真実

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 眼下の川と頭上の雑踏に囲まれた薄暗い地下室。  佐藤が常通りの冷静さを取り戻し、ことの重大さをようやく俯瞰できたときに込み上げてきたものは、何にも勝る怒りであった。  ——何故逃げた? 何故僕はここに隠れている? 他の馬鹿どもに混ざって大人しく現場で待っていればよかっただろう。何故そうしなかった!  彼の今までの人生において、これほどまでに屈辱的なことはなかった。次第に募る焦りや苛立ちから、落ち着いて座っていることもままならない。  ——違う。そうしなかったのはあそこで死んでた探偵のせいだ。あいつは何故殺されていた? 誰が殺したんだ? 余計なことを……。いや待て、何かおかしいと感じたんだ。そう、何かがおかしい。  彼のつま先は不規則なリズムでコンクリートを叩き続ける。  ——あの時、確かに何かが変だと感じた。それは何だ……? もしかしたらそこに答えがあるかもしれない。  革靴の底が苛立たしげに音を立てる数秒の後、佐藤は違和感の正体に辿り着いた。  ——そうだ。あれはアビスじゃなかった……。  探偵の死体に貼られた紙の、その一文。  “お前が深淵を覗く時、深淵もまたそちらを覗いている”  ところが、実際に書かれていたのは“Abyss”ではなく“Spin”だった。  彼が覗いていたのは、深淵ではない。  では“Spin”とは一体何を指す語なのか。  自らを愚行に走らせた元凶である違和感を暴いたものの、また一つ謎が増える。  そして運命は容赦なく、佐藤を嘲笑うかのように——何についても深く考える間を与えず、古めかしく乾いた通知音を反響させる。  ——どこだ、なんの音だ……。  まず二台目のスマートフォンを確認するがもちろん音源ではなく、なんの通知も入っていない。  音の正体は、改めて探ろうとして最初に手を突っ込んだコートの左ポケットに隠れていた。  入っていたのは、機能しているのが不思議に思えるほど古い携帯電話。歴史的価値を見出され、博物館に展示されていてもおかしくない。  不快な電子音は着信を報せており、出るか切るかをしなければ鳴り止まない。  当然、得体の知れない携帯電話にかかってきた知らない番号からの電話など出るわけもなく、彼は迷いなく着信を拒否した。  この携帯電話はいつ、どこで、誰に入れられたものなのか。再び静まった地下室で佐藤は考える。  今日、彼が行った場所、会った相手。それは考え得る限り、一人しか存在しない。  ——鑑識だ。あいつは僕にぶつかった時にこれを仕込んだ。つまりあいつは、鑑識の人間じゃなかったのか……? だが何故わざわざこんな骨董品を……。  再び響く着信。二度目は一回目のコールで即座に切った。  ——まさかこっちが出るまでかけ続ける気じゃないだろうな。  結果、佐藤の杞憂は残念ながらそれで留まることはなく、間髪入れずに三度目の着信が入る。  直前に感じた苛立ちもあり、彼はいよいよ電話の向こうに文句を言ってやろうかと躊躇う。  やがて佐藤は、渋々電話に出ることにした。  『こんにちは、十字殺人鬼さん』  核心を抉り込む一言に、彼は思わず後ろ手を付いた。  「人違いだと思いますが、どちら様でしょう。随分失礼な物言いですけど」  『人殺しに説教される筋合いはないよ』  電話の向こうの声は人を小馬鹿にする口調で、佐藤が殺人鬼であることをほとんど確信している様子だった。  もっとも彼には、何を以てそう判じられているのかを推し図ることができず、無意識下に生じた不安感は精神を圧迫するのに充分なものだった。  「……お前、誰だ」  『さぁ、誰でしょう? ところで君は、“ジョーカーを最後まで隠し持ってたら負け”ってルール、知ってる?』  「何の話だ」  『何って、トランプの話だけど。それからもう一つヒント。“ジョーカーは何にでもなれる”んだよ』  「ふざけてねぇで質問に答えろ! 誰だって聞いてんだよ」  全力の怒号が伝わりきる前に電話は途切れた。  佐藤の感情は、焦燥も困惑も諦観も、何もかもが取り除かれた純度百パーセントの怒りで満たされる。  振り切られた憤怒は彼の人間性を底の底まで叩き落とし、まずその矛先が向けられたのは右手の携帯電話だった。  「っざっけんな!!」  ——あの声……! 聞き覚えがある!! あのクソガキか……? いいや、あいつは死んだはずだ。僕じゃない、誰かが殺した……一体誰が殺した……? 余計なことしやがって……!  砕けたプラスチックの破片が本体から放射状に線を描き、散り散りになる。更に執拗に何度も何度も踏み躙り、携帯電話は文字通り粉微塵と化した。  ——何だ……俺はどこで、何を間違えた? いいや何も、何も!! ……間違えてない。俺は全霊で自分の幸せを、美を、潤いを、暖かさを! 求めただけだ! そこに至る過程も全てを完璧に消し去ってきた。こいつが僕を知っているなら、こいつも殺せばいい。そうすればまた……完璧に戻る。そうだな、完璧に相応しい過去最高の磔刑にしてやろう。存分に血を流すといい。それはきっと勝利の美酒だ。さぞや……。愚鈍な人間如きに俺は暴けない。だが……僅かにでも、ほんの少しでも僕の幸福を(おびや)かすやつは——
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