〇〇が落ちてきた

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大丈夫、きっと明日はできる。 浅田真央 (フィギュアスケート) ********  はぁ~、モチベーションが落ちてきた。  僕は今、ダンススクールに通っている。ヒップホップ系のダンス。  ダンスを習いだした理由はいろいろあるが、一番の理由は自分を変えたかったから。  僕は大学を卒業すると、ある企業に就職した。しかし、いきなり地方に転勤になり、見知らぬ土地で生活する羽目になった。  仕事を始めて一年、仕事にも慣れだし、何か新しいことを始めてみたいと思った。ちょうどこの土地には、僕を知っている人はほとんどいない。変わる照れ臭さ、というものは微塵もない。  僕は陰キャでインドア派。だから真逆のものを選んだ。それがダンスだった。  しかしダンスを選んだのは失敗だったのかもしれない。  僕がダンススクールに入会したのは四月。そして今は年末十二月。真面目に続けてきたが、いっこうに上手くならない。  このダンススクールでは、三月にダンスの発表会があり、全員参加する。しかし生徒の上手さに差があるので、AからDの四つのグループに分けられる。Aグループは上手な人。より難しいダンスを発表する。そして僕が選ばれたのはDグループ。初歩的なダンスを発表する。  Dグループのほとんどは、僕より後に入会した人ばかり。いや、僕より後に入会した人も、CやBのグループに入っている人もいる。  やはり似合わないことをするものではなかった。僕みたいな陰キャがダンスなんて。そもそも才能がなかったのだ。  僕のモチベーションは一気に落ちた。  Dグループは六人のグループ。これから発表会まで一緒に同じ振り付けでダンスの練習をする仲間になる。  そのDグループの中に、一人だけ変わった人がいた。  その人というのは、Dグループの中でも飛びぬけて歳を取っていた。Dグループは僕と同じくらい、もしくは僕より若い人が集まっていた。しかし一人だけ、僕より一回り上、三十五くらいの歳のおじさんが混ざっていた。  そのおじさんは、よくダンススクールに来ていて。僕も何度も目撃していた。しかし僕は一度も、その人に話したことはなかった。いや、そのおじさんだけでなく、僕は未だに他の生徒と会話したことが無い。  ダンススクールに通った理由の一つに、仕事以外の知り合いが欲しいというのもあったのに。自分が陰キャなもので、ダンススクールに通う陽キャな人たちに気後れしてしまう。  でもそんな陽キャの集団の中、そのおじさんは陰キャなタイプだと僕は判断した。  服装や髪型が陰キャっぽいし、いつも一人で黙々と踊っているし。きっと僕と同じタイプだと思いながらも、ずっと話し掛けれずにいた。  グループが一緒になって、良いきっかけかもしれない。  Dグループが集まると、お互いに名前を名乗り、軽い自己紹介をした。  そのおじさんは小池さんという名前だった。去年の四月から、このダンススクールに通っているという。僕より一年も前にダンスをやっている。なのに未だにDグループ。  僕が俄然と小池さんに興味が湧いた。上手くならないのに頑張る、そのモチベーションを知りたくなった。  「小池さん」  僕はダンスの練習が終わると小池さんに声を掛けた。小池さんは、目を丸くして驚いた表情で固まった。  僕は小池さんの変化を察し、「すいません、声掛けたらマズかったですか?」と謝った。  「いや、こんなおじさんに声掛けてくれる人がいたのに驚いただけだよ」  固まった表情を解し、小池さんは笑顔で僕に接してくれた。  「小池さん、ダンスを続けて二年目になるんですよね?」と僕は訊ねた。  「そうそう。なかなか上手くならなくて恥ずかしいんだけどね」  小池さんはそう言うと、苦笑いをしながら頭を掻いた。  「いや、僕も全然上手くならなくて。僕より遅くダンススクールに入った人も、僕より上手くなってるし。僕って、やはり才能ないのかな?って思っちゃいますよ」  僕も小池さんと同じように苦笑いをし頭を掻いた。そして続けて、訊いてみたかったことを質問してみた。  「でも小池さんは凄いと思います。ちゃんと諦めずダンスを続けているんですから。僕なんか、ちょっと心が折れて挫けそうなんですよ。何かモチベーションを上げる秘訣みたいなものがあるんですか?」  「君、桜田君だっけ?」  小池さんは僕の名前を確認した。僕は「はい」と答えた。  「桜田君、嫌味じゃないよね?」  小池さんは笑いながら訊いてきた。  