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ぶわりとを頬を撫でつける潮風がこそばゆく、思わずぺろりと唇を舐める。
途端に感じる塩の味。
そういえばここに来るまでの間にも風は吹いていた。知らず知らずの間に、風が塩を運んで来ていたのだろう。思えば肌も、なんとはなしにべとついているような気がする。
海の味と、目の前に広がる永遠の水に、ようやく意識が追い付く。
海にやってきた、と。
「やっぱり良いな。海は」
海を前に、つばさの声もややはしゃいでいるようだ。いつもより少しだけ高い声に、つばさの興奮を感じ取る。
だが正直、朋子だって負けてない。だってこの目の前に広がる圧巻の景色に、つい口角が上がるのが抑えられないのだから。
特段、この海が大きいわけでも綺麗なわけでもない。
沖縄の海のようなエメラルドさだってないし、テトラポットが波を打ち消す代わりに景観だってぶちのめしている。
だが違うのだ。
少しだけ高台のこの位置から見渡す海。広くて、大きくて、緑と濃紺、そして青が並ぶ海。そしてその海の先の先には一本の線が空と海を隔てて居る。
都会に近い位置に住む朋子は、大して海になじみはない。だからこそ、海に憧れや崇拝があるわけではないけれど、慣れない物に対する興奮は、今この瞬間にだって感じている。
「こっちだ」
つばさは先頭だって前に立ち、二人を呼ぶ。見れば少し歩いた先から、下の海の方へ降りることができそうだ。
階段は、流石海水浴客が来るような海だけある。さび付いてはいるものの、きちんと手すりが存在し階段もそこそこに歩きやすい。これが本当のド田舎な海であれば、ただのコンクリートブロックが階段状に並べられているだけのことだったろう。
階段を下りて、砂浜へ。砂浜を歩いて、勇み足で、駆け足で行けば、そこはもう――
「海だー!!」
多希の歓声と共に、朋子も一緒に波打ち際のぎりぎりまで近づく。
今日はタオルを持っていないから、足先をつけることはできない。海と言えば入ってなんぼではあるけれど、まぁ今回は知らなかったのだから準備不足は仕方ない。
だがそれにしたって、やっぱり海に近づけるというだけで、気持ちが上がる物なのだ。
波のラインは、砂浜の濡れ具合で分かる。そこから一歩進んで、引き波を追いかけるように海へ足を進める。そしてまた戻ってきたタイミングで、海から逃げる。
追っては追いかけの動きは、傍から見たら単純な物だろう。
だが自然物と遊ぶというやつは、どうしてこんなに面白いのだろうか!
何往復したのか分からない。その間、波は変わらず動き続け、3回に1回ぐらいは大波が寄せてくる。時に来る大波は、気を付けないとびしょ濡れの危険がある。
そんな時には用心に用心を重ねて少し逃げれば、海は朋子らを飲み込めなかったと、恨めしそうに引き下がっていく。そんな不定形の波の姿一つさえも、面白くて仕方ないのだ。
「あれ? つばさは?」
ふ、と。何度目かの大波から逃げおおせたタイミングで、多希が周囲を見渡す。
朋子もそれに倣って周りを見れば、確かにいない。波を見た瞬間に、2人と同じように駆け出したと思っていただけに、一体どこに行ったのだろう。
だがそんな疑問はすぐに払しょくされた。
「おーい、多希ー、朋子ー」
海に降りる階段のそば、どうにも入りにくそうな古臭い店から、ちょうどつばさが出てくるところだったからだ。
まぁ海の家かなんかだろうとは思うけれど、どう見ても田舎にひっそりとたたずんでいる駄菓子屋である。中に入ったら、いつの時代から置いているか分からないスーパーボールとか並んでそうな店構えだ。
つばさは両手に何かを抱えて、こちらに向かってきているようだ。あれは丸い3つの……小さなボール?
