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1.待合の客の外
「楼主、冷泉様がお待ちです」
「まじか」
戻った途端、にじり寄った番頭から、腐れ縁、冷泉儀仗太の来訪を耳打ちされた。俺はこの大籬、紫檀楼の楼主で、神津新地遊郭組合の集まりから戻ったばかりだ。羽織袴から着替えて茶でも一服と思っていたが、仕方ない。立場上、俺は冷泉に頭が上がらん。それに勝手知ったる冷泉が傍若無人にここを彷徨けば、嬶の機嫌が悪くなる。
ヤレヤレと思い向かった一等上等な部屋の襖を開ければ、予想通り冷泉が窓を開け放ち、白茶けた髪を風に揺らして赤く暮れゆく往来を眺めていた。いつも通りの襟を大きく立てた体に沿った派手な洋装上下からは、その細さが否応なく浮かび上がる。
「東司、待ってたぜ」
「お前、陽にあたるぞ」
「そろそろ夕暮れだ。この部屋は庇が長い。この位なら良かろう」
冷泉は手元の徳利を空の猪口に傾け、並々と注がれたそれを俺に寄越す。口をつければ予想通りの甘苦さに、思わず顔を顰めた。酒に見えるがこれは甘くした薬湯だ。よくこんな甘くて苦いものが飲めるものだ。だが遊郭で飲み物を勧められた以上、干さねば話が進まぬというもの。
「それで今日は何の用だ」
「小龍川の祟られ女の噂は聞いてるな?」
先程の会合でも話題に出た。怪しげな女が出るらしい。
妖が悪さをしたのならいつもの陰陽師に調査や祓いを頼む所だが、新地の客に被害が出たわけでもない。せいぜい格子女郎が見物に行った馴染みから、掏摸にあって金が無いと言われる程度だそうだ。だから警察に巡回でも依頼するかという話で纏まった。
「それがお前に何の関係がある」
「あの辺の治安が乱れてる。有象無象が集まって、掏摸は出るし喧嘩が増えた。シマを荒らされるのは気に食わん」
冷泉はこんな成りだがこの神白県の租税課官吏だ。
県政というものは俺にはわからんが、冷泉はこの神津南一帯を掌握して、公共投資、つまり土木建築の権能を有していた。区画を整理し、神津一帯に散らばる遊女屋をこの新地に集め、開港神津港を訪れる外国人をもターゲットとした観光地も兼ねて、この神津新地を作ったのは冷泉だ。
整えた箱庭を荒らされるのが癪に障るのだろう。
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