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「あの人からピアノを奪うな」
男が地鳴りように低くした声で言う。
「志兄のピアノは、日本音楽界の宝だ。あんたみたいな音楽の『お』の字も知らないような人間に、あの人の才能と未来をつぶす権利はない!」
まくしたてるように言葉を吐かれ、絢斗は軽い眩暈を覚えた。
全身が震える。からだの芯から冷えていく。
日本のクラシック界に必要なピアニスト。
志のピアノは、日本音楽界の宝――。
男がもう一度、絢斗の胸ぐらを掴み上げた。
「消えて。志兄の前から。あんたの存在に、これ以上志兄が惑わされないように。歌なんかに現を抜かしている場合じゃないってこと、あの人にきちんとわからせてやらなくちゃいけないからさ」
冷ややかで、否定を許さない語気を孕んだ口調だった。しかし、最後の一言は、穏やかな絢斗の腹を珍しく煮えたぎらせた。
――歌なんか?
志は言った。ピアノよりも、歌うことが好きなのだと。
それを、歌『なんか』なんて。
志さんにとって、歌は未来への道しるべなのに――。
無意識のうちに、絢斗は両手で男の襟首を掴んでいた。生まれてこの方、こんなにも暴力的になったことは一度もなかった。
「なんだよ」
小刻みに震える絢斗の手を、男はいとも簡単に振り払った。手首を掴んできた彼の指は、志のそれとよく似ていた。
志と同じ、ピアニストの指。
重みのある鍵盤をたたくために必要な、しなやかな筋肉のついた指。
「あんた、志兄の人生を台無しにしたいの? うまくいくわけないだろ、素人が歌手の真似事をしてる程度のお遊びが」
頭をガツンと殴られたような衝撃が全身を駆ける。猛烈な吐き気が込み上げてきた。
志の人生。
ピアニストとしての成功を約束された、明るい未来。目の前にまっすぐ伸びた道。
その道を塞ぐように、僕は志さんの前に立ったというのか――。
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