたん、体の奥が熱を持った。
これは性的な欲望なのだと気づく。ソフィアの読んでいた古い小説に描かれていた恋情。執着の極限。執着の中でも大きなエネルギーは人を殺すこともあるとソフィアが言ったことを思いだし、唐突に理解した。
救急キッドで処置が終わり、落ち着いてあたりを見ると、研究室はしばらく前から稼働しているようすだった。
「なんの研究をしてたの」
わたしに黙って、という言葉は飲み込んだ。
彼女の意思はわたしによってコントロールされてはいけない。執着は「コントロール」に行きつく危険がある。誰かを思う通りにすること。それが独裁者を生み、虐待にもつながっていく。その危険を肌で感じる。欲望を自覚したあとに。
でも、聞くまでもなかった。ここは元々クローンの研究室だった。そのための道具がそろっている。それから、保管庫から持ち出された卵子のタンク。
「子どもがほしいの?」
「違う!」
ソフィアは震えていた。彼女は誰よりもここの規則を守る。タブーを犯すことは、彼女にとって恐怖だ。
「子どもがほしいという欲望は人類が持ち続けたもの。そうやって繁栄してきた。悪いことじゃないよ」
「欲望だなんて……」
「恥ずかしいことだと思う? じゃあ、わたしも恥ずかしい存在ね」
「ブランカが?」
「わたしはソフィアの細胞で作った卵なら、産みたいもの」
それは素晴らしいアイデアだと思えた。人類の存続など、心底どうでもよかったが、ソフィアのクローンを産むなんて。どうして今まで考えつかなかったのだろう。
ソフィアは唖然としたあと、顔を赤くして顔をそむけた。
こんなに表情が豊かなソフィアはこれまで見たことがなかった。卵を前にしたときだけ、感情をあらわにする。
「ダメだよ。それに、壊れてしまった……」
「大丈夫。また、作ればいい。わたしも手伝う」
ソフィアの頬を包み、自分の方に向かせた。潤んだ目から流れ落ちた涙を舌でぬぐう。欲望のままにふっくらとした唇を何度もついばんだ。
「わたしの卵にソフィアの細胞を移植して。それをわたしの子宮に入れるの」
口づけを拒まなかったソフィアの瞳にも欲望が宿る。それでも、彼女は首を振った。
「ダメだよ。母体にリスクがある。……ブランカが死ぬのは、嫌だ」
最高の告白。ソフィアもわたしに執着している。いつ死んでもいいと思えるくらいの喜びに飛びあがりそうだった。
「じゃあ、こうしよう。ソフィアもわたしの細胞を移植した卵を入れるの。どちらかが生き残れば、ふたりの子どもができる。ふたり生き残ればハッピーエンド。ふたりとも死ねば、悲しくはない。どう?」
ソフィアは提案をのんだ。
つわりはソフィアの方がひどくて、食欲すらわかないと言っていた。
どんどん瘠せていくソフィアを見ていると、自分の提案を悔いた。わたしはふたりが行き残る未来しか考えていなかった。
わたしが死ぬのが嫌だといったソフィアの気持ちがわかる。もし、ソフィアの子が生まれたとして、彼女のかわりになるわけじゃない。
ソフィアの子どもは八週目で流れた。それから彼女はみるみる衰弱した。
「ごめんね、ブランカ」
床に伏せっきりのソフィアは顔を見るたび、謝った。
「謝ることないよ。また、試せばいい。卵はまだある」
わたしの言葉は慰めにはならないどころか、ソフィアを追い詰めるようだった。
「もう、こりごり」と弱々しく笑う彼女に、かける言葉がなくなった。
「ブランカの子は順調そうね」
彼女が衰弱するのと反比例して、わたしの子は順調に育っていた。もうじき安定期に入るころだった。
まだ、膨らんでいない腹をソフィアは撫でた。
「わたしの、じゃない。ふたりの子だよ」
そういうとソフィアは頬を赤くしてうなずいた。
「不思議ね。生まれた意味なんてどうでもよくなったし……死ぬのが怖くなくなったの」
「そういうこと言わないで。元気になるよ。それでこの子をふたりで育てよう? わたし、何人でも生むから」
それにはソフィアはほほ笑むだけで、何も言わなかった。体の限界を知っていたのだろう。
ほほ笑んだまま眠り、ソフィアは目覚めなかった。
◇
甘い食パンは半分も食べられなかった。
無理やり子どもを流すのも、体の負担が大きい。まだ、股の間から血が流れている。
ソフィアがいないのに、子どもを育てる気などおきなかった。彼女に似た子どもを見るのもつらいだろう。同じ遺伝情報を持っていても、彼女ではない。ふたりで過ごした記憶を子どもは持たない。それに、この子ひとりで世界に取り残されるのは、あまりにも残酷だ。
残したパンをダストボックスに捨てて、保管庫へ行く。
タンクの森の奥に眠る、マムの棺。その隣にはソフィアがいる。
大きめの棺に分解液は入れていない。
蓋を開けると、保存液に浸かったソフィアは、眠っているように見えた。
彼女は気持ち悪いと言うだろうか。いや、執着を自覚したソフィアなら、共感してくれるはずだ。命のない入れ物は、当人に意味はないとしても、執着した者にとっては大事な記憶装置だ。昔の人類が焼いて骨を残したのも、生き残った者の未練。
まずは保存液を抜く。空気に触れて劣化する前に、素早く処置をしなければいけない。
液が抜けきる前に、わたしは棺の中に入った。
「待たせて、ごめんね」
氷のように冷たいソフィアの唇に口づけ、保存液で濡れた棺に横たわる。
彼女の横顔をうっとりと眺めた。尖った鼻のラインがことに好きだった。わたしは少し、丸っこいのだ。食べる量を減らしたら同じになるって、ソフィアが言っていたっけ。
思い出に浸りながら、いつまでも眺めていたいけれど、そうもいかない。
名残惜しみつつ、リモートで棺の蓋を閉めた。徐々に暗闇が迫り、棺のなかで二人きりになる。
「子どもなんて産まなくても、こうすればよかったのね」
古来、人は肉体同士で交わったという。ひとつになる快楽にふけり、執着し、苦しんだという。
「こうすればひとつにもなれるし、苦しくもない。昔の人はおろかだと思わない?」
きっと、ソフィアは頷いてくれない。本の中の昔の人をソフィアは羨んでいた。
施設のルールからはみ出すことのなかったソフィア。執着も欲望も疎んでいたくせに。
だからこそ、うらやましかったのかと、気づく。
「ソフィア、愛してる」
分解液を入れるスイッチを押した。
ひんやりとした液体が体を浸していく。
ふたりは混ざり、ひとつになる。
そうして人類は永遠の眠りについた。
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