「いやいやいや。本当に感心してるんです。僕も諦めずダンス続けたいので」  僕は焦りながら答えた。  僕があまりにも焦っていたので、小池さんは「分かった、分かった。まあ、落ち着いて」と言って、僕をなだめてくれた。  「モチベーションを上げる秘訣かあ?」と言って、小池さんは少し考え込んだ。「あまりモチベーションについて考えたこともないな」  「えっ?」  「モチベーションなんていらないでしょ。ただやるだけ」  「やるだけ?」  「そう、ノルマ」  「ノルマ?」  小池さんはモチベーションを無理して上げないと言う。  小池さんの説明によれば、何をするにしても一人前に上達するには一万時間が必要だと言う。だから、無理して疲れるくらいなら、自分のペースで続けることが大切なんだとか。だから無理にモチベーションを上げようとしないらしい。  「桜田君、ウサギとカメは知ってる?」と小池さんは訊いてきた。  「もちろん知ってますよ」と僕は答えた。カメのようにコツコツ努力しろ、と言いたいのだろうか?    「ウサギは何で途中で寝てしまったと思う?」  「カメが遅すぎて油断したからでしょ?」  「じゃあ、何でカメは諦めなかったと思う?」  「えっ?」  「カメはウサギと比べて遅いと気づいたら、その時点で途中で投げ出しても不思議じゃないのに。桜田君も上達の早い人と比べて、心が折れそうになったんでしょ?じゃあ、何でカメは諦めなかったと思う?」  「言われてみればそうですね。どうしてでしょう?」  「ウサギとカメは競走してたんだけど、ウサギはカメを見てたんだよ。だから差が着いたら油断し寝てしまった。しかしカメはウサギを見てなかった。カメは山の頂上のゴールを見ていた。だからカメは諦めずゴールを目指せたんだよ」  「なるほど」  「私は自分のことをカメだと思っている。周りのウサギは気にせずゴールを目指すだけだよ。ゴールは遠いのだからマイペースで進んでいくしかないよ」  その日は、小池さんと別れ、僕は家に帰った。  小池さんの話には感心した。これからもダンスの練習を続けられそうだ。僕も自分のことをカメだと思おう。一万時間のゴール。練習すればするほどゴールに確実に近づける。    僕は気になることがあった。  一万時間という時間がどれくらい長いのか?といこと。今、ダンススクール、二時間の練習を週二回。僕は計算する。  五十二年かかる。一万時間のゴールに到着するのに、五十二年もかかるじゃないかい。  僕は、小池さんの話に感心した自分が、間抜けだと思えた。  次のダンススクール、小池さんを見つけた僕は、すぐさま文句を言いに行った。  しかし、僕が文句を言う前に、小池さんのほうが僕に向かってマシンガンのように話し出した。  「桜田君。あった、あったよ。モチベーション上げる秘訣」  「えっ?」    「君、この間、私にモチベーションを上げる秘訣を訊いてきたじゃん。ずっと考えていたんだけど、一応、私にもモチベーションを上げる秘訣があったよ」  そういえば、前回そういう内容の話をしていたんだった。僕は五十二年のことを、小池さんに文句を言ってやろうと思っていたので、ついうっかり忘れていた。  「えーっと、それはどんな方法ですか?」と僕は一旦冷静になり、小池さんの秘訣とやらを訊いてみた。  「まあ、健康に気をつけることかな」  「健康ですか?」  「そう健康。特に私が気を付けてるのは睡眠時間かな?やっぱり体の調子が悪いと、モチベーション上がらないでしょ」    まあ確かに小池さんの言う通りかもしれない。当たり前だけど、見逃しやすいことだ。僕は感心した。  いやいやいや、ちょっと待て。僕は小池さんに文句を言いたかったのだ。   「小池さん、そんなことより、このあいだの一万時間のことですけど」  「うん、一万時間がどうしたの?」  「一万時間。二時間の練習を週二回だと五十二年かかるんですよ」  小池さんは僕の文句を聞いて爆笑した。  「あはははは。気づいたの?」  「笑い事じゃないですよ。僕、凄く感心して、カメのように、コツコツ、ダンスを続けようと思っていたんですよ。でも、よくよく計算すると、五十二年になるんですよ。僕、七十五歳になりますよ」  僕の話を聞いて、再び小池さんは爆笑した。  「まあまあ、そんなにムキにならないで」。笑い終えた小池さんは僕をなだめるように話し出した。「一万時間というのは、あくまでプロ並みの技術を習得するまでの時間だから。桜田君、今からプロを目指しているわけじゃないでしょ?」  