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五、
『野うさぎ』は、次の夜も賑やかだった。
「あ、オオヒラさーん、いらっしゃいませーー」
ヒロコは声を弾ませて宇宙人氏の前に立った。
「ジントニックでいいですか?」
と可愛らしく聞かれて静かに頷きながら、オオヒラ氏は浮かない顔をしている。
「どうしたんですか?」
ちょっと強い口調でヒロコが問う。
「ああ、ヒロトくんは丸顔で歳下の女の子が好みでね。幼馴染の彼女と長らく付き合ってたんだけど、今では瓜実顔で歳上の女性が好みだから、あとはヒロコさんと知り合えれば……」
オオヒラ氏はサラっと言いきった。
「え、……すごーい。昨日の今日でそんなことができるの?」
目を丸くしてヒロコ。
だがオオヒラ氏は浮かない顔のままでヒロコを見上げる。
「いや、でも彼ねぇ、不倫しててさぁ。どうする?」
ヒロコは更に目を丸くした。
「ふり……!」
「うん、不倫」
驚きましたね。
『驚きましたよ。……話しかけないでくださいよ』
「相手は? 誰と?」
「事務所の社長の奥さん」
「見たの?」
「見た、というのは、何を?」
オオヒラ氏の表情が動かないのでヒロコが興奮してカウンターを平手で叩く。
近くの客が驚いてこっちを見る。
「あっ、ご、ごめんなさい何でもないです失礼しましたー! じ、ジントニックですねお待ちくださーいあは、あは」
……ひきつった笑顔を配りながらヒロコは店の奥へ駆け込み、またミナ姐さんに叱られている。
いや、見たのか、っつわれたらそこは不倫現場でしょうよ。
『分かりませんよ私宇宙人なんですからぁ』
察しなさいよ、5000年も生きてるんでしょう?
『いやまだ4368年しか……』
そういう話をしてるんじゃない! しかし女性の好みなんて変えられるものなんですか?
『いや、実は……』
「お待たせしましたー」
実は? 何ですか?
『いや、問題ありませんから』「あ、ありがとう」
取り乱しておしぼりだけ持って戻って来るヒロコに対して、冷静だなぁ。
オオヒラ氏はヒロコを真っ直ぐに見ながら、グラスの酒をひと口飲んだ。
「あの……」とヒロコから口を開く。
「あたしも乗せてってくれる? 明日、宇宙船に乗って行くつもりなのよね? 一緒に不倫現場見に行くから。いいわよね、オオヒラさん?!」
「いや、無闇に地球の方を我々の船に乗せるわけには……」
「何が無闇によ! あたし一回あなたに殺されたのよ」ヒソヒソ声で怒鳴るヒロコ。
「いや、私は何も……」
「何も無かったわけないでしょ!連れてくの連れてかないのどっちなのよ?!」
「つ、連れて行きます」
「よろしい!」
カウンターの陰で拳を上向きに握って、細かく前後させるヒロコ。
で、翌日は早起きして宇宙船でお出かけである。
白い灯光に包まれた船内から見下ろした先には、ヒロトくんが運転する赤い車。助手席には社長夫人が嬉しそうに座っている。
いや、そんなに都合のいい日にドライブはしてくれないので、宇宙船は2週間ほど前に移動して飛んでいる。宇宙人は気前と都合がかなりいい。
海風に髪を弄ばれながら、若い男の横顔をうっとり眺めるご婦人は幸せそうである。
晴れてよかったとか、海っていいですよね、とかヒロトくんが当たり障りのないことを言い、社長夫人は言葉にならないほどの笑みで応える。
ラジオが場違いな楽曲を流してきて、
「あ、この曲は好き?」と夫人が訊く。
「マリコさんは好きなの?」
ヒロトくんは素っ気なく訊き返す。
「だめよ、そこは『マリコが好き』って言わないと」マリコさまはおっしゃる。
「ぼくはピーナッツが好きだ」
ヒロトくんは眉ひとつ動かさない。
「私はヒロトが好きよ」
「知ってるよ」
「物知りさんね」
なんという会話だろうね。
『知りませんよ』
大きな橋が遠くに見える場所に車を停めて、二人は後部シートで弁当をひろげている。
「子供の頃さぁ……」
