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 空気が優しい。空の上でも地面でも、変わらない味がするのが意外だった。 「空気に味がついているものかい。時に甚だ理解できないことを言うね、ひとは」 「実際に何かの味がする訳じゃない。比喩だ、比喩」 「言われずとも! いちいち細かいぞ。過保護か」  そう振り向くヒカリは意図的に発光を弱めていた。淡い藍と紫との中間色に浮かぶ姿は、夜の海上に浮かぶ小舟のようにも見える。まだ太陽は昇っていない。薄明どき、まだ暗いうちに行こう、と言ったのはヒカリだ。 「そうでないと日中、僕は日陰を這うみたいにして動かないといけないから。時間がかかりすぎる。君に迷惑をかけてしまうし、かと言って暗すぎても危険だ」 「同感だ。お互い、地面の上は慣れてない」  ポケットラジオに適当な紐をくくり付けて首から提げる。早い時間に仮眠をとり、荷物は最低限のものを用意していた。 どこへ行くのか。偵察だ。 不時着した大体の場所はともかく、これからどういった行動を取るべきかまでは把握できていない。そこで、文字通り光速で移動できるヒカリに案内を頼むことにした。どの経路をたどれば誰にも見つからずに下山できるのか。ラジオから現在の戦況を知ることができるようになった今、呑気に助けを待っている気にはならなかった。確率は低くとも、自力で下山できるすべがあるのなら試したい。ヒカリも賛成だった。  ラジオ放送によれば、状況に大して変化はないようだった。行方不明の輸送機の捜索の報道もなかったが、嘆きもしない。機密情報の一部だ、公共の電波に乗るものではない。  獣道ばかりの中、ヒカリは比較的通りやすい道を選んでくれているようだ。しなる木の枝が顔に当たったりぬかるみに嵌ったりといった目にも遭ったが、それでもましなものだろう。 「で? 味方からも敵からも見つかってはならないのだったか」 「そうだ。面倒な要望で悪いね」 「なんの。気にするな、僕に任せておけ」  ヒカリは南東の国境付近に不時着したと言っていた。南の隣国とは不可侵協定を結んでいるが、丸腰で国境を越えるのはあまりにも浅慮すぎる。第一こちらの身元を証明するものが何もないのだから、不審者扱いも良いところだ。運転証明書はただの紙くずになってしまったし、まさか飛行機を引き摺って持ってくる訳にもいかないだろう。言うとヒカリは、呆れたと言いたげに鼻を鳴らしたのだった。 「別の抜け道を探しに遠回りをしたとして君の体力が保つとは思えない。駄目元だとしても、大人しく正面から行った方が良いに決まっている」  なおも渋っていると、「今回は調査だけと言った!」と怒鳴られてしまった。 「君、最近自分の足で地面をどのくらい歩いた? 山道を簡単に行けると思うなよ」  時間が経つにつれ、ヒカリの言う通りだと反省する羽目になった。長時間の徒歩など何年振りになるだろうか。歩き始めはまだ良かったのだが、なだらかな勾配の続く道はじわじわと腿に疲労を伝えてくる。 息切れしているこちらを眇め、ヒカリは「言わんこっちゃない」と鼻白んだ。それでも休憩を挟む気はないらしい。速度を緩め、下草が長く伸びている中を進んで行く。  細い茎に実を結んだ草に紛れ、細かな花が密集しているのが見え隠れしていた。確か、これは煎じて頭痛薬になる薬草だ。幼い頃に触れたまじないの一つ。 山だけでなく川辺にも生えているのだ、そうだ、摘む手伝いをよくしていた。効きますように、良くなりますようにと祈りのことばを唱えながら、植物が薬へ姿を変えるさまを見ている時間が好きだった、と思い出す。 「お。なあ、ヒカリ」 「…………」 「なぁ」 「薬草だな良いから口より足を動かせ」  それもそうだ。なぜ教えようと思ってしまったのか、子供でもあるまいに。 「僕は君のことならば大抵分かるさ。あれは薬になる植物だろう。君は薬草を調合する過程をよく見ていた。手伝いなのか邪魔なのか分からぬ手出しをしても咎める者はいなかったね。昔ながらのやり方が時代遅れだと忘れ去られてゆく中で、興味を示してくれただけで嬉しかったのだろう。祈りのことばを捧げることを、君はそうした関わりの中で学んだ」 「……詳しいな」 「君のことなら、喋らなくとも僕には分かる。だから話す気力を歩く方へ回せ」 「はい分かりました」  木々の隙間から射し込む太陽の光を左側に感じた。そろそろ日の出の時間だろうか。  ヒカリによれば、今進んでいる道が最も安全な、検問所へ向かう経路なのだという。きちんと舗装された道もあるが、そちらは何者かと鉢合わせる危険性があった。 