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 絢斗は緊張気味にミルクティーの缶を足もとに置き、バッグの中からA5サイズのリングノートとシャープペンを取り出した。ノートは二冊持っていて、今手にしているのは筆談をするときに使う青いノートだ。  スマートフォンのメモ帳アプリを使ってもいいのだが、相手を待たせていると思うといつも焦って、打ち間違いや誤変換が増えてしまう。文具を持ち歩く手間をかけてまで筆談をするのは、結局は早く、正確に気持ちを伝えることができるからだ。  絢斗がノートに文字を書き始めると、彼の視線も自然と絢斗の手もとに注がれた。  なるべく早く、その上で読みやすく、絢斗は伝えたいことを端的に書き記し、彼に見せた。 〈助けてくれてありがとうございました。パニック障害をかかえていて、発作が起きてしまいました〉  原因はよくわからない。けれど絢斗は今日のように、突然息苦しさや眩暈(めまい)に襲われ、このまま死んでしまうのではないかと不安になるほどひどいパニック状態に(おちい)ってしまう。誰かに助けてもらわなくてもいつの間にか治まっていたりするのだが、彼に声をかけてもらったときには心の底から嬉しかった。男らしさよりも、透明感があって繊細な印象を受ける彼のテノールボイスは、荒波にのまれた絢斗の心を落ちつかせるのにとてもよく効く薬だった。耳に優しく、リラックスできる声だった。 「そうだったんだ」  彼は深くうなずいて、「大変だったな」と絢斗の背中をさすってくれた。 「もう大丈夫? 顔色はよくなったみたいだけど」  絢斗はこくりとうなずいた。右手で左肩に触れ、そのまま胸の前でスライドさせて右肩まで持っていく。〈大丈夫〉の手話だ。たぶん彼はよくわかっていなかっただろうけれど、首を縦に振ってくれた。優しい人だ。
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