十、

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十、

 彼女は吉田有希。昼過ぎに起き出して鏡の前で大きなため息をついている27歳。  生々しい夢だったなぁ、なんて口から漏らしながら寝起きの髪をとかすフツツカな女です。  大きな欠伸をもう一回してヘアブラシを置いてのそのそ歩いてベッドに戻って、ドスン、と腰掛けて。またバタン、と後ろに転がって、天井に貼った月城浩斗のポスターを眺めて、ニタァ、と笑う。 「子どもの頃のヒロトくん、可愛いかったなぁ」可愛いに決まってるし、ポスターの浩斗は益々可愛いんですよ。  枕を抱えてまたゴロゴロ。キャアキャア。  時計を見て、あ、と枕を放して起き上がって、寝間着の上下を脱いでベッドに投げて、外出用のパジャマを床から拾い上げて雑に着て、もう一度髪をとかした。帽子とマスクを着けて小さなカバンを首からかけて出掛ける女。  ファミリーレストラン? とかいうハイカラな食堂で塩焼きの鯖と納豆の定食を食べて、百貨店ぐらいだだっ広い平屋の食料品売り場を、ご大層に乳母車みたいなカゴを押して練り歩いて、お酒やらおつまみやらを買って帰った。野菜も食べてるのかしらね、まったく。  帰ったらまたその辺に服を脱ぎ散らかして、磨りガラスの向こうの狭い部屋で雨みたいにお湯が出てくる筒を握って全身を洗う。  湯上がりの髪を乱暴な風に当てて乾かして、表札の板みたいなテレビをつけて誰だか知らない女の子達が踊ってるの見始める。たまに、キャー、かわいーー! とか言いながら長々とお化粧をする。目が一割増で大きくなっていく。それから髪を巻いて服を着替えると、寝起きの姿からは想像もできないお姫様が出来上がる。買い物から帰って凡そ3時間後のことである。 「おはようございまーす」 「あ、ヒロコちゃんおはよう」  お店の方たちとご挨拶を交わしながら時計の箱の上から厚紙をガチャンと押して、壁際の柔らかい椅子に埋もれるように座ってまた小さなテレビを見ながら画面を指先でなでなでしてはムッとしたら笑ったり驚いたり。  お店ご主人が、時間だからよろしくねー、 と声をかけて、お嬢さん方が返事をしながら立ち上がって出ていく。  ヒロコちゃんは尚表札板の画面とかベタベタと触って消して、立ち上がって、伸び。おっとりしてますよこの子は。  お店に出て、テーブルやら何やら布巾で拭いていると、常連の明るいおじさん達が入って来る。愛想よくご挨拶をして、お掃除をやめて店の奥へ引っ込むと、ミナちゃんってしっかりした姐さんが出て来て、ヒロコとは違うお上品な愛嬌を振り撒くのだった。  しばらくして、背丈の割には腕も脚も細い壮年の紳士が入店して、ヒロコはパタパタと走ってミナちゃんに叱られている。  その紳士の後ろ姿には、見覚えがある。  えー、銀座、なんてありきたりな名前をつけられた大通りから一本外れた通りには、なんともはや懐かしい店が軒を連ねている。  その入り口の上の看板には『野うさぎ』と柔らかい文字で書いてある。  朝方、タカアシガニみたいな紳士が現れて、この店に来るように、と高圧的に言いながら、不気味な笑みを残して消えて行った。  時間はこのぐらいでよかったと思う。  入り口のドアを押して入ると、なるほどタカアシガニ氏が瓜実顔の女の子と談笑している。 『あっ』と彼女がこちらを見る。  お久しぶりですね、と笑みを返す私。  彼女はカウンターから飛び出して来て彼の顔を覗き込む。  ヒロコは彼の顔を見て黙り込む。  目を見開いて、口も半開きにして、彼の名前を呟いている。 「会いたかった……」と口に出す彼。 『立派になりましたね』  やっとのことで口に出す彼女。  彼はツカツカと歩いてオオヒラ氏の左の席に座る。 「い、いらっしゃいませ」と、ゆっくり言うヒロコを真っ直ぐに見て、 「会いたかったです」  と、月城浩斗はカウンターを挟んで立つ彼女の手を取る。  お名前は? だの、どちらからいらっしゃったんですか? だの、白々しいことを、真っ赤な顔で訊くヒロコが可愛い。  何やら彼女の悪口をヒロトくんに言い立てようとするご婦人の腕を取って、 我々はこちらでお話しませんか、 と私は後ろのテーブル席へ誘う。  宇宙人はこちらを見て笑っていた。            (結)
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