「今回は君の体力も考慮して、途中までしか進まないよ。それに、僕も対策を考えないと。太陽に負けて消えてしまう」 「消える? 見えなくなるだけじゃないのか」 「強い光に引き寄せられると言ったろう。僕ら個々の姿形も意識も、全部が一緒くたになってまとまってしまう。存在が消えるのと同じだ」 「それは困るよ。道案内はしっかりしてくれ」  ヒカリは僅かに首を曲げる。 「困る?」 「そうだよ」 「僕が消えたら悲しくて口惜しいのは僕だけか」 「何とも言えないな。そういうことになってみないと」 「……ふぅん」  何度か立ち止まりながら黙々と進む。ヒカリとの間隔が開くようになってきた。道なりに歩くこちらと、なるべく日陰を選んで進むあちらとでは足並みを揃えるのは難しい。時折太い木の枝につかまるようにしながら、涼しい顔でヒカリはぐんぐん進んでゆく。 視界の、桃色交じりの薄青色が透明へと変化してゆく、と気付いたのと、ヒカリが唐突に声を張ったのはほぼ同時だった。 「ほら! 見てごらんよ」  木々に遮られない空が見えた。ここは展望台か。かつては東屋だっただろう木材が、開けた場所の端に寄せられている。痛む足腰を宥めつつ、視線を上げた。  広い空を久方振りに見た。  南の方角の空は暖色よりも寒色を多く含んでいる。太陽の位置はまだ低く、薄く広がった雲の上方はぼんやりとした鈍色だ。反対側からは対比をなす橙色が迫ってきている。  見つめていても変化を目で追うことはできなかった。  いつの間にか鈍色は消え去り、ためらうような薄紫色が現れる。 「きれいだ」  思わず口をついて出た呟きに、ヒカリは苦笑を漏らす。 「何だそれは。ずうっと空に居たのに今更か」 「空、夜以外のなんか、殆ど忘れてた」 「……それもそうか。けれども、いつまで見ているつもりなのだ? 時間は有限だ。ここが丁度南の国境までの経路の半分だ」 「案外進んでないな」 「な? 自分がどれだけ力不足なのか分かったろう」 「それはそれは、痛いくらいに」  取りあえず今日は戻ろう、とヒカリは言う。太陽が完全に昇ってしまうと、ヒカリの身体は日陰にあっても薄く透け始める。悠長な真似もできないが、急いた計画ほど危険なものもない。余裕があるうちにここで戻るのが得策に思えた。  夜明け前と後とでは、同じ道も全く異なったものに見える。日陰を飛び飛びに移動するヒカリの注意を受けながら、来たときよりも時間をかけて進む。  慣れないことをしたためだろう。疲労感が一気に襲い掛かってくる。飲酒をしたかのように足元はふらつき、貼り付いた喉奥で咳き込む。先を行くヒカリは何度もこちらを振り返る。心配ない、と手を振ろうとしたそのとき、身体が不自然に傾いだ。 「あ」  一歩踏み出した拍子に、足首の力が突然かくりと抜けた。その場に倒れれば良かったものの、下手に姿勢を直そうとしたためか、身体は脇の雑木林へ突っ込むように転がった。  自分の身体がまるで他人のもののようだ。おちる、と思った。かつて何度も経験した感覚に似ている。空の上で追い詰められ、空を手放す覚悟を抱く隙も与えられないのが常だった。  斜めになった視界の端、木漏れ日の向こうにはやはり木漏れ日が続いている。雑木林は急傾斜を隠していたらしい。沢か。道理で耳鳴りのような音もする訳だ。  おちる。落ちる。  墜ちる。 「っの、待て――待てったら!」  襟首を背後から絞められる。瞬間的な絶息を味わった後、軽い荷物のように引き上げられ、それ以上転がっていく羽目を踏むのは免れた。ヒカリが俺のジャケットを掴んでくれていた。  そばに落ちていた小枝がばりばりと折れる。焦げ臭い匂いのする背後を窺った。 「……すごい顔」  ヒカリの周囲の木々が黒く変色している。  泣くようにゆがんだ顔。ヒカリは、肩で息をくり返す。 「何がだ。何がだ、僕の顔が何だと言うんだ!」 「ご――め、ん」 「一体何をしているこの馬鹿者」 「ちょっとふらって……。悪い。心配かけた」 「心配? 心配! 心配だって! 心配で済むものか!やっぱり君は馬鹿だ大馬鹿だ! 僕に心臓があったら止まっていてもおかしくないぞ!」 「っし……ごめん。本当、ごめ……ヒカリ?」 「…………もう、くそったれ」  顔を背け、空を離れたらこんなにも頼りないのか、と呟かれる。 「それは、俺が一番実感してる」 「分かっている。だって僕もそうだ。……大声を出して悪かったな。八つ当たりだ」  ヒカリは先に立ち上がると片手を伸ばす。それを取り、弾みをつけて起き上がった。 「少し襟足も焦がしてしまった。済まない」 「構わないよ。