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振り返ると、見知らぬ男が絢斗を睨みつけていた。黒いロングコートとさらさらの黒い短髪がいいところのお坊ちゃまを思わせる、育ちのよさそうな青年だった。
「あんたがアヤト? 志兄と曲作ってる」
志兄。志のことか。
突然のことに動揺し、絢斗はうなずくことなく生唾を飲み込んだ。男はあからさまに不機嫌な顔をして、コートに両手を突っ込んだ。
「ちょっとさ、おれに時間ちょうだいよ。二人きりで話せるとこ、案内して」
不躾な態度だった。名乗りもせず、上からの物言い。
だが、断れる雰囲気ではないことは確かだった。逃げ出せば容赦なく追いかけてくるだろうし、大声で叫ばれたりするかもしれない。ここはおとなしく、彼の要求をのんでおくのがよさそうだと判断した。
絢斗は男を連れ、正門を入ってすぐのところにあるちょっとした庭園のような一角を訪れた。テニスコート一面分くらいのスペースに、花壇と通路、ベンチ、噴水が造られていて、その奥には大学図書館があった。
男にベンチを勧めたが、男は立ったまま絢斗と向き合い、口を開いた。
「あんた、志兄のピアノ、聴いたことないだろ」
唐突な質問だった。絢斗が答える前に男は続ける。
「ないよな。ないに決まってる。志兄のピアノを知ってるなら、あんな真似、あの人にさせられるはずがない」
あんな真似?
とっさには理解できなかったが、次第に状況が飲み込めてくる。
絢斗と志の接点といえば『Yuki1092』、すなわち、志の歌だ。男の言う「あんな真似」とは、志がYuki1092名義で歌手デビューしたことであるらしい。ピアノがどうとかと口にするところから推察するに、この男は志と同じ音大にかよう大学生のようだ。
「ズバリ、言うよ」
名乗るつもりはないらしい男は、絢斗に一歩詰め寄り、鋭い視線で絢斗を上から見下ろした。
「志兄を返せ、このクソ野郎」
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