エピローグ

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エピローグ

 吐いた息がそのまま礫となって落ちてしまいそうなほどに冷え切った朝。師走も残り僅かとなった東京では、大粒のぼた雪がしんしんと降り積もっていた。  雪に慣れない都心の交通網はほんの数センチの積雪でいとも容易く麻痺し、人の流れに滞りを生み出す。  真面目と頑固に脚が生えたような牧田も、この日ばかりはその被害者の一人になっていた。  「すみません、遅くなりました」  「おう、お疲れさん。電車通勤はこういう時大変だな。ただでさえ人が多くて鬱陶しいのに」  頭頂部や肩をほんのり白く染めた尾崎は遅刻を咎めることをせず、軽く笑い飛ばしながら部下の雪中行軍を労った。  控えめな門戸の奥に聳える立派な邸宅で遺体が見付かった旨の通報が入ったのが、今から約一時間前。  被害者は当邸宅の家主であり、死因は鈍器での殴打による脳挫傷と見られているが、現時点で凶器の発見には至っていないとのことだった。  その他諸々を漏らすことなくメモ帳に書き綴る牧田の手は、赤く悴んでまともにいうことを聞こうとしない。所々に生じるミミズが這っているような文字に苛立ちを覚えながらも、彼女は何とか事件の概要をまとめ上げた。  「いやはや……こうしてまた殺しのヤマに当たると嫌でも思い出すな」  先月、突然捜査現場に現れた、人工知能を搭載した機械人形とその産みの親。  始めこそ探偵だと詐称していたが、振り返って見てみれば本当に“刑事事件に首を突っ込む探偵”だった方が存在そのものに信憑性を帯びていた。  そんな彼らは、まだ記憶に新しい“連続十字殺人事件”と“女子高生誘拐及び殺人遺棄事件”の二件を、お世辞にも華麗とは言い難い、大胆で常識外れな罠を用いて解決してみせた後、元から何者もいなかったかのように忽然と行方を眩ませた。  牧田は彼らの素性を知った上で、敢えて自ら連絡を取ろうとはしなかった。  その決断に至るまでにはあらゆる苦悩と葛藤をくぐり抜ける必要があり、それは彼女の胸をきつく縛るには充分過ぎるものだった。  「今頃、どこにいるんでしょうね」震える手は寒さによるものだと決め付ける。  「ここだよ」  半ば独白だったはずの言葉に返事があった。  反射で振り返ると同時にこの朝一番の強風が荒び、視界は白い斑で覆われる。  乱れた前髪を雑に払うと、すぐそばに凸凹な二つの人影が立っていた。  「ご無沙汰しておりました」  長身の男はカードケースから名刺を二枚抜き取り、丁寧に両手で差し出す。  明朝体で「警視庁捜査一課コンサルタント 瀬谷 啓介」と書かれたそれを受け取った尾崎は、堪らず笑いを吹き出した。  「ふっ、探偵事務所は廃業か?」  「割に合わなかったもので」  「はいこれ。今度はちゃんとわたしのもあるんだよ」  彼女の名刺にも同じ肩書きこそ印字されていたものの、二人は続く文字に違和感を覚えた。  「空音(そらね)……シオリ?」  コンサルタントとして外部での活動が多くなることを考慮した結果、シオリは新たに「空音」という姓を得た。  その実、ほとんどは彼女のわがままによるもので、わざわざ“嘘”を意味する言葉を選んだのも彼女に組み込まれた思考パターンが導き出したものである。  当然、命名の際は瀬谷も立ち会っていたのだが、やはりその選択には疑問を抱かずにはいられなかった。  ——嘘をつく必要がないことを学んだと宣っていたのは、一体何だったのか。  シオリは何故これほどまでに嘘にこだわるのか。その答えは彼女の口から語られることなく、遂にその内に宿った心に秘められたままとなった。  「ってことで、これからも探偵続けるからよろしくね」  「探偵じゃない。コンサルタントだ」  重たい六花の塊は鈍色の空から音もなく降り続け、都会には似つかわしくない白銀の絨毯となって敷き詰められる。  空音 シオリは小さな足跡を残しながら、一歩二歩と脚を進めた。
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