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今までの人生、絵なんかまともに見たことはなかったけれど、そこに描かれているのは、美術の教科書で見るものとは明らかに違っていた。
絵の具を用いた柔らかいタッチではなくて、手が動くままにスプレーを吹きかけたような勢いのある作風。日本海を思わせる深い青が広がり、その中を黒々としたマグロが泳いでいて、遠近法を使った奥行きがあり、とにかく息を飲むほどの迫力があった。まるで大型水槽を間近で見ているような、そんな感覚だ。
わたしはゆっくりと視線を動かし、シャッターの右下に添えられた『walzer』のサインを見る。ただのサインなのに、どうしてこんなにも目が留まるのだろう。と、自分でも不思議なほど、ワルツの名前を見つめていた。
「ワルツって、どんな人なのかな」
夜風の吹き抜ける商店街に、わたしの独り言が溶ける。もちろんワルツの絵を見たのはこれが初めてじゃない。SNSを開くと、サイン入りのアート写真が溢れているし、閉店後の商店街を歩けば、嫌でもワルツの絵が目に入ってくる。全てが眩しかった。だからなるべく見ないようにしていた。それは何故か、を、改めて考える。
ワルツの好きなことをのびのびとやってのける自信。人から称賛される才能、センス。そして、冷静な大人をも巻き込むカリスマ性———そのどれもわたしが夢にみたものばかりだ。
今思い返せば、喉を焼き切るほどの嫉妬が、胸の奥底から湧いていたのだと思う。会ったこともない、見たこともない、存在そのものがあやふやなワルツが恨めしい。ワルツを褒める父親の、キラキラとした瞳が恨めしい。
わたしにも才能があったなら、夢を抱え続ける力があったなら、わたしだって町おこしができたかもしれない。そうすれば、母親だって毎晩売上げを気にしなくて済んだかもしれない。笑っていたかもしれない———そんなふうに思ってしまうのだ。
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