狐の押しかけ恩返し

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狐の押しかけ恩返し

 少し冷たい印象を感じさせる灰色の壁と床。だだっ広い空間にずらりと並べられた長机とパイプ椅子。机の上にはさまざまな趣向を凝らした手作りの本やグッズが綺麗に並べられ、机の内側で待機する人々はどこか緊張した面持ちでその時を待つ。  やがてイベントの開始を告げるアナウンスが流れると、それを祝うように会場に温かな拍手が反響する。開かれた大きなゲートから一般参加者たちが一気に流れ込み、広いホールはあっという間に人々の熱気で埋め尽くされる。  同人誌即売会。  年に数回訪れるその空間こそが私にとって自分が自分でいられる大事な居場所であり、生き甲斐と言っていいほどでもあった。  通い始めて三年目の夏。その場所で私は、「推し」と出会ったのである。  ◇ 「黒田さん、頼んでたデータの作成もう終わりそう?」 「お待たせしてすみません、あと三十分以内には」 「悪いね、急がせちゃって」 「大丈夫です、終わらせます」  ちょっと申し訳なさそうな顔の上司に笑顔で応じて、パソコンの画面と睨み合った。終業間際になって上司から「今日中にこれ頼める?」と声を掛けられるのは日常茶飯事である。定時退社チャレンジは今日も無理だったか、と心の中で溜め息をついた。どうせ人と会ったり飲んだりする予定もないし、自由気ままな一人暮らしなのだから時間を気にする必要はない。そのことを上司も知っているから私に声を掛けてくるのだ。残業代はきっちり出してもらえるので、そこはありがたいと思う。  時計が十八時を差すと同時に向かいの席のノートパソコンがぱたんと閉じて、座席に付いていた男が立ち上がった。 「では、お先に失礼します。お疲れ様でした」 「……はい、お疲れ様」  長い前髪で目元を隠したいかにも陰気そうな外見の男は、椅子の背もたれに引っ掛けていたリュックを背負って、流れるように事務所を後にした。――お決まりの定時退社である。  定時で上がるのは悪いことではない。むしろ、時間内にきっちり仕事を終わらせられるのであればそれは働き手として優秀な部類に入る。時間内に仕事を終わらせられるのであれば、だが。 「あ。金井くん、今朝頼んだ資料出さずに帰っちゃったな」  上司の呟きに、呆れて溜め息も出ない。 「またですか」 「うん、まあ明日でも大丈夫なんだけどね。黒田さん、明日早めに金井くんに言っといてもらえる?」 「……承知しました」  金井蓮、二十三歳。今年の春に入社したばかりの新人で、私の後輩だ。私はここへ転職してきて五年目だが、個人経営のこの小さなオフィスでは新人が加わることが滅多に無いため、今年入ってきた彼の直属の先輩が私ということになってしまう。そんなわけで必然的に指導係を任命されていた。  地味で大人しそうな印象を受ける外見そのままに、人と話をするのがあまり得意ではないらしく、周囲と関わることも少ない青年だ。長い前髪で目元を隠し、背中を丸めて俯いて、いつも一人でいることが多い。人と接する仕事ではないため、見た目も気性の大人しさも特に業務には支障ないのだが、プライベートでもこんなに暗いのだろうかと少し心配になるレベルである。休憩時間にも一人で過ごしているため誰とも雑談をすることがなく、彼のプライベートは誰も知らない。  仕事ができないわけではないがどうやら少し鈍臭いところがある。それがここ三ヶ月指導する中で受けた彼の印象だ。教えれば素直に学ぶし、言ったことには声は小さくともきちんと返事をしてくれる。真面目そうだし悪い人ではないのだが、どうにもどこか抜けているのである。そういうところは可愛げがあると思われているらしく、人付き合いが上手くないのになぜか上司や先輩たちからの心証が悪くないのはそのためだ。  彼が頼まれた仕事を完遂せずに帰ってしまったのはこれで三度目。いつも翌日注意すれば慌てて仕上げて提出するので悪気はないのだろうけれど、そろそろ強めに言ったほうがいいだろうか。だが苦手意識を持たれたら困るし……と五年目にして初めて教育係なるものを任されている私の悩みの種がまた一つ増えた。 