「それはそうですけど」    僕は文句を言いきれず、すっきりしなかったが、ダンススクールの開始の時間が来てしまった。僕と小池さんの会話は、ここでストップされた。    ダンススクールの二時間の練習が終わる。  練習終了後、小池さんから声を掛けられた。  「桜田君、おつかれ。五十二年のうちの一日が終わったね」  そう言うと小池さんは笑った。    「桜田君、ちょっといい?」。笑っていた表情を一変させ、少し戸惑いながら小池さんは僕を呼んだ。  僕は少し警戒しながら、「どうしたんですか?」と訊き返した。  「明日のこの時間って暇?」  「暇ですけど」  「ちょっと私に付き合ってくれない?」    僕は少し考えていた。小池さんは怪しい勧誘をするタイプには見えないけど……。  「あっ、嫌なら遠慮せず断ってくれてもいいよ」と小池さんは言った。「一応、五十二年を短縮する方法があるから伝えたくて」  僕はOKした。  五十二年を短縮する方法を単に知りたかったし、小池さんは真面目だし、僕を騙すようなことはしないだろうと判断して。それに仕事以外の知り合いを作るもダンススクールに入った目的の一つだし。ここで断ると、もう二度と誘われないような気がした。    次の日、午後七時。集合場所は駅前。  僕は車で向かった。駅前の商店街の中にある駐車場に車を止めた。商店街を歩いていると、仕事帰りに飲み屋に寄るサラリーマンたちとすれ違う。  駅前に着くと、もうそこには小池さんは待っていた。  「お待たせしました」と僕は言う。  「いや、大丈夫だよ。時間通り」と小池さんは笑顔で言う。  「じゃあ、行こうか?」と言って、小池さんは歩きだす。  「どこへ行くのですか?」  「すぐそこの陸橋」  小池さんは駅の陸橋を指さす。  この駅は南口はすぐホームに続いているが、僕たちのいる北口は陸橋を渡ってホームに行かなくてはいけない。陸橋の下は線路が走っていて、この陸橋は割と長い距離がある。  陸橋に着くと小池さんは足を止めた。  「私はこの時間帯、だいたい一時間ほどダンスの練習をしてるんだ」  この陸橋は、ちゃんと屋根もあり、側面の壁はガラス張りになっている。よく見ると、そのガラスに僕たち二人の姿が映っている。どうやら日が暮れて外が暗くなると、ガラスが鏡のように反射するみたいだ。  「毎日?練習?」と僕は訊いた。  「そう」。小池さんはニタッて微笑む。「五十二年を短縮できるでしょ?」  そりゃそうだ。ダンススクール以外で練習してるんだから。当たり前すぎて、がっかりした。  それに、どうりで小池さんの服装がジャージなわけだ。  僕は素朴な疑問を訊ねた。  「こんな通路で踊って、恥ずかしくないですか?」    「最初は勇気がいったけど、今では平気だよ。それに顔は外側のガラスのほうに向いてるし、しかも通行人も誰も気に留めたりしないから、私のことなんて」  小池さんは喋りながら準備体操を始めた。僕は周りを見渡す。確かに通行人は僕たちのことなんて見てもない。スマホを見て歩いてる人や、急ぎ足で脇目も振らずスタスタ一直線に帰路に向かう人、そんな人ばかりだった。  「あっ、でも、もっと時間が過ぎれば、学生くらいの若者たちが、ここでダンスの練習しに来るよ。だから練習は一時間くらい。長くても二時間くらいにしてるよ。さすがに学生くらいの若者が隣で踊っていたら、いくら私でも気が引けるからね」  小池さんはダンスの練習を始めた。しかしダンスと言っても、踊るわけでなく、ダンスの基本の動きを反復した。それはダンススクールでも始めにやる準備運動みたいなものだ。  まずアイソレーション。一つの関節だけを思った通りに動かす。首なら首だけ、肩なら肩だけを単独に動かす。    次にウェーブ。アイソレーションで一つ一つの関節を順番に動かし、体を波のように動かす。  次はヒット。今度は関節ではなく、一つの筋肉だけを動かす。それは電気治療器を当てられたみたいに、一部の筋肉をピクピク動かす。  この基本の準備運動だけで三、四十分が過ぎた。途中から僕も参加した。ジャージではない私も、これくらいの準備運動はできた。  次はリズムを取るダンス。これも簡単な動きで、踊りの練習というより、リズムを取るための練習になる。  簡単な動きだけど、さすがに私服だと体を動かすのはきつくなる。僕はこの練習は見送る。  そして最後の十分間ほど、小池さんが好きでマスターしたいダンスの練習をした。  この練習のあと、小池さんは僕にあることを教えてくれた。  それは小池さんはマスターしたいダンスは三曲だということ。一つはさっき練習していたダンス。