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 志の唇が、絢斗の唇と重なった。  静寂に支配される。呼吸とからだの自由を奪われ、絢斗は目を見開いた。  どのくらいの間、そうしていただろう。やがて志は、ゆっくりと絢斗から離れた。 「もしかして、って、ずっと思ってたんだけど」  鼻先が触れ合いそうな距離のまま、志は(うれ)いを帯びた目をして絢斗に尋ねた。 「絢斗が声を出せないのって、声帯を失ったせいで物理的に出すことができないとか、そういう理由じゃないんだよな? 本当は出せるけど、気持ちが追いつかなくて出せない。そうだろ?」  認めるように、絢斗は静かに目を閉じた。  病気の治療などのために一部でも声帯を切り取ってしまえば、通常の発声は困難になる。だが絢斗の場合、声帯は今でも喉に残ったままだ。  志の見立てどおりだった。絢斗が声を出せないのは、メンタル面に原因があった。  絢斗は声と言葉に関するある問題をかかえていて、それを理由にクラスメイトから(しいた)げられた過去があった。その時の記憶が脳裏にこびりついて離れず、いつしか声を出すこと、のちには言葉を発しようとして口を動かすことさえもできなくなってしまった。  それから十二年。  絢斗はたったの一言も、言葉を声にして誰かに伝えたことはない。心を許せるはずの家族の前でさえ、しゃべることができなかった。 「無理しなくていい」  うつむいた絢斗の頭に、志はそっと右手を載せた。 「俺に伝えたいことがあるのはわかった。それで十分だよ」  絢斗は首を横に振る。十分なわけがない。絢斗の気持ちはきっと半分も伝わっていない。  すがるように志を見上げる。今度は志が首を横に振った。 「俺、イヤだから。絢斗にそんな顔をさせたくて、あの詩を曲にしたわけじゃない」  ハッとした。志の両腕が、絢斗を優しく抱き寄せた。 「見たくないんだよ、そんなつらそうな顔をするところ。絢斗が好きだって言ってくれたから、俺は歌おうって思ったんだ。喜んでもらいたくて。絢斗に笑顔になってほしくて」  志の腕に力が入る。「絢斗」と志が耳もとでささやいた。 「嬉しかった。俺の歌を、好きだって言ってもらえて。絢斗のために歌いたい。他の誰でもない、おまえのために。そう思った」  だから、と志は続け、絢斗の頭に右手を添えた。 「俺の歌がいいと思ったら、笑って。それで十分だから。言葉にして伝えてくれなくていい。おまえが笑ってくれたら、俺、幸せだから」  絢斗からそっと離れ、志はまっすぐに絢斗と目を合わせて告げた。 「俺、絢斗の笑顔が好き。絢斗の笑った顔、そばでずっと見ていたい」  そう言った志も、照れたように笑っていた。
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