「つばさ、何これ」
多希がいち早くつばさに近づき、謎のボールを指さす。白いそれは丸くて、近くで見るとどちらかと言えばボールより風船に近い。なんだか随分冷たそうで、抱えているつばさの腕が、うっすら赤くなっているようにも見える。
「卵アイスだ。食べたことはあるか?」
ふるふると首を振れば、なんだか得意げな顔をしてくる。
そんな小さなことで自慢げにする辺り、意外につばさは子供っぽいのかもしれない。
「これはな、ゴムの中に入ったアイスなんだ。見た目が卵みたいだろう? 少し食べるのにコツがいるが、これが中々美味しいんだ」
そう言いながら、朋子と多希に一つずつ渡される白い風船――もとい、卵アイス。
キンキンに冷えたそれは、確かにこの暑い海にはぴったりそうだ。
「くれるの?」
「一緒に食べるぞ!」
どかっと波の来ないラインの砂浜に座り、荷物を置くつばさは手際よく鞄からハサミを取り出す。その様子からは、突然卵アイスとかいう奇妙な物を押し付けられた多希の顔はあまり眼中に入っていないらしい。
「どうやって?」
「あぁ、これはだな……」
そこからのつばさの説明は簡潔かつ丁寧な、熱意のこもったものだった。
曰く、ゴム風船に入っているバニラアイスだということ。
曰く、風船の口を切ってそこから吸い出す仕組みだということ。
曰く、小さい頃に近所の駄菓子屋で買って食べていたとのこと。
楽しそうに熱弁する姿は、本当になんというか見てて分かるほどに楽しそうだ。
それにしても、つばさは鳥の小町駅に住んでいるはずだが、あんな大都会に駄菓子屋なんて存在したのだろうか。それとも朋子が知らないだけで、実は裏路地に入るとそういう下町広がる感じの街だったりするのだろうか。
「あ、ハサミはこれを使ってくれ。朋子も、はい」
ひょいっと、手に持っていたハサミを多希に、また鞄の中から別のハサミを取り出し朋子に渡してくる。折り畳みハサミと普通のハサミの両方を入れてるなんて、本当につばさの鞄は四次元ポケットなのかもしれない。他にも色々入れてそうだし。
――思えばここで気づいていれば後の騒動は避けられたのか。
――それともこの時点で気づかなかったのは、仕方ないのか。
多希と朋子が食べ口を作って、吸出しながらアイスを食べる。そこまでは良かったのだ。
シンプルなバニラ風味の、謎な卵アイスは美味しかった。最初はかちんこちんだったのが、適当にもみほぐしながら食べれば、中身が少しずつ押し出されてきたのも、「クリーミーで美味しいじゃん」と思ってたものだ。
だが、そこらへんから雲行きは怪しくなってきた。
なんで気づかなかったのだろう。
卵アイスの入れ物は、結局のところゴム風船だ。中身がかちんこちんに凍らせていているからこそ球体の形状を保っているのだが、それらが手の温度で溶けだしてくるとどうなるか。
無言で食べ進める中――、その現実は多希に襲い掛かることになる。
「うっ、む」
隣で苦し気な声を上げ始めた多希の方を見れば、明らかに慌ててている様子だ。見れば卵アイスは残り僅かではあるようだが、明らかに減り方がおかしい。吸い出すにしてもあんなスピードで減るわけがない。
そこで朋子は「あ」と気づく。そうだ、このアイスの外側はゴム風船なのだ。普通の風船だって、空気を入れたまま口を縛っているからこそあの形状を保てるのである。
それが口を切って、中のものが流動的に外に出れる状況であれば?
「う、うわぁっ!?」
「おぉ!?」
ぶちゃっ、という音と共に多希の口元が真っ白に汚れる。ついに卵アイスの内容物の硬度より、ゴムの伸縮性が追い付いてしまったのだ。つまりどういうことか。
中身が一気に噴き出し、多希の口元と手元の惨状になるのが答えだ。
「いやぁ! 本当にそうなるとは!」
しん、と空気が凍っている多希と朋子の横で、つばさはなんだかテンションが高い。
まさかこれ、つばさは分かっていて黙っていたのだろうか。
一瞬だけ感じた悪い予感が、けれどつばさのこの態度からしたらあり得るな、と早々に結論付けてしまう。
さっきまであんなに意気揚々と卵アイスについて弁舌を語っていた女だ。まさかこんな事態が想定できないわけがない。
となれば、本人的にはお茶目ないたずらぐらいの気持ちだったのか? 最も、やっていることと現状はまるでお茶目でもなんでもないのだけれど。
こいつ、こうなる可能性を考慮した上で特に説明がなかったんだな。
そういうところは、まぁ多希だから今回は許してはくれるだろう。けど、他の人にやったら怒られること山のごとしだから、やんわりと伝えていった方が良いかもしれない。
はぁ、となんだかんだでうまく食べきることができた卵アイスのゴム風船をティッシュにくるみながら、どう説明するか考える。
なんたって、こんな非常識なやつを相手に、小学生にもやらないような説教をしないといけないだなんて――
「卵アイス? なんか懐かしいね」
ふと。
本当にごく自然に後ろからふと聞こえてきた声に、発しかけた言葉が止まる。
今この場にいるのは朋子ら3人。平日の昼間っから、海開きをぎりぎりしている程度の海にいる物好きなんてものは、つい先ほどまでいなかった。
そんな中で突如話しかけてきた声。
しかも朋子にとっても、知らない相手でもない存在。
「昔は駄菓子屋さんとかでも、売ってたもんねー。いつからだろう。最近全然見なくなったや」
振り向いた先。
朋子らの背後には、クラスメイトの氷我聖司がいた。
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