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膝から崩折れた佐藤は言葉にならない悲鳴を上げ、撃たれた右手を庇いながら痛みを訴えている。
その様子を呆然と見ていた牧田は、ある違和感に気付いた。
——血が、出てない……?
思い返せば右手を撃たれた直後も、血が飛び散ったようには見えなかった。そして今も、彼の濃い影に重なるようにして溜まっているはずの血液は、一滴も流れていない。
「瀬谷さんそれ……何を撃ったんですか……?」
そもそも、警察ではないにも関わらず拳銃を持ち歩いているのも大きな問題ではあるが、それは一度隅に追いやり、牧田は恐る恐る訊ねた。
「非致死性のゴム弾です」
佐藤の右手とは対照に、既に相当量の出血が目立つ瀬谷は、やはり被弾したとは思えないほどあっさりとした声色でマガジンの中身を語った。
しかしどれだけ澄ました顔、涼しい声であっても、人間である以上そのダメージは確実に彼を苦しめていた。
「ああっ、ごめんなさい。今手当てしますっ」
理解するには困難な事象の連続を経たとはいえ、そのうちの一つを完全に失念していた牧田は慌てて彼の元へと駆け寄ると、過去に自身が得た知識の引き出しをひっくり返しながら応急処置を試みた。
「すみません。僕“は”一応人間なので、お手柔らかに」
「尾崎警部、ワッパ持ってる?」
「綺麗な顔してそんな言い方するんじゃない。それとも何か……? そう教わったのか?」
尾崎は小さくかぶりを振りつつ、慣れた手付きで腰に提げた仕事道具の中のいくつかから手錠を抜き取る。
膝を折ってうずくまりながら、年甲斐もなく大粒の涙をぼたぼたと溢しながら痛みに喘ぐ佐藤の前に立った彼は、物憂げな表情でしばらくそれを見下ろした。
「何で、嘘でも否定しなかった」
「お——俺じゃない……あんだの姪は……っ、俺は何も知らない……!」
湧き出る感情のままに、苦痛に歪んだ醜い顔面を思い切り蹴り上げることもできた。
実際、あと一秒でもシオリの介入が遅れれば彼はそうしていたかもしれない。
「あ。ストップ。これは本当だよ」
屈んで佐藤の腰をまさぐっていたシオリは、虚偽に塗れた殺人鬼の言い分を保証し、尾崎の暴走を抑え付けた。
相変わらずこともなげな様子はそのままに、元刑事が所持していた手錠を盗み取ると、彼女はそれで佐藤の両の足首を互いに離れないよう鎖で繋ぎ合わせる。
それが終わるとシオリは尾崎に向き合い、改めて言葉を続けた。
「沙織さんを攫ったのは別にいる。で、もう捕まえてあるから、取り敢えず今は落ち着いて手錠して」
「おい、それ、本当か……? 誰が攫った!? 沙織は、沙織は生きてるのか……!?」
「だーから、落ち着いてってば。今まだうちで拘束してるけど、そのうち警察にあげるようになってるから」
「んな落ち着いてられるか!! 沙織は無事なのか!!」
「うん。生きてるよ」
立ち尽くす尾崎の手から手錠を掠めたシオリは、佐藤の手首を後ろ手に組み、「よっ」と軽い掛け声と共に、勢い良く半円を振り下ろす。
先ほどまでの気迫などどこ吹く風。彼女はいつもの溌剌としたお転婆に戻っていた。
「十五時二十九分っ。誘拐、殺人、死体遺棄。あとはー公務執行妨害? その他諸々で、現行犯逮捕!」
長い地下トンネルの遠く向こう側から騒音が届く。
シオリが尾崎の名前で呼ばせた応援は、その音量から相当な大所帯であることが窺える。
両手足の自由を奪われた佐藤は、塩を振られたナメクジのようにのたうちまわり、咽びながらも呪詛を吐き続けている。
その姿はただただ醜悪と言い表す他なく、シオリに何の感情も与えなかった。
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