第1章(2) おいしいサムギョプサル

1/1
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

第1章(2) おいしいサムギョプサル

 千葉中央駅の西側のビルの一階にある韓国料理店は、サムギョプサルとチーズタッカルビが売りの今時の店。  韓流好きの女性客と、ホルモンと焼酎好きのサラリーマンが半々という客層だった。 「こんな賑やかな店で大丈夫か?」  普段は客を気にしない舟橋が、晶子のセレクトに難色を示した。 「まぁ先に食べましょう。ここのサムギョプサルなら野菜一杯取れますよ」  サンチュ、ゴマの葉だけでなく巻く野菜の種類が豊富なのが、店の自慢だった。 「鉄板の方はお店の人に任せればいいので、その間にお手紙見せてもらいます」 「じゃあ乾杯、お疲れ」 「おつかれした」  出てきた中ジョッキを一気に飲んだ。その後、舟橋はよれよれのカバンから束になった手紙を取り出した。 「これが例の手紙な」  バサリと渡された置かれた紙の束は片手ではずっしり重かった。 「えっ、これ全部ですか」  ぶ厚い。手紙という想像をはるかに超える分量。80枚はありそうだ。そこに細かいペン字でビッシリ、1枚づつきっちりと端から端まで書かれている。見た感じは、巨匠の長編原稿だ。 「これは、疲れそう」  晶子は頭から読み始めた。    拝啓、舟橋一課長殿  初めてお手紙を送らせていただきます。  私は今から20年前、あなたの部下に参考人として尋問を受けたことはありますが、捜査主任であったあなたには一度もお会いしていません。きっとその頃優秀な現場主任だったことから、想像して「一課長殿」とよばせていただきます。舟橋さん程の優秀な方でしたら、もう当然、そのような現場部署にはいらっしゃらないかも知れないと思いながらも、現場出身の刑事が一度は通過する「一課長」は称号として、さほど悪くないと思います。  晶子は手紙の一枚目で引っかかった。 「もう一度確認しますが、舟橋さん捜査課長になったことあるんですか?」 「一度もないよ、今も課長代理。これ以上はもう見込みなし。それくらいで一々気にしてたらこの先進まないから、どんどん先にいって」  これから私がお話するのは、あなたもむろんご記憶でしょう。二十年前の8月2日に、佐倉市西部の笹が丘ニュータウンの青木勝蔵邸が何者かに襲われて、現金1千万円と主の青木がさらわれた強盗傷害誘拐事件のことを、さらに奇怪な事に青木氏は、その夜、事件現場から30キロ離れた成田空港のベンチで見つかるという不可解。まさに千葉を震撼させた不可解な事件です。  いまだに犯人は捕まっておりません。    「舟橋さん、覚えてますか?」 「うーん、佐倉署にいたとき、なんかそれっぽい事件はあったかもしれないが、よく覚えてないし、捜査本部もたった記憶がない」  あれは不思議な事件でした。  閑静な住宅街で起こった強盗傷害事件に随分とセンセイションをまき起こした事件です。 「センセイションとかいってますけど」 「いちいち突っ込んでいるとこの手紙終わらないぞ、全体的にこのテンポだから気をつけろ」 「どういう人なんですか、この差出人は?」 「封筒には山田壮助とだけ書いてあった。文体からすると相当な老人だろうな」  地元の佐倉警察はもちろん、県警本部でも、手をつくして犯人を捜索しましたが、それにも関わらず、あの事件は迷宮入りになってしまったのです。人通りの多い日中に起こった事件であるのに、犯人が煙のように消え失せたわけです。数々の証拠が揃いながら、犯人逮捕どころか、容疑者すら特定できなかった。県警本部内では、同じ地区に住むある人物を密かに疑っていたことは私も良く知っています。しかし、警察官が動けなかったのは、彼には鉄壁のアリバイがあったからなのです。  あなたは、今頃、千葉県警内で現場経験豊富な刑事として、大いなる名声を博しておられることでしょう。なにせ、野田遺体二度漬け殺人、八街次男連続殺人と言った、奇怪で難解な事件の捜査の指揮をとり、その中心人物として、あなたの写真が新聞にのらない日はないくらいです。   「写真のったんですか?」 「昔な、そんな過去の栄光は今はどうでもいいんだよ、早く続き読め」 「いや、気になる突っ込みどころが多すぎて」  晶子は店員が焼きだした豚肉の様子を見ながら、油が跳ばないような位置で続きを見た。  あなたは、次々に起こる大小の事件を、片っ端から明快に処理せられ、千葉県内の治安に、累代の刑事に比べるものもないほどの功績をあげられました。ですから「笹が丘」の事件は、あなたにとって、たった一つの汚点でした。警官諸君はもちろん、あなたの無念さは想像にかたくありません。そのあなたにとって、たった一つの汚点である、残念な事件の真相を、私は詳しく存じておりものです。それを、あなたにお知らせしたいのです。  今頃になって、何を言うかと、お叱りを受けるでしょうが、それにはやむを得ない深い事情があるのです。  関係者が生きているあいだは、真相を語れない複雑な事情があったのです。しかし、私を最後に、あの事件の関係者は、皆この世を去ってしまいました。真相を発表しても、もう誰も迷惑をするものはないのです。  そこで、私がまだ筆を執れるうちに、あの事件の真相を詳しく書きしるし、私の死後に、これをあなたに送るよう、妻に託しておくわけです。  犯人や関係者が死んでしまってから真相を発表して、なんの効用があるのだ、ただ警察を侮辱するにすぎないではないかと、おっしゃるかもしれません。しかし効用はあるのです、日本の警察官の質は非常に向上しました。科学捜査の施設も完備してきました。でも警察官一人一人のちょっとした注意力によって、手がかりをつかみうるような場合に、それを見逃してしまうことが数々あるようです。笹が丘強盗傷害事件にもそれがありました。一度だけではありません。そういう見逃しが、少なくとも二度はあったのです。 「やたらくどいですね」 「だろう、なんか同じこと繰り返して書いてるんだ」  今からすべてをお話します。  このような告白は、警察への侮辱と思われるかもしれませんが、私の本意は違います。この手紙が今後の捜査の教訓として役立ちはしないかと思い筆をとりました。  ベテランの警察官は実地での経験が豊富ですが、それが隙になり、盲点となります。常軌を逸した犯罪には皆さんの知識外になるのです。  この事件の真相は警察官一般にとって、重要な参考資料となること請け負います。 「うわぁ、この辺メッチャあおりますね。なんか江戸川乱歩ぽいですね」 「やっぱり、そういうの市川好みだろ。でも、とにかく長いから」  ちょうど、三枚肉が焼き上がり店員が食べ方を説明してくれたので、まずは食欲を満たしてから。と、一旦原稿をおいて、まずは肉を基本のごま油と塩のタレに漬けて、サンチュとスライスにんにくにサムジャンを塗って挟んで食べた。口の中に柔らかい豚肉から肉汁溢れ出すが、新鮮なサンチュの爽やかさと、にんにくの刺激が口の中に広がった。 「うーん。美味い」  おいしいサムギョプサルと、老人の書く盛り気味妄想系長文手紙はどうにもミスマッチだった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!