「ただいまぁ」  誰もいない真っ暗な部屋に挨拶をするのは、なんとなくの日課だ。いつも世話になっている我が家に対する感謝を込めた挨拶のようなもので、返事がないのは当たり前。むしろ返事があったら事件である。  1LDKの一室。夏の日差しに熱された部屋は夜になっても蒸し暑い。スイッチをぱちぱちと切り替え、明るくなった部屋に荷物をどさりと下ろして、すぐさまクーラーを入れる。手洗いうがいを済ませてさっさと部屋着に着替えると、夕飯の支度などそっちのけで、寝室の隅に置かれたパソコンデスクに流れるように腰を落ち着けた。  ノートパソコンの画面を開くと、前日に開いたままだったワープロソフトが画面に表示される。途中まで打ち込まれている文章に軽く目を通した後、両手をキーボードに置いて執筆作業を開始した。  書いているのは、小説だ。物語に登場するのは、大好きなスマホゲームの推しキャラクターたち。ストーリーは私の創作。所謂、二次創作小説である。  昼間はごく普通の会社員として働いている私の、唯一の趣味。それは同人活動である。同人と言ってもさまざまな活動形態があるが、私はもっぱら二次創作の小説を書くのが趣味だ。むしろ人生ではそちらの方が比重が大きい。会社員は世を忍ぶ仮の姿。私は推しを愛するために生きている、根っからのオタクだった。  もしもあのキャラとあのキャラがあそこで出会っていたらどういう会話が生まれただろう? もしもあのキャラが落ち込んでいたら、あのキャラならどうする? もしも、あのキャラが恋愛をするとしたら? ……等々。そういう、たくさんの「もしも」を妄想して心の中で盛り上がり、持て余した感情を誰かと共有したい一心で形にするのである。あくまでも私の場合だが。同人活動の動機なんて人によって様々だ。  通勤電車の中や帰宅後のわずかな時間で少しずつ小説を書き、完成したら投稿サイトにアップする。そして、人が書いて投稿した小説や漫画を読み、楽しませてもらう。それが私の日課である。  私が書くのは恋愛表現を含まないオールキャラ作品がメインだが、読み手としてはキャラ同士の恋愛表現を含むものも読むしそうでないものも読む、ほのぼのからシリアスまで幅広く嗜む、いわゆる雑食だ。  私は決して文章が上手いほうではないが、同じコンテンツを推している人が多い、つまりジャンルが大きいということもあって、いつも一定数の人が私の小説を読んでくれていた。感想はそう頻繁にもらえるものではないが、毎回ブックマークしてくれる人がいることは知っている。  壁にかかった年間カレンダーを見上げた。一ヶ月後に迫る、「締切」の二文字。来月の下旬、東京で大型の同人誌即売会イベントが開催される。私はそれに参加する予定であり、持ち込む同人誌を生み出すために原稿真っ最中だった。  普段は書いた作品をWEBにアップして公開しているけれど、やっぱり自分で書いたものが紙の本になって人の手に渡っていくのはまた別の楽しさがあるものだ。  テレビすら付いていない静かな部屋に、キーボードを叩く音だけが響く。音楽や人の声が聞こえるとそちらに気を取られて手が止まってしまうので、作業BGMは流さない派だ。好きなもののことで頭をいっぱいにして、妄想を繰り広げながら物語を文章に起こしていると、時間はあっという間に過ぎていく。気付けば帰宅してから二時間、夢中になって書いていた。今日の進捗はまずまず。残業があって帰りが遅い日は、やはりどうしても思うようには進まない。深いため息をついて背中を伸ばし、とりあえず一旦夕飯にしようと席を立った。  ◇  いつものように出社して、いつものように自分のデスクに着いた私は、勤務時間が始まっても対面の席が埋まらないことで、あの後輩がまたなにかをやらかしたらしいと悟った。 「黒田さん、金井くんから何か連絡もらってない?」 「いえ、特に何も」  上司の問い掛けに、首を横に振る。どうやら今度は無断遅刻らしい。 「どうしたんだろう、珍しいよね」 「寝坊かな」  金井と同じ並びのデスクについた同僚たちが、空席を見ながら首をかしげている。確かに珍しいな、と私は自分のスマートフォンをもう一度確認したが何の通知も来ていない。