虚偽

1/7
前へ
/57ページ
次へ

虚偽

 ——あの死体が見付かった……? 何故今になって……。  六年も前に遺棄した死体が何者かの手によって掘り起こされた事件は、男に多大な動揺を齎した。  死体を見付けようと意図した結果なのか、偶然掘り当てられてしまったのか。いずれにしても窮地に変わりないが、心持ちは随分変わるものである。  できれば後者であってほしいと願いながら平静を装ってはいたが、やはりどうにも気がかりで仕方がない。  絶対に見付からない自信があったわけではないが、まさか発見されるとも思ってもいなかった。ともすれば自分に繋がる証拠が残っているかもしれない。  そう考えると、いてもたってもいられなかった。だが、取り乱して不用意な行動に走れば怪しまれる確率は跳ね上がる。  気が付けば、男の手は小刻みに震えていた。  ——どうしたものか……考えろ……。  彼はじっくりと今後の立ち回りを練る。モニターを凝視する眼はしかし、そこに映る何もかもを捉えてはいなかった。  ——死体を掘り起こしたのは警察の関係者……令状もなしに無茶するやつがいたものだ。それが誰なのかを突き止められれば打つ手があるかもしれない。  盛大にぶち撒けられた思考を必死に掻き集め、何としてでも隠し通したい秘密を守る為の計画を立てる。  急げば急ぐほど危険は比例して高まるが、こうなってしまった以上、座して待つわけにもいかない。  何より彼自身、追い立てる不安感に自分の心臓が耐えられるとも思えなかった。ならば見上げんばかりのリスクは承知の上で、行動に移す他ない。  ——決行は今夜だ。それまでに情報を集められるだけ集めなければ。  男が動き始めてから死体を掘り起こした張本人を特定するまでに、さほど苦労はかからなかった。  何しろ彼らは警察の人間ではなく、私営の探偵を名乗る素人だったのだ。令状も取らずに土いじりをしたのも納得だった。  とはいえ、ただの素人ではないことは明白である。何を根拠に件の場所が割り出されたのかは彼には想像もつかなかったが、事実、的確に掘り抜いてみせた。  更にその探偵たちは、数日前に起きたとある殺人事件を早期解決に導いた立役者との噂もあった。  素人どころか、もはや只者ではない。  ——あの二人組がそうだったのか。  “闘争か逃走か”。  自らの人生において最大の分岐点に立たされた男の副腎では、膨大な量のアドレナリンが分泌され、やがて全身に巡り行く。  過剰とも言えるほどに生成されたそれは、彼の極めて歪な思考と嗜好に強く働きかけ、危険性がほとんど度外視された一つの解に到達する。  加えて、できる限り捜査阻害が可能な策も施した。  どれほどの足止めになるかは未知数だったが、幾らかの気休めにはなった。  ——今更バレるわけにはいかない。これはその為の犠牲だ。  二度と犯すまいと禁じていた愚行。  男はそれに臨むにあたり入念とは言い難い準備を整え、東京に溢れかえる人と闇の間に紛れていた。  早鐘の如く鳴るけたたましい鼓動は、窮地故の緊張感によるものか、それとも薄汚れた昂りによるものか。  視線の先には標的が捉えられている。  お誂え向きに、人通りの少ない道を一人で歩く姿にどこか既視感を覚えるも、今の彼にはそれをゆっくりと思い出せるだけの余裕はない。  未だ苛む迷いを断ち切り、男は遂に意を決する。闇の隙間から這い出た影は、少女の背後で固唾を飲んだ。  見かけ以上の重さに苦心させられたものの、計画性の乏しさを補って余りあるほど無駄のない犯行に男は安堵した。  むしろ、拍子抜けとも思える一連の流れに、何かしらの意図があると考えた方が自然な気すらしていた。  彼は再び小刻みに震え始めた左の手の甲を見て逡巡する。この犯行は、果たして本当に自らの意思によるものだっただろうか。  ——違う。  厳密には彼自身が最終的な決断を下したことに変わりはないが、元を辿れば今回のそれは自らの欲求によるものではなく、あくまで保身の為、必要に駆られてのものであり、故に杜撰とも取れる軽率な行動を選択せざるを得なかった。  だがもし、それが何者かによってあらかじめ撒かれた餌だったとしたら。  男は途中で首を振り、自らの行いが生み出した後悔と杞憂を拭い去るべく、自身に反論する。  ——いいや考え過ぎだ。わざわざ俺を捕まえる為にそんなことするはずがない。