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真実
約二十四時間振りに警視庁に現れた瀬谷は、普段は持ち歩いていないジュラルミンケースを提げていた。
やや小さめだが、細部の装飾からは高級感がさりげなく滲み出ており、彼が羽織る無駄のない濃灰のチェスターコートがそれを引き立てていた。
「おはようございます。絞り込みはいかがですか」
「一課の佐藤 末廣。それと、戸上っていう警官。こいつらは今揃って職務放棄してる挙句、行方不明だ」
「佐藤く——佐藤さんはスマホのGPSが機能していない状態なので、何かしら手を打っていると見ています。戸上さんは昨日、ここを訪れた後に行方を眩ましたとのことです。戸上さんの位置情報は未だ手を付けられていないのでなんとも……」
「なるほど、佐藤巡査。それは良かった」
「え……よかったって、どういう……」
瀬谷は真顔のまま、どこか安堵した様子で言葉を続ける。
「今朝お会いしたんです。いの一番に現場にいらっしゃったので、少しお話ししました」
「ど、どういうことだ?」
「申し上げた通りです。通報してからずっと現場で待機していたら、彼がいち早く一人で臨場されたので茶々を入れにいきました」
「……それで」
「丁寧に観察し終えて、立ち去る寸前に接触を。その際、小型の発信機と携帯電話を仕込んでおきました。他の捜査官何名かにも同じことをしましたが、お話を聞く限り彼が疑わしいようですね」
相変わらず口元以外の表情筋は一ミリ足りとも動かないが、彼とて感情を持っていないわけではない。
殺人鬼の正体を暴く瞬間が間近に迫った今、瀬谷の心の奥底では高揚感が沸々と込み上げる。それ故か、柄にもなくどこか饒舌になっていた。
「じゃあ、あいつの居場所が分かるのか!」
「それから、戸上さんはもう気にしなくて大丈夫です。既にこちらで抑えておりますので、捜査に進展があればその都度僕に連絡があります。今は佐藤巡査の行方を優先しましょう」
何が大丈夫なのか、どこで、どのように抑えているのかを捲し立てようとした二人を正論で牽制する。
牧田はそれでも一つ、気になることがあった。
「あの、ところでシオリちゃんは?」
「支度中です。今朝まで死体だったので」
思わず聞き流しそうになるほどこともなげに、理解できない言葉を口にする。
彼女は今度こそ、今回の作戦の根幹である“偽の死体”について問い質した。
「それはシオリから直接。決して僕自身が勿体ぶっているわけではないことはご理解ください。なにぶん、シオリが嫌がるものでして」
ジュラルミンケースからラップトップを取り出し電源を入れる。その作業をしながら、瀬谷は注意点を述べた。
「GPSですが、付けたのはコートなので場合によってはどこかで脱ぎ捨てられている可能性もあります。おおよその位置を割り出した後は、少々推理が必要になるかもしれません」
「ああ、充分だ。頼む」
「それから、代々木公園一帯に数名の警官を派遣してください。どこかにスマートフォンが打ち捨てられていれば、あまつさえそれが壊されていたのなら、ほぼ確実に巡査のものでしょう」
追跡用のソフトを立ち上げると、画面には千代田区を中心に、隣接する区がいくつか収められていた。
それから数秒も置かずに、地図上にそれぞれ色の異なる五本のピンが刺さる。
現在地である警視庁に重なった三本、代々木公園東側に一本、最後の赤いピンは画面中央より少し右上、秋葉原の外れに流れる川沿いを示していた。
「赤いピンが一つ目のGPS——つまり、佐藤巡査に取り付けたものです」
「秋葉原……」二人ともいまいち瞭然としないようで、揃って首を傾げる。
世界でも有数の電気街とも呼ばれるほどに賑わう街。昼夜問わず人通りの激しい場所に殺人鬼が潜んでいる。
しばらく観察したものの、ピンは同じ場所に刺さったまま移動している気配はない。
——こんなところに隠れ家になるような場所が存在するのだろうか。
瀬谷も逡巡したものの、取り立てて地理に強いわけでもなければ土地勘があるわけでもなく、答えを出すには至らない。
すると突然、牧田が何かに取り憑かれたようにメモ張を捲り、自らが記した過去の記録を探し始めた。
「確かシオリちゃん、上野で初めて会った時に……ええと、これ。ご遺体を観察し終えた後、“少し湿ったところに連れ去られた”って言ってます。どこかありませんか? そういう場所」
自筆の走り書きは“色んな煙草の匂い”とも綴っていた。
一週間前にこれを記していた彼女は、ホステスとして働いていた大島から煙草の匂いがすることに何ら違和感など抱かなかったが、今になって佐藤もヘビースモーカーに分類される人間だと思い返した。
その現実が牧田の内にいらぬ葛藤を生み出す。この期に及んで希望を捨て切れない自分に苛立ちを覚えつつ、改めて迷いを断ち切った。
「“湿っている”という表現が当て嵌まるかは定かではありませんが、神田川は確かに近くを流れています」
「秋葉原で神田川っていうと、万世橋に封鎖されてる地下室があったような……」
「万世橋、近いですね。当たりだと思います」
「っし、車出してくる」
この部屋から尾崎が飛び出してゆく様を、果たして何度見ただろうかと牧田は思う。
それももうじき大きな区切りが付くと強く直感した彼女は、溜飲が下がると同時に、自分の膝が微かに震えていることに気が付き、苛立ちを覚えた。
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