これは一昔前にCMで踊られていたダンスだ。よくダンスが得意な人たちが真似して動画サイトに流していた。  二つ目は、今はもう亡くなっているがアメリカのスーパースターの曲のダンス。誰もが見たことのあるダンスだ。  三つ目が、今流行りのKポップのダンスだった。  「私がこの三曲のダンスを完コピできるようになりたいんだ。三曲だけでいいからプロ並みに踊りたい。これだと一万時間も必要ないだろ。目標をどこに設定するかでも、五十二年は短縮できるよ。ちなみに私は、この三曲の完コピ、あと五年で出来るようにと目標にしている」    このときの小池さんの目は輝いていた。なにか僕のほうまでワクワクする気分が伝わって来た。  「ところで、ここで桜田君に提案があるんだけど」と小池さんは言う。  僕は「何ですか?」と訊くと、「君も一緒にここで練習してみないか?」と言われた。  小池さんがマスターしたい曲の練習は一旦休んで、発表会でやるDグループのダンスをここで一緒に練習しよう、と言ってきた。もちろん毎日参加する必要はない。来れる日は、ここに来て、一緒に練習をしよう、という提案だった。  僕は「一緒に練習しましょう」と承諾した。僕は、小池さんと自分のことを、コンビ・カメ、と陰で名乗ることにした。  この日から、僕は週二回ダンススクールの練習に加え、その他の日は小池さんと陸橋で練習する日々が続いた。練習は、基本動作と発表会でやるダンスを行った。    ダンススクールではDグループのみんなと集まって練習するのだけど、始めは僕のほうがなんとなく踊れていると思っていても、だんだん日にち進むにつれて、僕より未経験だったひとが僕を抜いて上手くなる。結局Dグループの中で取り残されてるのは、僕と小池さんの二人になっていた。僕は自分たちはカメだ、と思いながら頑張っていたが、それでも不安になる。なにせ、今回は期限がある。発表会までに踊れるようにならないといけないから。  陸橋での練習も基本動作の練習をする。  アイソレーション、ウェーブ、ヒット、リズムのためのダンス。その後に十五分ほどDグループでやるダンスの練習をする。  僕は小池さんにある提案をした。  「小池さん、ここでやる練習は発表会でやるダンスだけにしませんか?」  「なんで?」  「だって、僕たち二人、Dグループの中でも取り残されてるじゃないですか?」  「他の人のことを気にしても仕方ないって。自分のやれることだけをやるしかないよ」  「それは分かるんですが、今回のダンスは日にちがありますし。発表会の日までに間に合わせないと」  小池さんは少し考え込む。そして僕に質問をした。  「桜田君は、上手い人と僕たちの差は何だと思う?」  僕は考えて、自分の思ったことを言う。それは浅はかな答えなのだけど。  「やっぱりセンスですかね?」  「じゃあ、センスの違いにをもっと具体的に説明できる?」と再び質問が飛んでくる。  僕は考える。具体的と言われても……。僕は答えが出ず、「さあ、分かりません」と言った。  「私が思うセンスの違いというのは、力の抜き方だと思っている」と小池さんは答えた。  「力の抜き方?」  「そう。センスの良い人は力の抜き方が上手いだよ」と小池さんは言った。そして「これは武道家の師範から聞いたことなんだけど」と付け加えた。  僕は驚いた。「小池さん、武道を習ってるんですか?」と訊ねた。  「いや、ユーチューブでたまたま見た」と小池さんは冷静に答えた。  僕はユーチューブの情報かい、と心の中でツッコミを入れる。  小池さんは、そのユーチューブで見た武道家の説明を始めた。  武道で強ければ強い人ほど、力を抜き方が上手い。    筋肉というのは意識的に緊張させることは出来るけど、でも緩ませることは難しい。  例えば、腕を曲げるとき、曲げる筋肉は緊張させ、伸ばす筋肉は弛緩させる。これが一番効率が良い。でも腕を曲げようと(りき)んでしまと、曲げる筋肉だけでなく伸ばす筋肉も緊張する。これだと体はスムーズに動けなくなる。  強い武道家というのは、必要な場所だけ力を入れ、他の場所は力が抜けている。  意識すると筋肉に力が入る。じゃあ、どうすれば力を抜けるのか?それは無意識の領域。  武道家は何度も型を繰り返すことで、意識せずとも技を出せるようになる。意識せずとも体が勝手に動く。これが力が抜けてる状態。それができるのが強い武道家。  「じゃあ、僕たちより遅くダンススクールに入会した人たちが、なぜ力を抜くのが上手なのですか?」   僕は質問した。  「桜田君、君は学生時代に何かスポーツしていた?」  