未来

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 ティーポットにお湯が注がれる。乾燥して小さく縮こまっていたマルコ・ポーロは熱湯によって徐々に花開き、それは同時に優しく、柔らかい芳しさを立ち昇らせた。  「どうぞ、僕の一番のお気に入りです」  二日前に左腹部に銃弾を受けた瀬谷は、さも当然のように紅茶を注ぎ、それを二人に差し出した。  自身の分と、当然シオリの分もない。  「お前、一昨日撃たれたんだよな?」  「私のせいで……すみません」  自分の意図による負傷ではないと頭では理解はしていても、牧田は罪悪感を抱かずにはいられなかった。  「当たり所がよかったので特に問題ありません。それに僕が勝手にやったことです。気に病まないでください」  「わたしも撃たれたよ」  何に張り合いを見出したのか、すかさずシオリが割り込み得意げに額を指差す。寸分の狂いもなく切り揃えられた前髪を上げるが、着弾点には傷はおろかシミ一つ残っていない。  「丈夫な造りでよかったな」  「本当に、人間じゃないんですね……。全く気付きませんでした」  「ふふん、そうでしょう。映画いっぱい観て人間を学んだからね。そうでなきゃ困るよ」  「そういえば、あの紙切れに書いてた“スピン”って何だったんだ?」  尾崎は以前と異なり、芳醇な紅茶の香りをたっぷりと楽しみながら、引っかかっていたことを訊ねた。  「栞って意味だよ。あれもただの言葉遊び」  「栞って言ったら、ブックマークとかじゃないんですか?」  「普通はね。でも背表紙に付いてる紐状の栞だけは、スピンとも言うんだ。だから『お前がシオリを覗く時、シオリもまたお前を覗いている』って意味になる。面白いでしょ」  刑事二人は揃って唸る。  その光景を見て何か思い出したのか、今度は瀬谷が口を開いた。  「僕も一つ訊きたいんだが」  「え?」  「何故お前は國本さんと会った時、彼女に嘘をつかなかったんだ。前に会っていたわけでもあるまい」  「いい? 瀬谷。確かにわたしは色んな嘘をつくけど、それには全部意味があるの。つまり、あそこで國本さんに嘘をつく必要は全くないわけ。言ったでしょ。まだまだ学んでるんだよ」  瀬谷は珍しく眉で返事をし、肩まで竦めてみせる。  刑事組には何の話をしているのかまでは分からなかったが、このやり取りそのものは異質で、新鮮なものであった。  「色んなことを学んだわたしだからこそ、誘拐されることもできたし、死体にもなれた。そしてわたしは警察じゃないから、囮捜査も怒られない」  「おかげでだいぶ振り回されたけどな」  「シオリの作戦はともかく、素性については規則でお話しすることができなかったもので。申し訳ありません」  大きな事件がひと段落ついた束の間。支部にはどこか穏やかで独特な時間が流れていた。  戸上は警察に身柄を引き渡された後に行われた取り調べにおいて、犯行を認めてはいるものの、唯一、犬飼の殺害については故意ではなく偶発的なものであると主張している。  発覚を恐れた彼は、慌てて遺体を隠匿したとのことだった。  その発言の信憑性として、犬飼が遺棄された翌年に拉致された沙織は、今日までの五年間を殺されずにいた。真意については本人の口からは語られていない。  一方、佐藤は地下トンネル内で拘束されてからというもの、頑なに黙秘を続けていた。  彼を捕えた翌日、尾崎、牧田を始めとする捜査一課は、佐藤に攫われたと思われる三人目の被害者を、彼の借りていたアパートの一室で発見した。  監禁状態にあったものの幸いにもまだ息があり、佐藤がどのようにして犯行に及んでいたかを知る、重要な手がかりとなった。  曰く、世田谷区の白骨遺体発見がなければ、彼女はその日のうちに殺されるはずだったとのこと。  その身元は、二年前にストーカー殺人の容疑がかけられていたものの、証拠不十分として不起訴処分が下されていた二十代の女だと判明。  こちらも本人の口からは語られていないが、シオリの唱えた磔刑の見立て殺人説は、最後の一人、“悪党”の発見を以て裏付けられることとなった。  「ところで、お前さんたちは今後どうするつもりなんだ?」  「まずは正式な報告をしに一度戻ります。その後の身の振りは上次第ですので、今は何とも」  「もしかしたら今日が最後かもねー」  「そうか。徹頭徹尾胸糞悪い事件だったが……ここまで漕ぎ着けられたのはお前さんたちのおかげだ。尽力、心から感謝する」  尾崎は姿勢良く立ち上がり、腰をきっちり四十五度に折り曲げる。  「ありがとうございました」それに倣って、牧田も頭を下げる。  「どういたしまして」  シオリはそれに対し、いつ振りかのカーテシーで答える。  「では、そういうことですので我々はこれでお暇致します」  「え。も、もう行っちゃうんですか?」  「ええ。まだこちらの仕事も残っていますので」  言いつつ、さっと身支度を済ませた瀬谷の所作からは、何の名残惜しさも感じられなかった。  それほどまでに淡白なのか、或いは常通り、感情を表に出していないだけなのか。  十日近くを共に過ごしても牧田は彼の真意に辿り着くことはできず、一方的なわだかまりを抱かずにはいられなかった。  この事実は彼女の内に、鬱屈とまではいかないまでも、快いとは言い難い何かを植え付ける。  いずれ自らを苛む感情に育つかもしれないそれを、牧田は見て見ぬ振りをすることに決めた。  「それじゃあ二人とも、ごきげんよう」
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