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目を閉じる。
答える前に、志に訊きたいことが山ほどあった。
彼自身は、進路についてどう考えているのか。これまで絢斗と過ごしてきた時間は、どこまでが本当で、どこからが虚構だったのか。
呼吸が次第に浅くなる。なにもかもが儚い夢、現実ではない世界の中で起きていたことのように思えてきた。
頭の中がまたこんがらがり始めているのが自分でもわかり、絢斗は志のスマートフォンを握ったまま胸に当て、顔をしかめた。上手に息ができない。
「絢斗」
志の右手が、大きく上下に揺れ始めた絢斗の左肩に触れる。絢斗はそれを払いのけた。
優しくされたくなかった。彼の優しさに甘えれば、また彼の人生を狂わせることになってしまう。
そう考えている時点で、答えは出ているも同然だった。神が導いてくれる明るい未来が待っている志を、絢斗という脇道に逸らせてはいけない。
まぶたを上げ、絢斗は志のスマートフォンに文字を打ち込んだ。短く、一言で伝わる言葉を選んだ。
〈世界一のピアニストになってください〉
これで、終わりだ。志と見た短い夢と、幸せだった時間の終わり。
液晶画面を志に見せ、絢斗は精いっぱいの笑みを浮かべた。最後くらい、笑っていたいと思った。
笑顔の絢斗が好きなのだと、志は言ってくれたから。
「そう」
絢斗の手からスマートフォンを抜き取り、志は深くうなずいた。
「わかった」
志から返ってきたのは、たったそれだけの言葉だった。音もなく、絢斗に背を向けて歩き出す。
一歩、また一歩と遠ざかっていく志の背中を、追いかけたくてたまらなかった。今にも踏み出してしまいそうになる足を、絢斗は必死になって押さえつける。
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