「いいえ」  「私もだよ、どちらかと言えば運動音痴で体育も苦手だった」  「僕もです」  「きっと彼らは学生時代に何かスポーツをしていたんだよ。それがダンスじゃなくても。きっと力の抜くコツを体が覚えているんだよ」  僕は納得した。後から入会した人は、センスがいい、という理由だけでなく、もともとよく体を使って動いていたのだ。だから僕たちは抜かされる。  「練習していれば、いずれ僕たちも力が抜けますかね?」  僕は再び小池さんに質問した。  「桜田君、そんなことは考えない方がいい」  「どうしてですか?」  「力を抜くのは無意識の領域だから。私たちが考えての仕方ない。私たちが出来ることと言えば、練習をやると決めるだけ。意志決定だけだよ」    小池さんは続けて、「それにしても体って凄いと思わないか?」と僕に向かって言った。  「どうしてですか?」と僕は返した。  「君は生卵を黄身を崩さず割ることが出来るか?」  「はい」  「じゃあ、鉛筆の芯を折らずに字を書くことは?」  「そんなの出来て当たり前ですよ」  「じゃあ、君はそれらの作業で、どこの筋肉にどれだけの力を入れるか?なんて考えながらしているか?」  「そんなの考えなくてもできますよ」  僕は自分の言葉でハッとした。これが無意識の領域で体を動かすということか、と理解した。  「考えなくてもできる。私たちの日常のほとんどの動きは無意識の領域。慣れた行動は、まるで自動運転だ。だからダンスもできるようになるかなんて不安にならず、体を信じてあげなさい。無意識を頼りなさい。もう一度言うけど、私たちがやれることは意思決定だけだ」  それから僕は上手くできなくても、なるべく文句を言わなくなった。僕ができることは繰り返し練習をやる、という意志。あとは自分の体を信じ、自分の無意識の領域を頼る。  練習を重ねていくうち、出来ることが増えていく。コツを掴む瞬間、僕のモチベーションが上がった。  しかし、そんな日ばかり続くわけでもなかった。  昨日出来たことが、今日は出来ない、そんな日もあった。一歩進んだと思っても、一歩後退してしまう。いくらカメでも、ゆっくり前へ進む。僕なんて後ろに下がっている。発表会も一か月後に迫っていたので焦りも出ていたのかもしれない。悔しくて、「くそー」とぼやいてしまった。  「昨日は出来ていたのに、なんで今日できなくなるんだ?」と僕は独り言のようにつぶやく。  「それ、チャンスじゃん」と小池さんが唐突に言う。  「はぁ?」。僕は反感を持つ。出来たことが出来なくなっているのに、何がチャンスなの?馬鹿にされてる気分になる。  「桜田君は記憶力良いほう?」  「まあ、普通ですかね」  「これはカリスマ英語講師から聞いたことなんだけど」  「えっ、小池さん、英語習ってるんですか?」  「いや、ユーチューブで」と小池さんは平然と答える。  僕は、ああ、またユーチューブの話ね、と呆れた。  「記憶っていうのは、繰り返すことで記憶を強化するんだ」  「まあ、勉強とかそうですよね」  「しかも、憶えていることを繰り返すより、一回忘れてしまったことを思い出すほうが、より記憶の強化につながるんだって。『あ、そういえばそうだった』となるときが、より記憶に留まりやすい」  「だから、チャンスなんですか?」  「そういうこと。頭の記憶だけでなく、体の記憶も一緒だと思う。一度できたことができなくなったとき、諦めたい気持ちになるのも分かる。でも、もう一回できるようになれば、より記憶は強くなると思えば、もうひと踏ん張りしようと思えない?」  「う~ん?」。僕は返答を保留した。出来たことが出来なくなる。そんなときの悔しい気持ちを回復させるのは、そう単純ではないと思ったから。  「諦める?」と小池さんは僕に訊ねる  それを言われると困る。「まあ、やりますけど」と僕は投げやりに答えた。  「でも、不思議に思わない?」  「何がですか?」  「記憶。だって自分の脳みそなんだから、憶えたいことを憶えれるようになればいいのに。くだらないことは憶えているのに、大切なことを忘れるなんて、しょっちゅうあるよ」  「僕もそんなものですよ」  「記憶なんて自分では操作できないこと。無意識の領域。結局、私たちに出来るのは、憶えようとするかしないかだけ。意志決定だけだね」    僕は、またそれですか、と心の中でツッコミを入れていた。  発表会、三週間前。Dグループの中の一人がダンススクールを止めた。まだ入会して間もないのに上達は早かったのに。  