虚偽

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 第三の十字殺人事件が起きた。  だがそれは彼が起こしたものではなく、自分の預かり知らぬところで起きた、本来あり得ないできごとだった。  今や誰もが十字殺人と呼ぶ連続事件の真犯人である彼は、一切関与していない。  推理などしなくとも別人の仕業であることは刻明であった。  実際、同一犯による連続した事件の類いではそれに感化された愚か者が、しばしば模倣犯として出現し、類似した事件を起こすことがある。  そんな愚か者が犯人であれば青褪めて憂う必要はない。勝手に真似て勝手に捕まるだけであり、それ以上のことはない。  捜査機関がやっとの思いで糸口を掴んだ気でいても、その糸が本物に通じることは叶わず、苦労も虚しく振り出しに戻るだけである。  しかし、今の彼はたったそれだけの考えでは片付けられない胸騒ぎがしていた。  彼はとある人物たちを挑発した。  絶対に捕まらない自信と同時に、誰も自分には辿り着けないだろうという諦観がジレンマとして相反した時、化学反応は内に眠る好奇心を叩き起こし、ペトロカードを作り上げさせた。  ——この事件は、それらに対する何かしらの反応である可能性は捨てきれない。だからといって新たに人を一人殺すような真似をするだろうか……。  一向に理解が追い付かないもどかしさと前例のない異常事態を前に、彼の胸の奥底では高揚や興奮にも似た感情が激しく燃え盛っていた。  彼はある時、磔刑の十字姿に魅せられた。  その際走った衝撃と独特な魅力を言語化することは困難を極め、遂にはそれを諦めた。  しかしそれは後の彼の中に拘りとして色濃く残され、自らが殺めた人間を十字に模るのはひとえに得も言われぬ美しさの再現でもあった。  一方、宗教面でのキリストに対しては敬虔どころか関心すら薄く、むしろ「神は死んだ」と唱え、異端児とも呼ばれた思想家を深く敬愛していた。  彼はただただ磔に美を見出し、それに値するだけの表現をしているに過ぎなかった。  どれだけ外見や外面が良かろうと、一皮剥けば酷く幻滅させられるような人間は多い。ならばと彼は、人が内に抱える卑しさを除くべく多くを手にかけた。  死人に口なし。手を広げればなお美し。  ところがいつからか、ただ殺めただけでは満たされず、莫大なリスクに見合うだけの付加価値を求めるようになった。  死体に求められるものなどごく限られている。そこで彼が選んだのが、血液だった。  初めこそ若干の抵抗を感じたものの、二、三度口に含めば、濃厚な酸味と鼻を突き刺すようなヘモグロビンの香りはむしろ、非日常感に赤黒い彩りと鮮やかを齎した。  一つ満たされるとまた一つ渇くものがある。  美の再現の為に人を殺し、挙句血液に酔った彼が次に求めたものは、承認だった。  幼い頃から何をしても“それなりにできてしまう”彼は、人を殺めてもそれらを明るみに晒すことなく成し遂げることができてしまった。  この事実は自らの優秀さを裏付ける喜ばしいものであると同時に、自身の胸の中で燻っていた存在感の希薄さを一層際立たせた。  その果てが、日夜全国を恐怖と好奇で賑わせている事件へと発展させた。  冷え込みが厳しくなってきた朝七時。  猫背故に胸板との隙間が少し広めに開いたジャケットの内ポケットから、煙草を一本取り出し、その先を赤く灯して車に乗り込む。  エンジンをかけた直後、どこからともなく途轍もない悲鳴が劈く。  なにごとか、と肝を潰してドアを開けると、前方に全速力で走り去ってゆく猫の後ろ姿があった。  “本物”は遺体の顔を覆う一枚のコピーを凝視する。  どのような意図によるものかは定かではないが、“偽物”は磔刑ではなく、ウィトルウィウス的人体図に拘りを見出したようで、その遺体も腕はやや上向き、脚は肩幅よりも広めに開かれていた。  ただの模倣犯が、わざわざ磔刑以外のモチーフを引っ張り出してアピールをするだろうかとしばらく逡巡するも、得心のいく明確な解答は浮かばない。  次に、そこそこのブランドのボールペンで粗末なヴェールを捲る。  彼はそのヴェールの下の素顔を見るなり、驚きのあまりうっかりボールペンを取り落とした。  ——ま、まさか。本当にこいつが殺されている……つまり昨夜の噂は本当だったのか……?  彼の脳内は混迷を極めた。  それでも必死に止まりかけた脳を動かす。この事件は今後を左右する非常に重要なものだと彼は直感した。  ——落ち着け……。理由は分からないが、こいつが殺されたからといって僕が疑われる可能性は……限りなく低い。大丈夫だろう。