彼が入社してきたときに、直属の先輩ということで何かあったときのために連絡先は交換している。もし交通機関の事情で遅れるのであれば、真面目な彼なら一報くらいは入れるだろう。そうでなければシンプルに寝坊だろうか。  しかし結局その日は私にも職場にも金井からの連絡は無かった。遅刻ではなく無断欠勤となったのだ。通勤中に何かあったのではないかと心配になって上司や私が彼の携帯に何度電話をしても、電源が入っていないとアナウンスが流れるばかりで連絡が付かない。  今日は金曜日で、明日は休みだ。心配ではあるが、休日まで職場から連絡をするわけにもいかない。週明けに再度連絡を試みるということになり、不安な空気を残したままその日は業務を終えることとなった。  そして私は、前日に彼が放置して帰った資料の作成を代わりに引き受けることになり、また残業する羽目になった。  金曜の夜は、いわゆる花金。仕事終わりに町へ繰り出して飲んだり騒いだりする人が多いものだが、生憎そんな友人を持ち合わせていない私は、コンビニで夕飯と一緒に缶チューハイとおつまみを買い込んで、ひとりでの自宅飲みを楽しみに夜道を歩いていた。人と賑やかに飲む宴会も楽しいが、自宅のテレビで大好きなアニメや舞台作品を鑑賞しながら飲む一人酒だって楽しいのである。  自宅の最寄り駅で降りて小さな公園のそばを通りかかった時、ふと視界の片隅に動くものが見えて、私は足を止めた。飲食店が多いのでそれほど暗い地域ではないが、やはり女一人で夜道を歩くと警戒心が強くなる。  公園の隅の手洗い場で、蛇口の周りをうろうろしている動物が一匹。暗くてはっきりとは見えないが、外灯に照らされたあの姿はおそらく犬だ。変質者ではなかったことに胸を撫で下ろしつつ、少しだけ歩み寄ってみた。  ぼさぼさの毛並みの、やせた茶色い犬だった。暗いのではっきりとは見えなかったが、耳が尖っているので日本犬っぽい雑種の野良犬、あるいは野犬だろうか。その犬は蛇口の周囲を前足で引っ掻くような仕草を繰り返していて、動物に詳しくない私でも、さすがに何をしようとしているのかは理解できた。きっと水が欲しいのだ。蛇口から水が出てくることを知っているなんて賢い犬だなと思いながら、手洗い場へ歩み寄る。 「水、飲みたいの?」  私が近付くと、犬はびくりと身を跳ねさせて一度少し距離を取った後、恐る恐る元の場所へ戻ってきた。野良犬に餌を与えてはいけないということは理解しているが、水はどうなのだろう。まあ私がいなくても彼はきっとそのうち自力で蛇口を捻っていたかもしれないし。そんな言い訳を頭の中で考えながら、蛇口を捻って水を出してやる。予想より勢いよく飛び出してきた水に、犬は頭から豪快に飛び込んだ。全身で水を浴びた後、下にできた水溜まりからぺちゃぺちゃと水を飲む。よほど喉が渇いていたのか、暑かったのか。水を出したらあとは知らんふりして立ち去ろうと思っていたのに、なんとなく様子が気になって、結局犬が満足するまでその場で見守ってしまった。  ぶるぶると全身の水を振り払った犬が、私の顔を見上げる。茶色というか金色というか、綺麗な色の瞳だった。 「もう満足?」  くわりとあくびをひとつして、犬がのそのそと歩き出す。人を見ても逃げ出さないのはかつて飼われていたからなのか、それとも今もどこかで面倒を見てもらっているからなのか。後者であればいいなと思う。でもそれなら、勝手に家を抜け出さないように飼い主は気を付けてほしいものだ。 「気を付けて帰りなよ、わんこ……」  蛇口をしっかりと締めて振り返った時には、すでに犬の姿は消えていた。  自宅に帰り付くと、コンビニで買ってきた食糧と酒をテーブルに広げて一人飲みだ。お酒のお供には、少し前にアーカイブ配信が始まった舞台作品を上映することにした。  私の好きなゲームは、最近アニメ化、コミック化など様々なメディアで展開されていて、舞台作品もそのうちの一つだ。ゲームにはないオリジナル脚本ながら心に響く感動作だとファンの間では非常に人気が高かった。  名作は何度見ても名作だ。これが一昔前のテープであったならばすでに擦り切れるほど見た作品だが、やっぱり今回も感動でぼろぼろ泣いてしまった。薄暗い部屋で映像を見て一人泣きながら酒を煽る女。