はなみずき商店街にはバンクシーがいる

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 そんなのびやかな声を聴いていると、押し留めていた感情が現れて心を縛り上げた。そして、息が詰まるほどの嫉妬が引いたあとは、決まって自己嫌悪に陥る。  何度も音楽から離れようと思った。もうギターもピアノも弾きたくないと思った。だけど、どうしても忘れられなかった。歌が好きだと思っていたあの頃を、どうしても忘れたくなかった。  気がつくとわたしは、倉庫の中でぼーっと立ち尽くしていた。いつかこの気持ちを忘れる日が来るのだろうか。そんなことを考えると、また胸が詰まりそうだったので、背負っていたケースを床に下ろして、ギブソンを引っ張り出した。  ただ、音を鳴らしたい思いだけが湧き上がっていた。  わたしはその辺にあった椅子に座って、ギブソンを膝に乗せると、ふぅ、と息を吸い込んだ。ピックを当てた弦を、ジャーンと鳴らした瞬間、コーラス隊のときに贈られた拍手が、直ぐ近くで聞こえたような気がした。コンクールで訪れたホールに、自分の声が突き抜けた時のことは、今でもはっきり思い出せる。  あれから何度春が巡っただろう。  閉じた瞼の裏側に、居ないはずの観客の姿が見えたような気がした。これは過去の栄光、わたしの妄想。わかっていたはずなのに、わたしの唇から掠れたメロディーがこぼれ落ちた。 「———夢はもう諦めたさ、錆びついた声が響く」  思いついた歌詞を並べただけの歌声は、想像よりもずっと低くて掠れていた。そんな叫びにも似た声が、雑多に並ぶ家具のせいで余計くぐもって聞こえる。それでもやはり歌うのは楽しかった。      言葉が歌詞になってすらすらと浮かんでくる。わたしはケースにしまってあったノートを取り出して、思い付いた歌詞をメモした。
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