「岩崎君、止めましたね」と僕は小池さんに言った。  「ああ、そうだね」  小池さんは、あまり興味のなさそうだった。  「やはり、ウサギでしたね」  「ウサギ?なにそれ?」  小池さんは僕に話してくれたウサギとカメの話を忘れていた。  「僕に教えてくれたウサギとカメの話ですよ」と言うと、「ああ、そのことね」と小池さんは理解してくれた。  「やはりカメが勝つんですね」と僕は勝ち誇って言った。  小池さんは返事もせず考え込んだ。しばらくして「私は止めたことが負けだとは思わないよ」と小池さんは答えた。    「桜田君は、もし止めるときは、どういう状況になったら止める?」  僕はしばらく考える。「やはり、なかなか上手くならなかったり、つまらなくなったときだと思います」  「実は私はダンスを始めるとき、ダンスを止める理由を決めてたんだ」  「ダンスを止める理由?始めるときに、止める理由を考えていたってこと?」    「そう、こういう状況になったときはダンスを止めよう、と決めてダンスを始めた。まず一つは、自分の踊りたいダンスを自分が満足できるくらいに踊れた時。もう一つは、ダンスより楽しいこと、やりたいことが見つかったとき」  「変な話ですね。止める理由を決めるなんて」  「上手にならないというのは、私にとって止める理由にならないけどね。だけど止める理由は人それぞれだよ。岩崎君がどういう理由で止めたのかは分からないけど、ウサギではないかもしれないし。そんなことで勝ち誇らなくてもいいじゃないかな。カメはカメらしく、目標に向かって一歩一歩いけばいいんだよ」  僕は小池さんにたしなめられたのであった。  発表会、二週間前。  ようやく僕たちカメは、始めから終わりまで一応一通り踊ることが出来た。そして、より課題がはっきりした。僕は体の使い方が悪い。小池さんはリズム感が悪い。  僕たちはラストスパートということで、自主練の始める時間を早くし、より長く練習することにした。  僕はいつもの商店街の駐車場に車を止めた。小池さんと約束していた時間より早く着いたため、僕は商店街をブラブラ歩くことにした。  いつもなら商店街の飲み屋にサラリーマンが多くいるが、まだ時間も早いだけあって、ほとんど人もおらず閑散としていた。  商店街をしばらく歩いたが、行きたいお店も特になかった。少し時間は早いが、いつもの陸橋に向かおうとした。  そのとき微かにピアノの音がした。そういえば、この商店街にはストリートピアノ用にピアノが設置されていた。僕は暇な時間を持て余していたので、そのピアノの音のほうに歩いて向かった。ストリートピアノの演奏を覗いてみようと思った。  演奏しているピアノの周りには誰もいなかった。みんな買い物に忙しいからなのか、素通りしていた。決して演奏は下手ではなかった。クラシックだったから興味がないのかもしれない。僕も曲名までは知らないけど、聴いたことある曲だった。  ピアノの演奏は三曲ほど続いた。そしてピアノを弾き終わった演奏者が立った。僕は驚いた。小池さんだった。    周りに観客なんていなかったので、僕もなるべく目立たないように、演奏者の真後ろに立っていた。顔が見えなかったので、まさか小池さんだとは思わなかった。  「小池さんじゃないですか?」  「さ・桜田君」  小池さんは僕に見つかり気まずそうな顔を見せた。  「小池さん、ピアノ弾けるんですか?」  「ああ、少しだけね」  小池さんはピアノを弾けるを僕に教えてくれた。  小池さんには娘さんがいて、その娘さんはピアノを習っていた。そんな娘さんと連弾がしたくなってピアノを独学でやりだしたという。でも結局、娘さんはピアノが嫌になり止め、連弾の夢は儚く散った。しかし小池さんはピアノを続け、今では娘さんが難しくて弾けなかった曲を三曲マスターした。  「小池さん、娘さんがいるんですね」  僕たちは、私生活の話はほとんどしてなかった。結婚してお子さんがいることは知っていたけど、娘さんだとはしらなかった。「いくつになるんですか?」と僕はなんとなく訊いた。    「今、中三」  「中、中三?」  「うん」  「娘さん、そんな大きいんですか?小池さん、今いくつですか?」    「四十二」  「えー」  僕はこのときまで、小池さんの年齢を知らなかった。見た目には三十代の中頃だと思っていたので、四十過ぎていることに驚いた。  「じゃあ、娘さんがダンスしているから小池さんもダンス始めたんですか?」  「いいや。娘はダンスしてないよ」  「ダンスはどうして始めたんですか?」  