8.

4/5

174人が本棚に入れています
本棚に追加
/76ページ
 目を閉じる。  答える前に、志に訊きたいことが山ほどあった。  彼自身は、進路についてどう考えているのか。これまで絢斗と過ごしてきた時間は、どこまでが本当で、どこからが虚構だったのか。  呼吸が次第に浅くなる。なにもかもが儚い夢、現実ではない世界の中で起きていたことのように思えてきた。  頭の中がまたこんがらがり始めているのが自分でもわかり、絢斗は志のスマートフォンを握ったまま胸に当て、顔をしかめた。上手に息ができない。 「絢斗」  志の右手が、大きく上下に揺れ始めた絢斗の左肩に触れる。絢斗はそれを払いのけた。  優しくされたくなかった。彼の優しさに甘えれば、また彼の人生を狂わせることになってしまう。  そう考えている時点で、答えは出ているも同然だった。神が導いてくれる明るい未来が待っている志を、絢斗という脇道に逸らせてはいけない。  まぶたを上げ、絢斗は志のスマートフォンに文字を打ち込んだ。短く、一言で伝わる言葉を選んだ。 〈世界一のピアニストになってください〉  これで、終わりだ。志と見た短い夢と、幸せだった時間の終わり。  液晶画面を志に見せ、絢斗は精いっぱいの笑みを浮かべた。最後くらい、笑っていたいと思った。  笑顔の絢斗が好きなのだと、志は言ってくれたから。 「そう」  絢斗の手からスマートフォンを抜き取り、志は深くうなずいた。 「わかった」  志から返ってきたのは、たったそれだけの言葉だった。音もなく、絢斗に背を向けて歩き出す。  一歩、また一歩と遠ざかっていく志の背中を、追いかけたくてたまらなかった。今にも踏み出してしまいそうになる足を、絢斗は必死になって押さえつける。
/76ページ

最初のコメントを投稿しよう!

174人が本棚に入れています
本棚に追加