侵入 2

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侵入 2

「あの」  その「あの」は、僕の中で最上級にはっきりした音だった。 「あ、君は。この間の」  彼は目を丸くして僕を見た。少し驚いている様子だった。 「はい。せ、先週はありがとうございました。こ、これ。良かったら、どうぞ」  そうて僕は抱えていたコーヒーを彼に差し出した。顔は、笑うことができていない。最低限の明るい表情すら忘れてしまうほど、僕は緊張していた。流れてゆく時間がピタッと凍ってしまったように、何もかもが止まっているように思えた。  どうか、受け取ってください。  そんな僕の念が通じたのか、彼は「ありがとう。いただくよ」と言って、僕のコーヒーを受け取ってくれた。 「あ、ありがとうございます」  なぜかお礼を言ってしまった僕の頬は火照り尽くしていて、やはり心臓の鼓動は速まっていた。 「よかったら、座ってよ」 「え、僕ですか?」 「うん」  どうしてか 、今彼は僕を座らせようと誘導している。座って。つまり、僕と彼がほんのわずかな距離になる。近づくことで、関係性が進化する。羽化した蝶が花を求めて飛び続け、ようやく一輪の花にたどり着くように。 「あ、ありがとうございます」  僕は一礼してから座って、彼にバレないように溜まっていた息を吐いた。 「君は、高校何年生?」 「僕は、二年です」 「そうか。二年生ってことは、セブンティーンだ」  彼は無駄なく笑顔を作り、目尻にシワを作った。僕は「そうですね」と言った。 「高校生か。俺にもそんな時期があったよ。とはいっても、わずか二年前の話だけどさ」  それから、彼は現在大学一年生、十九歳であることを教えてくれた。そして前にも話してくれたが、数ヶ月前にここへ引っ越してきたのだと教えてくれた。 「実家、埼玉の奥地だからさ。こっちの方が圧倒的に近いのよ。だけど東京に住むお金は到底ない。だからちょうど良いこの街に移住したってわけ」 「そう、なんですね」 「この街は静かだけど買い物できる場所も多くて暮らしやすい。生活するには便利な街だよね。娯楽は、あまりないけどさ」 「僕は、少しだけこの街を出てみたい気持ちがあります」  なぜか、彼を前にして本音が出た。言った後で僕自身も驚いてしまった。この街を出てみたい。それは、僕がずっと抱えていた誰にも言えない私情だったからだ。 「君はずっとこの街に住んでいるの?」 「はい。生まれてから今まで。保育園も、小学校も、中学校も、そして高校も。ずっとこの街です」 「それは出たくなる気持ちも湧くよ。十七年もいたら、さすがに飽きてくるだろう」  彼は少しだけ愉快そうにして笑ってくれた。僕はそのことが尋常ではないほど嬉しくて、自然と頬が緩んだ。 「そうだ。前にも言ったけど、俺はネットでエッセイを書いているんだけど、この街のことをあまり知らないんだ。もしよかったら、俺に教えてくれない? なんでもいいからさ」  彼の喋る言葉が、一つ一つ透明な塊と変わって僕の曇っていた心を溶かしてゆく。人間不信。人間嫌悪。人間拒絶。自分の性が少しばかり歪だったせいで、僕は人間に対して異常なほどの恐怖心を抱いていた。だけど彼は悲観的になっている僕の人間に対する考えを根本的な部分から洗い流してくれる清流を持っていた。透かされていく、僕という存在。そしてまた、彼を好きになってしまう自分がいる。 「は、はい。わかりました」 「ああ、その前に。名前を教えていなかったよね。俺の名前は寺島春喜。春の喜びと書いて春喜。よろしくね」  そう言って、春喜さんが僕に手を差し出してくれた。これを繋いだら、僕はまた一歩先の景色を描いてしまう。鮮明に、丁寧に、彼という存在が僕という存在の住む世界に侵入して、二人が同じ領域の中で生きている世界を描いてしまう。  それは、許されることだろうか。疑念はあった。だが、僕の本能はすべて彼の手に向けられていた。  僕は彼と手を繋いだ。温かい。柔らかい。これが、春喜さんの手。桃色をした春の風が纏うように、今の僕は幸せに包まれている。 「僕は、大島友成です。よ、よろしくお願いします」
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