こいつが囮だったとしても、今の日本じゃそれは何の証拠にもならない。第一、日本警察が人命を利用するような強硬手段に出るとも思えない。  横たわる黒壇の髪の少女の口元は、同じく黒色のダクトテープできっちりと塞がれている。  万が一、予期せぬ段階で眼が醒めたとしても、これではもごもごと言葉になり切らない唸り声を上げるのがせいぜいだろう。  男は静かに窓際まで歩み寄ると、月のないどんよりとした重たい夜空を仰ぎながら、大きく三回、深呼吸をする。  ——これで全て終わる。そう、これでいい。  おもむろにスマートフォンを取り出し、地図アプリを立ち上げる。  敢えて都会の中心を選び、辛くも約六年もの間発見されずにいたあの死体は、しかしたったの六年で掘り起こされてしまった。  同じ過ちを繰り返してはならないと、今回は県境を少し跨いだ先の山に目星を付ける。車なら四、五時間もあれば戻って来られる距離だった。  とはいえ、もうじき日付けが変わる時刻。濡羽色の髪の少女が静かな寝息を立てたまま、彼女に何も知られぬ今のうちに動き出す必要がある。  心の内の邪なエンジンをもう一度かけ直して振り返る。狭い部屋の中央に視線を向けると、そこに小さな影が立っているのが見えた。  あり得ない——あってはならない光景に男は肝を潰し、あまりの衝撃に言葉すら失ったまま硬直する。  冷たいフローリングから突如として生え伸びたような影は、文字通り暗闇に紛れて顔を認識することができない。男の視覚が伝達される先では何もかもが火花を散らして急停止し、深刻な機能不全に陥った。  そんな中、どこかあどけなさの抜けきらない声が、質素な一室で確かに反響する。  「おめでとう。有言実行だね」  「ど——どういうことだ……何だ、お前……」  「わたしはシオリ。オートマタだよ」  「何言ってんだお前……」  「ちょっとお話ししない? 拒む権利は……いや、拒否してもいいけど、その場合君はここでおしまい。いい?」  男は、未だ顔の見えない少女らしき影の言葉を理解するのに相当な時間をかけた。  怒りや反抗心よりも驚きが勝り、完全に影のペースに囚われていた。  ——よく分からんが、断って下手に騒がれるよりマシか……。今あいつが起きたら元も子もない。  依然生きるか死ぬかの瀬戸際に片足を突っ込んだままの彼は、そこから先の可能性について考え、それを渋々了承する。  「わ……分かった。それで、話って」  「素直で助かるよ。君にはある役を演じてもらいたいんだ。よく似合う配役だと思う」  「役……? 意味が分からないんだが……俺に何をさせるつもりだ」  不明瞭な発言が男の神経を逆撫でる。  「話題の殺人鬼の信奉者役。どう? 面白そうでしょ?」  少女の柔和な態度から繰り出される意図の汲み取れない音の連続に、ようやく男の感情に怒りが追い付いてきた。  次第に冷静さを取り戻した彼は、ある結論に至る。  ——今……今ならこいつ一人。よく考えてみればこいつは女、それに子どもだ。素手でも余裕で抑え付けられる。今しかない。  二人の距離はほんの数メートル。障害物になるような家具はない。男の脚でなら大股で二、三歩踏み込めば少女に手が届く。  決心した半秒後、いよいよ男は大きく前傾し一歩踏み込んだ。フローリングに踵を打ち付ける無遠慮な鈍い音がする。  その直後。  「瀬谷」  焦りも驚きも恐怖もない、極めて泰然とした僅かな空気の振動を合図に、男の知覚外——薄暗い部屋の影から黒く艶がかった何かが、するりとその身を覗かせる。  ——銃……!!  すぱん、と音もなく放たれた弾丸は見事、男の額の中心を捉えた。  「ナイスショット。見事使いものにならなくなった」  「まさか本当にこいつを使う気でいたのか。それなら僕がやればいいだろう」  「ダメー。はじめからわたしがやるって決めてたから。ていうか、大事な罠なのにこんな不確定要素なんか使うわけないでしょ」  不意に、隣接する唯一の部屋とを隔てる扉の把手が傾く。蝸牛の方がまだ進んでいると認識できるほどに、恐ろしく慎重に隙間が開いてゆく。  向こう側から誰かが覗いていることを察知した瀬谷は、持っているものを構えることはせず、むしろ腰に差し込んで隠した。  「うっそ」
/57ページ

最初のコメントを投稿しよう!

142人が本棚に入れています
本棚に追加