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 シオリという名の嵐が去り、一時の凪が訪れる。  刑事組の手元にはラップトップと雑多な捜査資料、ペトロカードの解析結果と、その裏側に綴られた解読済みの暗号文のみが残されている。  「えっと、どう……しましょうか」牧田が束の間の沈黙を破る。  「ひとまずシオリちゃんの言ってた餌は俺らで撒くとして、問題はその後だな。どうしたものか」  二人はそれぞれ自身の思考回路をこねくり回し、嘘つきで浮世離れした探偵もどきの作戦に乗るつもりで真剣に推察をし始める。  シオリの言う通り、暗号文については触れないことに決めた。  尾崎はふと、数日前のある言葉を思い出す。  ——僕らの考え方ではシオリには追い付けませんよ。そもそも造りが違いますから。  彼はあの時、確かにそう言った。  尾崎はその言葉を「二十と余年を捧げて培った知識や経験を以てなお、群を抜いて秀でた頭脳の持ち主には到底及ばない」という意味合いで咀嚼し、飲み込んだ。  何とも挑戦的な台詞だったが、悔しい思いをしたのもまた事実だった。  だが今の尾崎が改めてその言葉を噛み砕くと、当時よりも素直に飲み込むことができた。  複雑怪奇かつ真っ白なパズルにようやく色が描かれるようなある種の快感。それは今になってようやくパズルの正しい解き方を理解したことと同義である。彼らは常に後手だった。  ——シオリちゃんの言う通りだ。攻めなきゃ勝てない。ここからが、巻き返しだ。  謎の組織の得体の知れないエージェントたちが自らを探偵と称し、警察と協力して事件を解決する。  現実主義的な一面を持つ牧田にとってはまるきり絵空事であり、ましてや自らが刑事という立場にある以上、それはやはり容易には受け入れ難い事実であった。  お偉方——少なくとも多田に試されていると考える方が、より自然に事態を飲み込める。  だが、そんな意味不明な騙しをしてまで得たいものも判然としなかった。  一方で、彼女の掲げるこの上なく明確な使命は今も存在する。密かでいて、時に忌々しいほど大胆に跋扈する悪を法の下へと引き摺り出す。  その為に自らも手段を選ばないというのは彼女のルールに反するが、瀬谷の言う通り、“怪物でなければ怪物と渡り合えない”のだとしたら。  牧田は、一つの分岐点に到達したことを悟った。  このまま凡庸な刑事で終わるか、頑固なプライドを捨て、より歪な悪と対峙するに足るだけの冷徹さを手に取るか。  悩んだ末にも疑問が生まれる。果たしてそれらは背反することでしか得られないものだろうかと。  どちらかを選び、どちらかを捨てれば手元に残るのは一つだけだが、どちらも器用に手にすることができるならば、ここではない、次に進めるのではないのだろうか。  そこに至って初めて見えるものもあるかもしれない。  ——茨の道でも道は道。それなら私は、歩いてみせる。  「シオリちゃんは十字殺人鬼が警察内にいると考えてる。それであれだけ無茶苦茶な作戦を立案したんだろうが……。何か疑問はあるか?」  「認めたくはありませんけど、この件もあります。否定はできません」  牧田の視線は裏返しになったままのコピーを捉えている。  「うむ。あの子は俺たちに十字殺人鬼を見付けろと言った。だがこれはただの容疑者探しじゃない。そいつを突き止めるには全体を俯瞰的に捉えなきゃならん」  尾崎はしばらく握ったままだった安物のボールペンで頭をとんとんと叩く。  “言うは易し”とはよく言ったもので、その先が続かない。一体何を以て、身内を怪しいと判ずればいいのか。性格、経歴、主義、思想、嗜好。  判断材料は挙げ出せば暇がなかった。  「このまま考えてても何にもなりません。情報収集ついでに餌を撒きに行きましょう」  彼女はテーブルに手をついて勢いよく立ち上がった。釣られて尾崎も腰を上げる。  「そうだな、そうしよう」  言うや否や、彼は自らの両頬をばちんっ、とはたく。  僅かに湿った破裂音が反響を終えた頃、支部には既に誰の姿もなかった。
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