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『本日未明、世田谷区の公園内で人の骨を発見したとの通報があり——』
ラップトップには、数時間前の悲劇が淡々と報じられている様が映し出されている。
それを尻目に尾崎は両手で顔を覆い、深い溜め息をついた。
犬飼 夏生は、六年前の秋に消息を絶った。
捜索の末唯一見付かったのが、彼女が当時まとっていたとされるコートのボタンだった。発見場所は世田谷駅から二駅下った、宮の坂駅から少し歩いた先の入り組んだ小道。
後の解析の結果、ボタンの裏側に濃い指紋が残っていたことから、何者かに襲われた際に強い力で引っ張られ切れたものであるとされたが、その指紋は犯人のものではなく、犬飼本人のものと判明。
しかしその後の捜索は難航し、やがて警察の本格的な捜査も打ち切られてしまう。
それから時が流れ数日前。シオリが十字殺人鬼を追う足がかりとして行方不明者のリストを読み込んでいる際に、犬飼 夏生の名が彼女の眼に止まっていたのだった。
現在、世田谷区で行方不明者として登録されている十代の女性は二人。
そのどちらともが単なる失踪ではなく、誘拐事件である可能性——犬飼はボタンを、沙織は携帯電話を残して消えていた。
これが誘拐犯の意図によるものなのか、それとも不運ながらも聡明だった二人の少女による緊急事態を表すサインだったのか。
いずれにせよ、共通点であることには変わりなかった。
「ちょっと……俺、顔洗ってくるわ」
尾崎が立ち上がりドアノブに手をかけたその時、反対側から小気味のいい音が短く、二回鳴った。
彼は驚く様子もなく緩慢に外開きのドアを開ける。向こう側にいたのは制服姿の男だった。
「お疲れ様です。尾崎警部にこちらをお届けに参りました」
瀬谷の座る位置からではちょうど尾崎の陰になって姿が見えないが、上座からは辛うじて窺えるようで、シオリはソファから身を乗り出している。
制服と眼があった彼女はひらひらと手を振るが、彼はそれに対して反応を示すことはなかった。
シオリはその態度に怯まず、いつもの馴れ馴れしい口の利き方で尾崎に手渡されたものの正体を訪ねる。
「それなにー?」
制服はシオリを再度一瞥した後、「十字架のカードの鑑識結果です」と告げた。
「何だ、届けてくれたのか。連絡くれれば取りに行ったのに」
「薄く赤茶けた十字は血液……DNA鑑定の結果、大島 志歩さんのものと一致……使われたのは市販の毛筆……それ以外の痕跡は検出されず……か」
順に回ったコピーは最後に、滲んだ脂気を洗い流した尾崎へと行き着き、彼はそれを読み上げた。
「やっぱり、抜かれた血は残してあるんだよ」シオリが顔を歪める。
「郵便とはいえ直接送ってきてるのに証拠なしだなんて、本当に徹底してますね……」
——結局、何も分からないままか……。
尾崎も元より大した期待はしていなかったが、それでもやはり落胆した。がっくり折れた首と同時に右手も力なく垂れ下がり、掴んでいたコピー紙がひらりと落ちる。
そこで初めて、裏面に何かが書かれていることに気が付いた。
慌ててそれを拾い直し、本来白紙であるはずの裏面が上になるようテーブルに叩き付ける。
その文字が全く以て意味不明なものだと確かめた後、彼は弾丸の如き勢いで支部を飛び出した。
——さっきの制服、何て名前だったか……クソっ、あの紙をあいつに渡したのは誰だ……!
エレベーターの籠がどれもすぐには来ないことを認めると、尾崎は迷わず階段を駆け降りることを選択した。
——あいつは確か“と”から始まる名前だったはず。戸田……いや違う——と……戸上戸上だ!
大急ぎで下る最中、膝関節に痛みが走る。寄る年並みを考えれば無理からぬ現象だが、よりにもよってこのような形で肉体の老化をまざまざと思い知らされたことは、彼にとって非常に不愉快だった。
優に十階以上も駆け降りた尾崎の心臓は、全身に酸素を供給すべく限界間際の速さで脈を刻む。
つい数分前に洗ったばかりの額や生え際は真っ赤に染まり、季節外れの大汗が流れ出した。その甲斐もあってか、尾崎の健脚はいつの間にか籠を一台追い越していた。
そんな彼を待っていたのは支部を訪れた張本人の戸上ではなく、数日前にやたら畏まって和泉と名乗ったあの若い警官だった。
「はぁ……、ちょっと、いいか……!」
樹の幹のような腕ごと、肩を上下させながら呼吸をしている大男に気圧された和泉の声が上擦る。
「は——はいっ! 大丈夫ですか!? 何かありましたか!?」
「戸上ってやついるだろ、呼んでくれねえか……」
「と、戸上さん……少し前、上に届け物をしてくると言っていましたが……」
何が起きているのかさっぱり検討の付かない和泉は、歯切れの悪い答えを返す。
「違う、その後だ。あいつに、訊きたいことがある」
途切れ途切れに言葉を紡ぐも、彼の力走は虚しくも徒労に終わった。
「それ以降は……すみません、私は存じません」
——Qhaw wdujhw lv brx.
それは一眼でボールペンによる手書きだと判別が付く、意味を成さないアルファベットの羅列だった。
「暗号。さほど難しいものではなさそうですね」
状況的に、このコピー紙に触れることが可能だった人間はごく限られている。
その内の誰かが十字殺人鬼、或いはそれに与する者であると考えるのが妥当である。尾崎はいち早くそれを突き止めるべく、この部屋を飛び出した。
だが、これまで周到に周到を重ねてきた殺人鬼が、こんな稚拙な挑発でミスを犯すとも思えない。
瀬谷は、その点がどうにも腑に落ちなかった。
すると、そのままでは意味を成さないアルファベットの羅列を十秒ほど眺めたシオリが、辟易とした様子で解読法を零した。
「シーザー暗号、後ろに三つ。何これ。やる気あんの?」
「シーザー……?」
「それぞれの文字をアルファベット順で三つずつ後ろに戻せば読めるよ。ちなみに、“Next target is you.”って書いてある。全く、お粗末にも程があるね。甘く視られたものだよ」
言いつつ、わざとらしくかぶりを振る。
それを聞いた牧田はぶつぶつとアルファベットを唱えながら指折り数え、「本当だ……」と感嘆した。
「お疲れ様、尾崎警部。でもこの暗号。いや、本当は暗号とも言いたくないんだけど。これには二人が思ってるような意味はないよ。多分」
額を滲ませて帰ってきた尾崎に向けられたのは、シオリからの虚しい労いの言葉だった。
「じゃあ何だ、俺は文字通り勇んで無駄足踏みに行ったってか」
まだ若干肩で息をする尾崎は嫌味っぽく返すが、シオリは肯定も否定もしない。かと言って沈黙を生むことなく、代わりにこう告げた。
「でもこの下らないお遊びに意味を持たせることはできる。だから無駄足にはならない。させないよ」
「どういうことですか?」
牧田がその真意を訊くと、表情豊かで無機質な少女は、彼女の心境を慮ることなく意気揚々と、得意の迂遠な表現を以てつらつらと語る。
「方法を思い付いた。タイミングも悪くない。クジラを釣ろう。どれだけ大きかろうと、ディーラーには勝てないってことを思い知ってもらわないと」
「鯨? ディーラー? 何の話だ」
「ふふ、言葉遊びだよ」
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