むしろ、僕を追う存在が減った事実は感謝に値するかもしれない。  深く息を吸い込み、底を尽きかけた酸素を血中に送る。  これから自分は何をすべきか。身元の確認。手口の確認。死因の確認。その前にまず、ボールペンを拾う。  改めて状態を確かめるべく、注意深く死体を観察する。  首元には大きな切創があり、彼には見覚えのあるものだった。直接的な死因ではなかったとしても、模倣であることに違いはないと結論付ける。  それ以外で最も目立つのは、やはりコピー紙であった。じっと見直すと、人体図の足元に小さく筆記体で英文が綴られていることに気が付いた。  ——“When you gaze long into the spin. The spin gazes also into you.”  「これは……」  何かを察した彼は、咄嗟に遺体の内手首に右手人差し指と中指を当てて脈を確認する。  当然、脈はない。身体の冷たさも間違いなく遺体のそれだった。  しかし今ひとつ釈然としない。  得も言われぬ不安に駆られ、早々に立ち去ろうと片膝をついて立ち上がる。  そのまま半身を捻って振り返ると、濃紺の作業ツナギに同じ色のキャップを目深に被った鑑識官と思しき人物とぶつかった。  「おおっと、すいません。うっかりしてました」  「こちらこそすみません。大丈夫ですか」  「ええ、大丈夫です。僕は先に一通り見させてもらったんで、後お願いしますね」  鑑識官の無愛想で短い「はい」という返事を背中で聞きつつ、彼はその場をゆっくり離れた。  三件目の遺体は手口こそ同じではあったが、そのポーズや証拠の数々など、再現にしては看過できないほどに別物過ぎて、模倣犯と呼ぶのも憚られるレベルであった。  彼は滔々(とうとう)と湧く怒りを辛うじて制しつつ、努めて冷静に事態の把握を急ぐ。  何故ニーチェの格言が引用されていたのか。  その答えは深く考える必要もなく弾き出され、“本物”は“偽物”の真意に辿り着いた。  ニーチェの言葉を以てけしかけたのは他ならぬ彼自身である。  宛て先は尾崎とその取り巻き。つまり、この十字殺人にニーチェが引用されていることを知っている人物は片手で足りる。それが示す事実はただ一つ。  ——間違いない。これは罠だ。  この事件は作為的な謀略であることは刻明であり、対象は“本物の十字殺人鬼”だと悟った。  加えて、新鮮な死体を用いて粗末な再現をしてみせたのは、考え得る限り四人——今や三人しか存在しない。  目的はこの事件を“本物”の犯行に仕立てた上で名誉を貶し、それによる動揺を誘うこと。  そんな仕掛け人たちの思惑通り、若干の困惑を抱きながら彼は今後の身の振り方を考えた。  ——仕掛け人も、その目的も理解できる。この推測は間違いないはずだ。それを踏まえた上で僕が取るべき行動は一つ。静観。少しばかり自制心を試されることにはなるが、こんな茶番に全てを狂わされるほど愚かじゃない。だが……やはり分からない。これは人を一人殺してまで張るような罠だろうか? 何故あいつを殺す必要があった? 僕は何かを……見落としているのか?  違和感では片付けられない疑念は彼の心に影を落とし、その完璧主義的な思考を徐々に蝕んでゆく。  そもそもが粗末な造りの罠であるにも関わらず、その罠には一つの命が惜し気もなく使われている。何もかもが歪に感じる。  ——もし。万が一あの罠に別の意図があるのだとしたら。静観という態度を貫くことで作動する条件があったとしたら。自分と対峙し立ち回ろうとする相手が、ただ動揺を誘うだけの呆れるほど単純な罠など使うだろうか。相手の策を、意図を、真意を、その裏を導き出さねばならない。  彼は回路を休ませることなく、シナプスの発火を促し続ける。  それでも少し冷静になるべきだという理論と、何より本能が煙草を欲していることに気が付き、ポケットをまさぐる。  そうして咥えた煙草に火を点ける手が緊張と高揚で震える。  これまで一度も味わったことのない非常事態に、男は興奮すら覚えていた。  このまま身を隠すことは容易だが、捜査に加わらない選択を取ることはほとんど自白に等しい行為である。  とはいえ、“人を殺してまで張られた罠”がある以上、今後どこに何が仕掛けてあってもおかしくはない。  最悪、何食わぬ顔で本部に戻ったとしても既に待ち構えている可能性すらある。  埋められているかどうかも定かでない、恐らく地雷だらけであろう平原を丸腰で駆け回るのに等しい。  今回ばかりは得意のポーカーフェイスも役立ちそうにはなかった。
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