こんな姿、職場の人間どころか実家の家族にも見せられないと思う。  映像が終わってSNSに感想を呟くと、オタク仲間が数人食いついてきた。何度見てもいいよね、あの場面がいいよねと、文字での会話が盛り上がる。数人で他愛もないやり取りをしていると、不意に仲間の一人から名指しで呼びかけられた。 『フヨウさん、夏のオンリー出るんですよね? 原稿の進捗どうですか?』  フヨウさんというのは私のSNS上でのハンドルネームだ。本名に絡めて、花の名前から取った。オンリーとはひとつのジャンル限定で開催される即売会イベントのこと、そして進捗とはつまり、最近頭を悩ませている新刊の原稿のことで。 『進捗全然だめです。リアルが忙しくて』 『お仕事大変そうですもんね。私もやっとプロット作ったところで』  話を振ってきたのは、同じ作品のファンである相互フォロワーの一人。同人仲間でもある。私は小説を書いているが、彼女は漫画を描いている。 『あと一ヶ月ですがお互い頑張りましょうね。新刊楽しみにしてます』 「一ヶ月かあ……」  仲間からのコメントに現実を思い出し、思わず声に出して呟いていた。あと一ヶ月。なんとしても原稿を終わらせなければならない。……私はあの場所へ行かなければならない。そして推しに会わねばならないのである。 『ありがとうございます。私も新刊楽しみにしてます!』  彼女の出す本はいつも読んでいる。同じイベントに参加するので、そこでまた新刊を手に取れるのはとても楽しみだ。それと同時に自分にも言い聞かせるようにそう返信を送って、会話を終わらせた。何より自分の新刊を楽しみにしているのは自分自身なのだ。  とりあえず今夜ははゆっくり休むことにして、週末はしっかり原稿に打ち込むことを決意した。  ◇  土曜の朝。いつも週末は昼まで寝倒す私は、布団の中で惰眠を貪っていたところをインターホンに起こされた。時計を見ればまだ十時。一般的には起きて活動している時間帯なのかもしれないが、土曜の私はまだぐっすり眠っていたい時間である。  宅配便だろうか。何か通販頼んだっけ。発送通知が来た覚えはないな……と布団の中でぼんやり考えていると、インターホンがもう一度鳴った。無視し続けるとさらにもう一度。これは居留守がバレているのだろうか。  諦めて立ち去ってくれればいいのにと思いつつ、のそのそ体を起こす。インターホンの室内モニターを確認すると、誰も映っていなかった。もう立ち去ったのだろうか。  ドアチェーンを掛けたまま、玄関のドアをそっと開けてみる。外の蒸し暑い空気が部屋に入ってくると同時に、どす、とドアが思いものにぶつかる感触があった。 「……ん?」  ドアの前に何かある。置き配だろうか。一度ドアを閉めてチェーンを外し、もう一度ドアを開けた。  そして、開けたことを猛烈に後悔した。 「ひっ……!?」  ドアの前に、ひとが、蹲っている。ぐったりと座り込んでいるように見えたその人は、私の気配を感じたのかゆっくりと顔を上げてこちらを見た。 「……オア……っ!?」  絞り出すような奇声は許されたい。大絶叫しそうになったところを間一髪で飲み込めたのは、こちらを見上げた顔に見覚えがあったからだった。  目元を隠すほど長い前髪。丸まった背中。なぜか髪はボサボサで身に着けたジャージも薄汚れていたが、土下座でもするような格好でこちらを見上げていたのは、見紛うことなく職場の後輩であった。 「金井くん!? なんでここに!?」 「昨日……助けていただいた……、です」  何故かものすごく疲弊している様子の彼は、いつもよりスカスカに掠れた声でぼそぼそと告げた。お陰で何を言っているのか半分くらいしか聞き取れない。 「御恩を……返しに……参りました……」 「昨日……恩……? 仕事代わってあげたこと? っていうか、仕事休むならちゃんと会社に連絡しなよ。社長も先輩たちもみんな心配してたんだよ」 「それはもう……本当に……申し訳なく……」 「なんかふらふらだけど……」 「すいません……」  へろへろの声でそう言いつつ、金井はゆっくりと立ち上がった。ドアノブを手すり代わりにして体重を掛けられている。ドアが閉まりそうになるのを、内側から押さえて止めた。