それに八つ当たりじゃないだろ。怒られて当然だ。自分の体調管理もできないなんて情けないことこの上ない。むしろこっちが礼を言うべきだ。ありがとう」 「それでも八つ当たりだ」  ヒカリはむくれたような声を出す。元の道に俺を戻すと、すぐに木陰へと身を寄せた。  何も言わずに黙々と進んでいたのだが、すっかり我が家のように感じられる簡易テントの屋根が見えたあたりで、ヒカリは爆発するかのように叫んだ。 「あぁあぁもう、口惜しいなあ!」 「な、何が?」 「僕、君のことは何でも知っている積りだったのに!」  ヒカリは頭を左右に振りながら、なおも吠える。 「君の名前を呼べないんだ」 「な……え?」 言っていることが呑み込めなかった。 「名前。名前だ。一大事においても名前を呼べない」 「そんなこと」 「大事なことだ。名前を呼んでもらえないと、ついには誰からも見つけてもらえなくなってしまうよ。僕とは違って君には僕だけではないだろう。だから僕なんぞが呼ばずとも良いのかもしれないが、ええと……それもまた口惜しいな、くそ」 「……名前を知りたいって言われても、ちょっと答えられないよ」 「なぜだ。見つかりたくないのか。そう聞こえる」 「まるで、永遠に?」 「君が生き存えている限り」  尾翼のすぐそばの影へ、ヒカリは胡座をかいて座り込んだ。俺も機体にもたれかかり腰を落ち着ける。ジャケットに入っていた飴玉を取り出した。昨日の昼から何も食べていないが、不思議と空腹は感じなかった。飴玉は包み紙にくっ付いていた。口に含んだ途端、甘草の香りが鼻に抜ける。 「もっと食え」 「要らない」 「身体は保つのか。ええ、保つ筈がない。先程の醜態をまた晒すのは頂けないぞ? それとも何だ、見つかりたくないというのはそういう意味か」 「…………」 「ねえ君。飛行機乗りさん。大尉殿。答えてくれよ」  ヒカリが知り得る呼び名には、俺の本当の名前はない。  息を一度大きく吸い込み、吐いた。 「同じかもしれないよ。元の場所に帰っても空には戻れないから」  空を失ってもまだ生きていると言えるのか。  考えるだけで震える手が、否の証拠だ。  飛行士としての素質と信仰対象の一致。たったそれだけのことで、かつての敵からこれまで生かされてきたのだ。偵察員ではないのかと常に疑いをかけられ続けながら。  長引く戦闘において、疑いは確信という名の思い込みに変化したらしい。一部が否と叫び続けたところで、その声は多数の是にかき消されてしまうものだ。もし無事に戻れば直ちに今の地位を剥奪され、想像もつかない目に遭わされる、と仲間は言っていた。想像できないことはない。かつて故郷の者が経験した痛みを、今度は俺が被るのだろう、と思ったのを覚えている。 想像を絶する事態というのが、象徴として祭り上げられることだとしても、それは散ること、墜ちることと同じだ。 「騙してごまかしてきた報いだ。自分だけ助かって、好きなように空を飛んできた。けど時効が来た。どこにも行けなくなった」 「空以外は?」 「論外」 「時に譲歩も有効だという話をしている、頑固者。僕は地に足を付けることになっても構わないぞ。真っ直ぐでさえ居られるなら」 「俺が嫌なんだよ」 「あぁ?」 「だって、きみはひかりだ。地面より空が似合う」  できれば夜空。言い添えるとヒカリは間を置いて小さく笑った。 「君に言われては敵わない」 「はは。昼に紛れられたら、お前を見つけられなくなるしね」 「ひかりとはそういうものだ。常に意識するものでも、対話をするものでもない。無意識に享受されるべきものだ。……そうあるべきだ。今の僕がおかしなことになっているのだ」 「おかしいかな」 「所詮は人間の真似事だもの」 「……神さまが人間の、ね」 「誰が何だって?」 「かみさまだよ」 「僕が?」 「昔から信じていた。なくしたくないと、ずっと思っていた」 「……知っているとも」 「そうか。そうだよな」  首を後ろに傾ける。思いのほか機体に強く当たってしまい、後頭部が少し痛んだ。目を閉じる。緩い風が頬を撫でた。 「起きるのかどうなのかはっきりしろ。僕はもう」 「いてくれないのか?」 「あのなぁ」 「いてくれよ。お願いだ」 「がき。身勝手。我儘」 「今だけ。……空もひかりもないのは、不安、だ」 「――ったく、仕方のない!」  隣に、人間のものと変わらぬ重みがある。うっすらと感じる眩しささえも好ましく思える。  ひかりは、あたたかい。 「ありがとう」
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