ヒロトくんが独り言のように話し始める。マリコさんは玉子焼きをもごもごしながらお弁当箱を膝の横に置く。
「遠足行った先で弁当箱の中身を山の上から捨てられたことがあってさ。アソコじゃ吉野ママって呼ばれてた人が人数分の弁当を毎朝毎朝作ってくれたんだけどさ。だから、遠足だからとか、特別な弁当作って貰えるわけでもなかったし。そうすると普通に母ちゃんが作った特別な弁当持って来てるバカがオレの弁当見て笑うんだ。腹を空かせて下る山なんか何にも面白くなかった。
ああ、修学旅行なんかも行きたくなかったし、楽しかった記憶なんか出てこない。感想文書いてこい、って宿題があって、施設の姉ちゃんに相談しながら無理して書き上げてったのに、面白くもない大袈裟な作文しか書けないバカがまたオレの感想文笑いながら太い油性ペンで落書きするんだ。提出しない者は記念写真売ってやらないからな、とか担任のばばぁが言うんだ。何も形に残ってないから、憂さ晴らしに破り捨てることも出来ない。
あ、このおにぎり美味いな、マリコさん……」
ご夫人は青年の頭を抱き寄せる。
それはともかく、ヒロコの顔色があぶない。
『おや、アレは何ですかねぇ』
宇宙人が何かを見つけたらしい。
「ヒロコさん? ちょっと此処、見て下さい」
「見たくないわよ!」
「怒らないで見てくださいよ」
オオヒラ氏が無機質な声で宥める。
「ほら、此処です」
ヒロトくんの頸の真後ろの、指一本ぐらい下に、何か小さなシミのようなものが見える。
「これは監視装置ですね。おそらく、リッタル星人に取り付けられたものですよ」
シミでしょ。
『いえ、表皮の下の細胞を薄く削り取ってその隙間に小さな装置を埋め込むんです。装置がちょっとした信号を出し続けると、その上の皮膚が順応して多少変化するんです。我々の技術ならこんな痕は残さないんですけどね』
「オオヒラさんって、何星人だっけ?」
ヒロコは、宇宙人を疑っている。
「えーー、アクィラ星人、です。あのー、同じ地球人でも、国によって土地によって、大都会の人だったり、未開のジャングルの野生の人だったり、色々あるじゃないですかぁ。同じ星の上でさえそうなんですから、広い広ぉい宇宙の色ぉんな星々には、比べ物にならないくらい色々な星の人がいるんですよ。
我々アクィラ星人の文明は極限まで発展していますがね、我々よりも発達した星はまだあるし、遅れているにしてもその度合いは様々で。
えっとリッタル星人に文明をもたらしたのは我々で、ですね。だいたい2000年ぐらいは遅れてるんですよ」
「そんなどうでもいい話は今度お酒飲みながら聞くから! それで、そのナントカって宇宙人がヒロトくんに何したっていうの?!」
『どうでもよくはないでしょうに』
何年ぐらい前に埋め込まれたんですかねぇ。
ヒロコがすごい顔してます。
「ええっと、待ってください……」
オオヒラ氏の前に開いた画面に、四角とか矢印とか何か全然読めない文字列とかが浮かんでは消え、小さくなっては光って消え、また光って色を変え……
『そんなに目まぐるしく動いてないでしょう?』
あ、はい。
「4421日、……だから12年ぐらい前ですね。読み取っているのは脳神経の動作記録です」
「やっぱりおじさんたちが……」
「いや、わたしは分析しただけで……おじさん、って」
「……宇宙人なんか信用できないわよ」
「や、宇宙人一括りにして怒らないでくださいって」
ヒロコは泣いています。
『えーー?』
「ヒロトくんは、おそらく特異な能力を持っていたんでしょう。リッタル星人はそこに興味を持って、監視をしているのだろう、っていうのが我々の見解です」
なるべく淡々と話すオオヒラ氏に、ヒロコは噛み付かんばかりの勢いで言う。
「2週間前に行けるんだから、12年前だって行けるわよね?」
「えー、……まあ、はい」
この宇宙船は、かなり都合よく飛べる。
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