後輩だからと勝手に小柄な印象を覚えていたが、近くで見ると案外背が高いようだ。姿勢を正せばもっと高いのだろう。そうやって関係のないことに意識を向けてしまうのは現実逃避である。  昨日の恩がどうこうというか、今現在ものすごく助けを必要としてるようにしか見えない状態だ。どういう経緯で彼が我が家の玄関にいるのかは、さっぱり理解できないけれど。 「どこか怪我してる?」 「いえ……」 「具合悪いの? 病院連れていく?」 「そ、そういうわけでは」 「なんで君がうちに来てるの?」 「ですから、それは……!」  金井が顔を上げた瞬間。ぐおうぎゅるるるる、と怪獣の咆哮みたいな音が静かな廊下に響き渡った。音の出処は彼の腹である。俯いた彼の耳が真っ赤に染まる。……なるほど。 「……ごはん、いつから食べてないの?」 「……一昨日の夜から……」 「えっと……とりあえずうち入る?」  普段の私なら他人を家に上げるなんて絶対にしない。友人だって招待したことはない。一人暮らしの警戒心もあるが、なによりオタクの部屋は一般人の部屋とは様子が少々違うのである。  それでも彼をこのまま放っておけないし、悩んだ末にとりあえず何か食べさせるため家に上げることにした。 「こんなものしかないけど」  前日の夕飯はコンビニ食だったので、冷蔵庫におかずが残っていたりすることはない。ひとまず毎日の朝食のために箱で買い置きしている個包装のパンを二つと、インスタントのコーンスープをマグカップに作って出すと、飢えた後輩は神仏を拝むように深々と頭を下げた。 「恩返しに来たというのに、更に食べ物まで恵んでいただけるなんて……なんとお礼を言えばいいか」 「恩返しとかお礼とかいいから、とりあえずそれ食べて社長に無断欠勤のお詫び連絡入れときなよ」  普段職場で業務連絡以外の会話をすることが少ないので、私の言動に対する彼の反応はなかなか新鮮だった。思っていたより腰が低い。仕事があんな調子だからもっと図太い性格をしていると思っていたのに。  いただきます、と両手を合わせて、彼はがっつくようにパンにかぶり付いた。一昨日から食べていないというのは本当なのだろう。一昨日からということは、音信不通だった昨日は丸一日何も口にしていないということだ。……やはり何かあったのだ。 「ねえ、昨日一体何があったの。いきなりうちに来るなんて、どうしたの。ていうか、なんでうちの場所知ってるの」  聞きたいことが山積みだ。一つ目のパンを食べ終えた金井はコーンスープを飲んで一息つき、「どこから話せばいいか」と小さく首をかしげた。 「一昨日の深夜、隣町で火事があったことはご存じですか。消防車がいっぱい走ったと思うんですが」 「あー……ごめん、たぶん爆睡してて気付いてない」 「……燃えたの、俺んちのアパートだったんです」 「それは……災難だったね……?」 「スマホも家財も所持金も全部焼けてしまって。連絡も取れないし電車にも乗れないし、服もジャージしか残ってないしで」  薄汚れた、というよりは煤けたボロボロのTシャツに、ジャージ。着の身着のままで逃げだしたのだろう。それならば職場に連絡する余裕がなかったのも仕方ないのかもしれない。 「君自身の体は無事だったんだね? 怪我はないんだね?」  念を押すように確認すると、金井はこくりと頷いた。 「はい。辛うじて」 「よかった……みんな心配してたんだよ」  通勤中に事故に遭ったのではないかとか、家で倒れているのではないかとか、いろいろな説が飛び交っていたのだ。無事を知れば同僚たちも上司も安心するだろう。 「先輩は、お優しいですね」  金井は二つ目のパンを手に取りながら、ぼそりと呟いた。 「いきなり家に押し掛けてきた迷惑な後輩を家に上げて、食べ物まで恵んでくださるんですから」 「そう、それよ!」  危うく一番大事なところをスルーしてしまうところだった。膝を叩いて、前のめりに問い掛ける。 「なんで教えてないのにうちの場所が分かったの、というかなんでここに来たの。それが聞きたかったんだ」  後輩は二つ目のパンをあっという間に食べ終えると、流し込むようにスープを飲み干して、ごちそうさまでしたと両手を合わせた。