初めての言葉 2

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初めての言葉 2

   彼の初めての言葉。僕の鼓膜を丁度良く振動させ、心酔させてしまうような温かい声。僕は前を見た。彼がいる。それも、すぐ近くに。身長は僕よりも十センチは高いから百八十を超えているだろう。体格は細身ですらっとしている。原宿でスカウトされてもおかしくない風貌。そして何より、何にも汚されていない潔白な顔が僕の心をガチッと鷲掴み、何度も叩きつけた。おそらく、身体に電気が走るとはこのことを指すのだろう。全身が痺れて、ついふらついてしまう。「大丈夫?」と心配する声で、僕はさらにおかしくなりそうだった。 「だ、大丈夫です」  やっと出せた僕の声は非常に不安定で、気がつくと喉の奥は焼けそうなほど熱くなっていた。 「あの、俺に何か用?」  彼は特別声質を変えないで僕に質問した。何の用だろうか。僕は考えてしまう。見ていたいだけです。本当はそう答えるべきだが、せっかく話しかけてもらえたにもかかわらず、変態な受け答えをしてしまえば二度とここの東屋を訪れなくなってしまうかもしれない。あるいは僕をストーカー扱いして警察へ連行するかもしれない。 「あの、その」  何を言うべきか。様々な言葉が脳内を飛び交う中で、僕が導き出した言葉は「な、なんとなく、気になってしまったんです」だった。 「気になる? 俺を?」 「は、はい」    彼は少しばかり首を傾げていたが、「何かを書いている様子が?」と僕に話を振ってくれたから、「はい」と小さく返事をした。   「ああ、あれはエッセイなんだ。俺、ネットでエッセイを書いていてさ、まあまあ評判をいただいているんだ」 「ど、どんなことを書くのですか?」 「そうだな。俺はこの街に来てまだ数ヶ月だから、この街にあった美味しいレストランのこととか、後は大学のこととか。昔話もちょこっと入れたりするけど、主に書くのは現在の話かな」 「そう、なんですね」    僕は目線を下げたまま、耳だけで会話をしていた。彼の言葉はしっかりと届くが、僕の言葉は地面に落ちていく。心臓がドクドクと活発に跳ねている。指先が小刻みに震えている。時が止まったように、彼の声以外何も聞こえなくなる。何かを話さないと。何かを紡がないと。だが、背中を強く押されたところで焦る気持ちが増大するだけだった。何も言えず、無音になる。俯いたままの僕は、彼を見れずにいる。 「君、高校生?」 「は、はい」 「そっか。ちょっと待ってて」    そう言って、彼は公園を出てどこかへ行ってしまった。東屋にはパソコンとノートが放置されている。それらが夏風を浴びわずかな木漏れ日を受け取っている。僕は彼の幻をその場所に当てはめて、一生懸命作業する彼の姿を想像する。しかし、そこから脱して僕のところへ来てしまった彼は、なぜだか上手く想像できない。あまりにも身近になってしまうと、脳内は混乱してエラーを起こしてしまうらしい。    もっと、元気よく話せたらよかった。高校生らしくハキハキと声を出せたら。僕の口から出る言葉達は、みんなシュンと萎んでいた。彼を前にしてしまうと、体内にある細胞達が一斉に動揺してしまい、冷静さを溶かしてしまうのだった。    薄らと、僕の目が潤む。悔しかった。そして、自分自身が情けなくて仕方がなかった。やるせない気持ちが足元を竦ませ、立っていることすら辛くなってしまった。もう、この場から去ろう。 「お待たせ」    だが、僕が決意したと同時に彼が戻ってきた。手に持っていたのは一本のジュースだった。そしてそれを僕に差し出して彼が言った。 「これ、飲みなよ」    しかし、どうして彼は僕にジュースを手渡すのか全く理解できなかった。 「え、ええと」  僕は慌てる。パニック状態になる。 「気にしないで。俺、アルバイトはしているからさ」  だが、彼は何も変わらず、僕の好きな存在のままでいる。 「どうぞ」  だから僕は、差し出されたジュースを半ば強制的に受け取った。 「あ、ありがとうございます」  彼の手の温もりが僕の手の温もりと重なり融合する。僕は「いただきます」と言って、一口飲んだ。甘酸っぱい味がして、余計に胸が苦しくなった。  もう、ここにはいられない。 「ごめんなさい」  僕は謝った。それから、「ジュース、ありがとうございました」と言って、そのまま出口を向き、振り返ることもしないまま公園を出てしまった。
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