「ユーチューブ」  また、あなたはユーチューブですか、と心の中でつぶやいた。でも、ユーチューブでダンス?どういうことだろう?僕は訊ねた。  「ユーチューブを見てたらダンスしたくなったんですか?」  「そうそう。初めはダイエットしようと思ってダイエット関係のユーチューブを見まくっていたの。すると次第に、ダンス関係の動画がトップ画面に出だしたの。あれって、自分の興味があることがトップ画面にくるんだろ?」  「まあ、小池さんがクリックした動画からAIが判断してるみたいですね」  「ユーチューブって、私より私のことを一番理解してるよね」  そう言うと小池さんは笑った。  小池さんは笑ったあと、今度は僕に質問してきた。  「ところで桜田君は、どうしてダンス始めようと思ったの?」    僕は少し悩む。本当のことを言うべきかどうか?僕は恥ずかしかったけど、ダンスをやった動機を小池さんに言った。  「学生のころに学園祭でダンスした奴がいて……」  「それ見て、憧れちゃったの?」  「違います。ダンスしてた奴が、僕と好きな人と付き合っていて……。それがなんか悔しかったっていうか……」  小池さんは、僕の話を聞いて笑う。  そして笑いながら僕に伝える。  「いいね、それ。過去の自分の仇を討つ」。小池さんは何回か僕の肩を叩く。「分かるよ、その気持ち。私もダイエットがそうだったもん。始めるきっかけは娘に好かれたいからだけど、私は小学校のときからぽっちゃりで、何回もダイエットしていたけど、いつも失敗に終わっていた。でも今回のダイエットは、過去にダイエットに失敗した自分の仇を討つ気持ちで行ったからね」  小池さんはしばらく笑っていた。しかし何かを思い出したように、ハッとした表情をした。  「桜田君、分かった。私にもあったよ」  「えっ、何があったんですか?」  「モチベーション。ピアノの練習でもダンスの練習でも楽しいと思えないし、モチベーションも上がらないけど、でも過去の自分を越えれると思うとモチベーションが上がるよ」  その日の二人の練習は、二時間以上みっちり練習をした。  二人とも、「過去の自分の仇を討とう」と言って励ましながら練習をした。  発表会、一週間前。  僕は階段で足を踏み外し捻挫した。外くるぶしは腫れあがり、体重をかけること激痛が走った。病院に行き診断してもらうと、全治三週間と言われた。もちろん一週間後の発表会は、止めなさい、と医師に指示され、僕の足首は金具入りのサポーターで固定された。  サポーターで固定されると、痛みも和らいだ。なんとか歩ける。僕はその足で、陸橋に向かった。  「どうした?桜田君」  僕を見た小池さんは驚いた。  「階段で捻って、足首捻挫しちゃいまして。すいません。発表会、出れなそうです」  「えっ、それを伝えに来てくれたの?わざわざいいのに。ゆっくり休みなよ」  「最後まで一緒に練習したくて」  僕はダンスの練習は無理だけど、どうしても参加したかった。    僕は小池さんの練習をそばで見ていた。  小池さんはいつものように準備運動にし、続けてアイソレーション、ウェーブ、ヒットをする。そしてリズムを取るダンスをし、Dグループのダンスをする。  外から見ると、小池さんの動きがよく見えた。  アイソレーション、ウェーブ、ヒット、リズムを取るダンス、これらの基本運動は完ぺきにこなしている。しかしDグループのダンスのときだけ、動きがぎこちなくなり、リズム感が悪くなる。  でも、外から見ていた僕だから、小池さんの欠点の理由を分析することができた。  「小池さん、ガラスに映る自分の姿を見て踊るの止めませんか?」  「えっ、なんで?自分の体の動きを確認しなければ、綺麗に踊れないだろ?」  「でも、そうやって確認しながら踊るから、リズムがズレてしまってますよ」  「リズム感が悪いのは元からだよ」  「でも、ピアノは上手に弾けるじゃないですか?リズム感が無いわけではないと思いますよ」  「あれは完コピだし」  「まあ、一回騙されたと思って、ガラスのほうを見ないで踊ってください。体の動きは僕がチェックしておきますから」  「無駄だと思うけどな」  「それと……」  「まだ何かあるの?」  「もっと考えずに踊りましょう。小池さんも言っていたじゃないですか?意識すると(りき)んでしまうって。無意識の領域に任せましょう」  「う~ん?」  小池さんは半信半疑の表情を浮かべていたが、僕が半ば強引にDグループのダンスを踊らせた。そのとき、僕は小池さんに気づかれないよう、スマホのカメラで撮影しいてた。  