崩していた足をそろえて姿勢を正し、真剣な顔でこちらを見つめる。といっても目元はほとんど見えないが。 「家もお金も燃えて、何をどうしていいかわからなかったんです。夏の屋外を飲まず食わずで一日彷徨って、暑さと渇きでどうしようもなくなったときに、たまたま通りかかった貴方が水を飲ませてくれた。命拾いをしました。……だからその御恩を返さなければと思って、後を追ってきたんです」 「……は?」  真面目に語られた話に、私はその一音しか返すことができなかった。  水を飲ませた? 金井に? そんな記憶はない。というか昨日は彼が音信不通で、顔すら見てないのだから。 「ごめん、人違いじゃない? だって私、昨日は君に会ってないよ」 「会いましたよ。夜の公園で。蛇口の水を出してくれたでしょう」 「は……?」  公園で、水を。それならば記憶にある。しかしその時に彼が近くにいた記憶はやっぱり無い。 「だってあれは、野良犬に……」 「犬じゃありません。狐です」  犬じゃなかったのか。ぽかんとして彼の言葉を聞く。まあ確かに、耳は尖っていたし茶色っぽかったし、狐かといえばそう見えなくもないような。暗かったからはっきりと見えてはいないのだ。北国でもないのに町中に狐がいるなんてあまり聞いたことはないが、山から下りてきたりするんだろうか。 「うん、で、その狐がなんて?」 「俺です」 「はい?」 「貴方が昨晩助けた狐が、俺なんです」 「……はあ?」  何言ってるんだこいつ、の感情を目一杯込めた一声だったのだが、金井は特に気にした様子もなくいつも職場で見る、仕事を教わっている時のような真面目な顔でこちらを見ている。 「……ええ……?」  ここで真面目な顔をされても、もはや何の話をされているのかさっぱり意味がわからないしついていけない。わかる言葉を話してほしい。突拍子もないことを言い出した後輩に困惑している私を置いていくように、金井はこほんと咳払いをして背筋を伸ばし、改めて口を開いた。 「あの時助けていただいた狐です。恩返しに参りました!」  まるで新人研修の挨拶のようにはっきりと言われた言葉は、やっぱり意味がわからなかった。  ◇  まず、後輩は家が焼けたせいで仕事に来られなかったらしい。それは理解できる。  次に、彷徨っていたところを助けられたから恩返しに来たらしい。よく分からないが、まあ一応理解はできる。  そして最後に、昨日私が助けた犬ではなく狐が、実は彼だったらしい。ここがさっぱり分からない。  助けた獣が人に化けて恩返しに来るなんて話は、昔話や漫画や小説ではよくある話だけれども。  二次元に限れば、私だってそういうタイプの話は好きだ。人外パロとか異類婚姻譚なんかも大好きだ。だが現実世界で真面目な顔してこういう話をしてくる人ってちょっと大丈夫なのだろうか。  せっかくの休日なのになんだか頭が痛くなってきた。食事を提供してやったのだからそろそろ勘弁してほしい。この週末は家に籠って原稿に精を出すつもりだったのに予定が狂いそうだ。 「恩返しね……」 「妖怪の世界では人に助けてもらったら恩返しをするのがセオリーなんですよ」 「いやまあどんな世界でもそれがセオリーだと思うけど……いやちょっと待った、何て? 何の話? 日本昔話?」  ものすごく聞き覚えはあるが現実世界ではめったに聞かない単語を耳が拾う。頭を抱えていると、金井はことりと首をかしげた。 「信じていただけませんか?」 「そんないきなり突拍子もないこと信じろって言われても」 「うーん……ネットで検索すれば、アパート全焼のニュースは出てくると思うんですが」 「そこじゃないんだよな……」  何故かびっくりした顔でこちらを見る金井。なんでだ。……そういえばこの男は真面目そうに見えてものすごく抜けているのだった、ということを思い出した。  彼の説明に期待したらダメだ。たぶんこのよく分からない問答が永遠に続いてしまう。ならば仕方ない、と私は腹を括った。仮にも私は彼の先輩である。もうどんな変なことを言われてもどうにかして受け入れるしかない。早くこの話を終わらせて彼に満足して帰ってもらい、平穏な休日を取り返さなければ。 「わかった。じゃあ昨日の犬が君だというのが本当だとして」 「犬じゃなくて狐です」 「ああうん、狐だとして。