真実

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 「瀬谷さんっ!!」  突き飛ばされ枕木に尻餅をついた牧田の叫声が、発された何倍にもなってそれぞれの破れかけの鼓膜を揺さぶる。  「いや驚いた。あんた凄いね。良い反射神経してますよ」  乾いた拍手が地下鉄に響く。右手人差し指には日本警察標準装備の拳銃がだらりとかけられている。  牧田を穿つべく放たれた弾丸は、しかし瀬谷の左の腸骨上部をぎりぎり掠める形で腹斜筋に深く食い込んだ。  彼は眉間に皺を寄せ苦悶を露わにしたが、それでも倒れることなく左手で銃創を抑えていた。生暖かい血液は衣服を滲ませながら大腿を伝って流れ落ち、やがて履き慣れた革靴に溜まり始める。  彼は腹に開いた穴の痛みよりも、靴の中の血溜まりにこの上ない不快感を抱いた。  「そういえば、今朝のツナギのお兄さんってあんたなんでしょう? してやられましたよ。携帯まで仕込んでくれちゃって。今のはそのお礼ってことで」  「銃を捨てなさいっ!」  牧田はあまりに無力だった。何とか体勢は立て直せたものの、拳銃を手にした殺人鬼を前に、何も持たぬ彼女が成せる術などたかが知れている。  最低限の武装すらせず乗り込んだことを酷く後悔したが、それはいつの世も先に立たぬものであった。  「丸腰で凄まれてもなぁ。でも牧田の昔から変わらないそういうクサいとこ好きだけどね」  嘲りをふんだんに含んだ笑いと共に拳銃を握り直し、親指で再び撃鉄を起こす。  瀬谷は銃創を抑えていた左手を少しだけ浮かし、出血量を確かめる。  ——自分の血か、久々に見たな。最後に見たのはいつだ。  左手を元の位置に戻し、穴を塞ぐ為に先ほどよりも強く力を込めて覆った。同時に、悟られぬよう右半身を引き、右手をゆっくりと背後へスライドさせる。  膝丈まであるチェスターコートは、腰に差さった彼の“御上(ガバメント)”を寸分の隙なく隠すのに十分だった。  グリップはいつもの場所にきちんと収められている。  そして瀬谷はコートを翻し、引いた右半身で今度は勢いよく前へ一歩踏み込む。  すらりと伸びた長い右腕の先では、瀬谷のもう一つの相棒がその口で佐藤の額を的確に捉えていた。  痛みはあるが、それしきで彼の照準がブレることはない。  一対一。  地下鉄内の心許ない電灯が、その一部始終を薄ぼんやりと照らし出していた。  「佐藤さん。あなたは何故、人を殺すのですか」  「銃刀法違反っ。よかった、これでさっきの発砲が正当防衛にできる」  「質問に答えてください」  「え? ああー……。僕は生きたいように生きてるだけですよ。美味しいもの食って、良いベッドで寝て、素敵な人と共に時間を過ごして、ついでに承認欲求も満たして。誰もがそうやって生きてるでしょう? それと何にも変わりませんよ」  「その解答は暗に殺人の事実を認めていると捉えてよろしいですね。つまりあなたは獣以下というわけだ。獣の世界にも掟が存在するのに、あなたはそれすら守れない」  「僕は何にもやってませんよ。あんたが——あんたらだけが勝手に僕の仕業だと思ってるだけで。というか、犯人かどうかも定かでない僕を釣る為だけに相方殺したやつのご講釈とは。これはありがたいね」  「おかしいですね。何故あなたはシオリが死んでいることをご存知なんでしょうか。捜査本部は遺体の身元を全く別の人物、『クニモト ユキナ』だと確認しているはずですが」  「っふふ、さすが、探偵サマは口が達者だ。でも、そうやって話をでっち上げて動揺させようなんて古典的な手は喰わないよ。これでも一応刑事なんでね」  「“でっち上げ”。なるほど言い得て妙ですね。牧田さん、耳を」  瀬谷は銃口を額から僅かに下げ、顔の両側を目掛けて一発ずつ発砲した。  事前の忠告通りに耳を固く塞いだ牧田の鼓膜は、閉鎖空間に生じた尋常ならざる爆音をいくらか軽減することができたが、銃を構えた男二人の内耳は激しく揺さぶられ、後に続く不快な耳鳴りが襲った。  さすがの佐藤も怯んだが自らが無傷であることを確認すると、込み上げてくるものを抑え切れないといった様子で肩を震わせ始めた。  「それと残念ですが、僕は探偵ではありません」  「何? あんたのせいでよく聞こえないよ。もっと大きい声で喋ってくれないかな」  「ですが探偵“役”なら、あなたの背後に」  佐藤は振り返らない。  実際に、酷い耳鳴りはその他ほとんど全ての雑音を掻き消すのに充分で、瀬谷の言葉を何一つ拾えない。  結果、彼は自分の背中をとんとん、と指で突かれるまでその存在に気付くことができなかった。  強烈な悪寒を伴ったそれの正体を確かめるべく反射的に振り向くと、“今朝見た死体”が槍の如く鋭利な眼差しで、佐藤の顔を見上げている。  その鋭さには、怒りや殺気、或いは悦に浸った様子などは一切含まれていない。  薄暗いとはいえこれだけの至近距離でなお、佐藤はその視線に乗せられた感情を読み取ることができなかった。  おもむろに耳鳴りが静まり、広い地下トンネルに吹く湿り気のある濁った風の音が鼓膜を撫でる。  その時を待ち構えていたのか、彼の聴覚が回復したその瞬間、“死体だったはずの少女”は片側の口角を極端に歪めながら小さく一言だけ零した。  「久しぶり」
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