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 ――バカか、僕は。  こんなにもすごい演奏のできる人が、世界的な評価を受けている人が、ピアノ以外の道に進もうとするなんてことがあるはずないのに。  ほんの少し、脇道に逸れてみたくなっただけだ。ただの気まぐれ。ピアノよりも歌が好きだと言った言葉も、どこまで信じていいのかわからない。  今は、歌うことが楽しい。今は、自分たちで作った曲を歌うことにハマっている。そう解釈するべきなのだろう。  本当は、ピアニストの道を進むことが決まっている。絢斗の詩を歌にしてくれたのは、ちょっとした好奇心に過ぎなかった。そうに違いない。そう思うことでしか、心の整理がつきそうになかった。  絢斗は泣いた。机に突っ伏し、ただひたすら涙を流した。  愚かだった。もっと早く、願うだけでなく、志について積極的に知ろうとしていれば。  ショックだった。絢斗と出会っていなければ、あるいは出会ってしまったとしても、絢斗が詩を書いていることを彼が悟らなければ、彼がピアノをやめるなんてバカげたことを言い出すこともなかったのだ。  自分を責めることしかできなかった。大学で会ったあの音大生に言われたとおり、絢斗はただ、志を惑わせてしまっただけだ。進むべき道を見誤らせた。 志はピアノをやめてはいけない。彼のピアノを待っている人が大勢いる。  ――じゃあ、あの人の歌は?  彼の音楽はピアノだけじゃない。多くの人が評価したのは、歌も同じだったはずだ。  頭の中がこんがらがった。耳にこびりついて離れない鮮烈なピアノ演奏と、大好きな甘く力強い歌声が、ぐちゃぐちゃに入り乱れて脳内を流れる。  ショパンの旋律と、絢斗の書いた『The light fall』を歌う志の声。どんどん大きくなっていくのは後者だった。  どんな歌声よりも好きで、他のなににも代えがたい宝物。忘れることなんてできない、はじめて彼の歌を聴かせてもらった時の記憶。  絢斗が想いを込めて綴った詩を、志は歌にしてくれた。  嬉しかった。忘れたくない。  離れたくない。  でも――。  机の上で、スマートフォンが振動した。志からのメッセージが届いた。 〈今どこ?〉  いつの間にか、待ち合わせ時刻の午後五時を過ぎていた。志はもう現地にいて、絢斗の到着を待っているようだ。  返事をすることができなかった。なんと返せばいい?  あなたは歌手じゃなく、ピアニストになるんでしょう――?  ()れた志が、今度は電話をかけてきた。  出なかった。頭がぼーっとする。  一度切れた電話が再び鳴った。三度、四度と、志は絢斗が応答するまで何度でもかけるつもりらしい。  頭が痛い。徐々に意識が遠のいていく。  高波にからだを(さら)われた。息ができない。  苦しい。すぐ目の前に死が迫り、視界がブラックアウトする。  椅子から床へと転がり落ち、絢斗は意識を失った。  右手からすべり落ちたスマートフォンは、画面に〈着信 渡久地志〉と表示して、けたたましい音をいつまでも鳴らし続けていた。
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