今ここにいる君はどう見ても狐には見えないんだけど」 「それは化けているからで」 「化けてるってことは、元に戻れるってこと?」 「まあ、はい」 「ふーん……」  表情を伺ってみたが、冗談を言っているようには見えない。かと言って、はいそうですかと受け入れるには少々、彼の言っていることは現実離れしすぎている。だいたいなんだ、狐って。恩返しって。なんかそういうタイトルの物語はこの世にたくさん存在するけれども。 「じゃあ今ここで狐に戻って証拠見せてくれる?」  私としては、無理難題を言ったつもりだった。この提案で、彼がこれ以上の変な話をやめてくれればいい。もしくは、万が一にも彼の話が本当なら、目の前で見せられればさすがに私も信じないわけにはいかなくなる。そうなれば恩返しとやらも受けてやろうじゃないかと思ったのだ。  予想に反して、金井はちょっと照れたように肩を竦めて頬をかいた。 「それはいいんですけど、……職場の人に素の姿を見せるって、ちょっと恥ずかしいというか」 「職場の人が休日に押し掛けてきて寝起きのスッピン寝間着を晒す羽目になった私の前でそれ言う?」 「すいません!」  怯えた子犬みたいに竦み上がった金井の姿が、ぐにゃりと歪む。目が疲れているのだろうかと瞬きを繰り返したほんの一瞬で彼の姿は瞬く間に消え失せ、たった今まで金井が座っていたところには、薄茶色の毛並みをした動物が一匹ちょこんと座っていた。 「……あ、昨日のわんこ」 「狐です」  ぽかんとを開けたまま固まった私の目の前で、お座りをした犬もとい狐は、憤慨するように口を開いた。細長い獣の口から飛び出すのは聞き慣れた後輩の声だ。 「喋るんだ……」 「化ける狐なんですから喋るくらいしますよ」  狐は当然のようにそう言って、細長い尻尾でぽすんと床を叩いた。雑種犬、と言うには鼻が細くて目が鋭い。茶色だと思っていた毛皮は、明るいところで見れば狐色なのだと分かった。なるほど確かに昨日のあれは犬ではなく狐だったらしい、とは納得したものの、この状態になっても尚、私はまだ疑念を捨てきれずにいた。もしかして職場ぐるみでドッキリを仕掛けられているのだろうか。部屋のどこかにカメラでも仕込まれているのではなかろうか。 「あんまり驚かないんですね」  もっと叫んだり逃げたりするかと思ったのに、と不思議そうにされるが、私は自分でも不思議なくらいに冷静だった。 「いや驚いてるけど、今時の技術ならこういうCGを作るのも可能なんじゃないかなってちょっと思ってる」 「……これだから最近の人間は化かし甲斐がないって仲間が憂いていたのも分かります」  ぐにゃり、再び視界が歪む。一瞬の後、狐は消え失せて元の場所に元の姿の金井が現れた。……マジか。 「信じていただけましたか」 「いや……うん、わかった……」  ドッキリの線はまだ捨てがたいが、とりあえず話を進めるしかない。無理矢理現状を飲み込むことにした。 「それで……結局君は何をしにここに来たんだっけ」 「御恩を返しにきました」 「具体的には?」 「それは、なんでも先輩のお望みの通りに……と、言いたいところなのですが」  さっきまでぐいぐい積極的に来ていたはずの金井が、何故か言葉を濁す。 「実は、焼け出されてしまったせいで一文無しなんです。家もないし宿もないし……」  なんだか嫌な予感がした。その予感は見事に的中していたようで、金井は日頃の根暗な様子からは想像もできないまるで営業マンのような滑らかな口ぶりでとんでもない提案を述べてきた。 「というわけで、住み込みで家事手伝いなんていかがでしょうか」 「……社長に相談したら、給料前借りとか、住む場所を探すとか、どうにかしてもらえると思うんだけど」 「いえ、これは恩返しなので、先輩に対してやらないと意味がないんです」 「お手伝いさんを雇えるほど給料もらってないよ」 「お金はいりません。昼間は俺も仕事があるので、一日中お家にいるつもりはありません。掃除も洗濯も料理もなんでもします。それにほら、狐の姿でいればスペースを取らずにコンパクトに収納できますから! どうか、行き場のない狐を一匹救うと思って! お願いします!」  