「これ見てください」  ダンスが終わると、僕は撮影したばかりの小池さんの動画を小池さん本人に見せた。    「いつの間に撮ってたの?」と小池さんは驚いていた。でもさらに驚いていたのは、自分のダンスを見ている最中だった。動画を見終わると、「なんか、いい感じだね」と小池さんは嬉しそうに微笑み言った。  この日の練習が終わると、小池さんは僕にあることを打ち明けた。  「実は私は、去年の発表会、出てないんだ」  「そうなんですか?」  小池さんは、ダンススクールに通って、ほぼ二年。確かに去年の発表会のときも、ダンススクールにいたはず。僕は「どうして出なかったんですか?」と訊ねた。  「逃げたんだ」  「逃げた?」  「私は人前で失敗するのが怖くて、発表会の当日、風邪をひいたと嘘を言って休んだんだ」    僕は小池さんの告白に何も言えなかった。慰めていいのか、励ませばいいのか、よく分からない。重い話は苦手だ。  「だから今年の発表会は、去年の自分の仇を討つ。だから桜田君も来年は、今の自分の仇を討ってばいい」  やはり僕は返事が出来なかった。  「そのときは、僕が君の助けれるくらいになるよ」  小池さんは、たぶん僕に、次の一年間も一緒に頑張ろう、と言いたいのだろうと理解した。  発表会当日、もうすぐDグループが踊る時間になる。    会場はわりとしっかりしたコンサートホール。素人が踊るにしては贅沢なほどだ。ステージは綺麗で照明の演出もプロのものと遜色ない。しかし客席はまばら。きっと発表会に出る人の知り合いくらいしか集まってないのだろう。  ちなみに、この発表会は、三つのダンススクールが合同で発表する。だから優勝したグループのスクールは、来年のトリを任せられることになっている。我らのスクールは、去年、優勝したグループを出し、今年のトリを獲得した。  だからDグループの前にも、よそのスクールの生徒が二組ほど踊った。  とうとうDグループのダンスの番になった。  僕は自分は出ないのに、心臓が早く動き、手のひらにはじんわりと汗をかいた。応援している人を見るのも、結構緊張するんだな、と感じた。  Dグループがステージの上に立つ。ライトが当たり、ステージ上のみんなの表情がはっきりとわかる。僕は小池さんを見つけた。小池さんの笑顔が引きつっていた。  音楽が鳴り、ダンスが始まった。  ヒップホップの躍動的なダンスの中、小池さんだけがまるでロボットダンスを踊っているかの如くガチガチなダンスだった。  観客の人たちは、手拍子や掛け声を入れ、ダンスのムードを盛り上げていた。中にはダンスをしている人の名前を呼んで、その人を活気づけていた。  僕も小池さんの名前を呼びたかった。でも恥ずかしくて叫べない。陰キャの宿命だ。  ダンスも終盤に差し掛かると、小池さんのダンスは壊れかけのロボットダンスだ。周りと合わせようとしすぎて、ダンスを止めては周りをキョロキョロ。もう完全に悪目立ちしていた。  僕は居ても立っても居られなくなった。  「小池。僕たちはカメだ。周りは気にするな」  僕は大声で叫んでいた。  僕の声で小池さんの動きが止まった。小池さんは僕のほうを見た。ステージと観客席の僕とは距離があったけど、ちゃんと目が合い、お互いにお互いを確認できたような気がした。    それから小池さんのダンスは変わった。表情も変わった。  誰よりも大きなダンスをし、誰よりも笑顔で踊っていた。すごく楽しそうで、こちらも踊りたくなるような良いダンスだった。    Dグループのダンスが終わると、観客席から拍手が起こる。僕も手が痛くなるくらい拍手をした。  発表会のすべての進行が終わると、僕らのダンススクールは打ち上げをした。AからDグループをみんな一緒で居酒屋に行った。  僕は小池さんと隣同士で二人で乾杯した。  小池さんはすぐに酔っぱらった。そして僕にくだを巻く。    「悔しい、悔しい。もっと上手く踊れたはず。悔しいなぁ」と言っていた。だけど表情は充実感に溢れていた。そして、小池さんは僕のコップにビールを注ぎ「来年の発表会の成功を祈って乾杯だ」と言った。  僕は、なに気の早いこと言ってんだろう、と思ったけど、小池さんの楽しそうな雰囲気に当てられ、一緒に乾杯することにした。  そのとき僕は気づいた。  モチベーションなんて必要ない。ただ楽しめばいいのだ、ということに。   ******** 人生を楽しんでいる人は、失敗者ではない。 ウィリアム・フォークナー(米:小説家)
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