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中央改札口を出て、なるべくひとけのない場所を彼は懸命に探してくれた。西武百貨店の入り口からやや離れた壁に背を預け、二人は並んでしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
彼が背中をさすってくれる。ちょっと時間はかかったけれど、彼のおかげで深海の映像は消えてなくなり、正常な呼吸のリズムを取り戻すことができた。
絢斗の調子が落ちつくと、青年は自販機へと走り、ドリンクを二つ買って戻ってきた。
今になって気づいたが、彼は背中に黒いギターケースを背負っていた。白いカットソーの上に黒いマウンテンパーカーを羽織り、下も黒のスキニーパンツ。足もとは黒いスニーカーと、どこまでもオシャレだ。バンドマンなのかもしれない。
「どっちがいい?」
右手にペットボトルのミネラルウォーター、左手にミルクティーの缶が握られている。なんだか真逆の選択肢だなぁ、と絢斗はひそかに思いつつ、ミルクティーの缶を指さした。
はい、と手渡された缶はあたたかかった。ホットミルクティー。十月にしては暑い午後だったけれど、甘いものは好物なので嬉しい。
青年は手もとに残ったミネラルウォーターの封を切り、ぐびぐびと豪快に喉の奥へと流し込んだ。たったそれだけの仕草がかっこよくて、ついじっと見つめてしまう。
吸い込まれるように、絢斗はすっかり青年の横顔に見入っていた。だから、不意に視線を投げられた時、その場で飛び上がりそうになった。
「飲まないの?」
ドキッとして、絢斗は慌てて缶のプルタブに指をかけた。手が震える。缶が思いのほか熱くて、とっさに指を引っ込めた。
「ごめん、熱かった?」
青年は絢斗の手からするりと缶を抜き取った。彼の指先がかすめていった部分が軽く痺れる。さっきから心臓が跳ねっぱなしだ。乱れた呼吸は落ちついたはずなのに。
「はい、どうぞ」
代わりにふたを開け、もう一度手渡してくれた缶を受け取る前に、絢斗はやるべきことをした。緊張してあちこち震えているけれど、彼にきちんと伝えたいことがあった。
右手の小指側の側面を、手のひらを下に向けた左手の甲に軽く当て、そのまま右手を顔の前まで持ち上げる。
〈ありがとうございます〉
感謝を伝える時に使う、手話だ。軽く頭を下げながら、絢斗は優しい青年にジェスチャーでお礼を言った。
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