金井は見事なフォームでその場に両手をついて土下座を繰り出した。助けた狐に土下座で頼み込まれている、何だろうこの図は。 「いやちょっと待って、恩返しなんだよね!? お礼参りじゃないよね!? 助けてもらったのにさらに助けてもらおうなんて図々しすぎない!?」 「鶴だって住み込みで機織りするじゃないですか」 「た、確かに……?」  危うく納得しかけて、慌てて首を横に振る。そう簡単に赤の他人を自分のテリトリーに住まわせるなんてできるわけがない。恩返しとか言ってこの後輩、ただ他人の家に転がり込みたいだけなのではないだろうか。頭の中で必死に断り文句を考えていた時の私は、たぶん大学受験ぶりくらいに脳みそをフル回転させていたと思う。 「夏のイベントが終わるまででいいですから」  その時ぽろりと金井が付け足した条件に、私の思考はフリーズした。 「イベ……えっ」 「新刊の原稿があるんでしょ。締め切りまでの間の家事は全て俺に任せてください。先輩はただ書くことに集中してください。なんなら、イベント当日の買い子でも売り子でも引き受けます。……悪い話ではないと思うんですが」 「ちょちょちょちょっと待って、なんでそれを」  オタクだってことは職場では隠していたはずなのに。そのうえ私が本を出していることまで知られているなんて。  私の反応に、金井はしめたとばかりに口角を上げた。長い前髪の下からちらりと見えた茶色の瞳が、私の部屋の隅へと向けられる。本棚に飾られたフィギュアやぬいぐるみの数々を見られていることに気が付いて、今更ながら私は少し慌てた。 「ご、ごめん、オタク丸出しの部屋で。いきなり押しかけてきたから隠す暇もなかったわ」 「先輩って、おーくん推しなんですね」 「知ってんの!?」  何でもないことのように金井が口にした言葉に、私は全力で飛びついていた。金井はこくりと頷いて、本棚に飾られたアクリルスタンドを指差す。 「俺はおーくんときゃっさんのコンビ推しです」 「……わかる!!」  おーくん、きゃっさんというのは私の大好きなゲームキャラクターの、ファンが付けた愛称だ。なんと、彼は私と同じコンテンツのファンだというのである。 「本もグッズも持ってま……したよ。燃えちゃいましたけど」  しょんぼりと肩を落とした彼に、初めて心から同情した。彼には申し訳ないが、今までは彼の災難をどこか他人事に捉えていたところがあったのだ。けれど、推しのグッズが火災によってすべて消えてしまったと聞けば、オタクとしてその事態の深刻さは痛いほど理解できた。彼の受けたショックは察するに余りあるというもの。  推しの名前を愛称で呼ぶあたり、そしてコンビで推しているあたりから、彼が本当に同じジャンルのオタクであることは明らかだった。それを知って、私の警戒心はあっという間に解かれてしまっていた。身近なところに同じジャンルの仲間がいたなんて。推しについて語り合えるかもしれない相手なんて、日頃オタクであることを隠して生きている人間としてはとても貴重な人材なのである。その上女性ファンの多いコンテンツでは珍しい男性ファンに巡り合えるとは。正体が人間かどうかなんてこの際どうでもよくなっていた。  この時私の中では、ある一つの思いが首をもたげ始めていた。オタクとしての私の、本能に近い感情である。 ――これは、ネタになる。 「……いくつか約束がある。それを守ってくれるなら、家事手伝いとして置いてあげてもいい」 「ほ、本当ですか」  私が条件を出すと、長い前髪に隠れた瞳がきらりと輝いたような気がした。こほんと咳払いをして、右手の指を立てて見せる。  一つ、滞在していいのは玄関からリビングまでに限る。寝室には絶対に入ってこないこと。  二つ、飾ってあるグッズには絶対に手を触れないこと。  三つ、用のない時は狐の姿に戻ること。 「万が一、変なことをしようとしたら問答無用で猟友会呼ぶから」 「りょう……!? はっ、はい、気を付けます!」  金井の背筋がぴしりと伸びた。  こうして、アラサー会社員オタクと後輩オタク狐の、奇妙なルームシェアが始まったのだった。
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