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「あぁ、そうだ」  不意に、志が足を止めて振り返った。コートのポケットから引き抜いた右手に握られているスマートフォンを、顔の高さで軽く振る。 「おまえが書いた詩のデータ、消してほしければ消すけど、どうする?」  彼のスマートフォンの中には、絢斗が赤いノートに書き溜めてきた詩をデータ化したものが保存されている。全部志にあげると言った日に、絢斗は本当に志にすべてを預けた。  絢斗はなんのリアクションもしなかった。志の自由にしてもらってかまわない。所詮は素人のお遊びで書いたものだ。残しておいてもいいことなんてないし、それに、詩ならまた新しいものを書けばいい。 「だんまりかよ」  答えずにいる絢斗に、志は怒気を孕んだ声で言った。 「どうでもいいってことね、俺のことなんて」 「……っ」  無意識に一歩踏み出し、一瞬、声が漏れかけた。  志の表情がかすかに変わる。絢斗は息継ぎに失敗して()せた。  違う。そんなわけがない。  志さんのことをどうでもいいなんて思ったことは、僕、一度も――。  そう伝えたかったのに、声は出ず、乾いた咳ばかりが(くう)を切る。いつもの志なら背中をさすってくれただろうけれど、今はただ黙ったまま、絢斗の呼吸が落ちつくのを待つだけだった。 「よくわかったよ、おまえの気持ち」  顔を上げた絢斗にそれだけを言って、今度こそ志は絢斗の前から姿を消した。別れ際の彼の顔は、どこまでも無表情だった。  気温五度の冷え切った夜の中に、絢斗は一人取り残された。  漆黒の闇ばかりが眼前に広がる。見えない誰かに背中を押されて表通りへ出てみたけれど、志は立ち去ったあとだった。  終わった。  池袋駅で出会い、確かに交わったはずの志との時間が。ありがとうも、さようならもないままに。  絢斗はアスファルトにくずおれた。両の瞳から、大粒の涙があふれ出す。 「…………ぁ」  絢斗の口から、かすれた嗚咽(おえつ)が音になってこぼれ落ちた。 「あぁ……ああぁ……っ!」  十二年間、ずっと出すことができなかったはずの声が、絢斗の喉をこれでもかと震わせる。  わめくように、絢斗は声を上げて泣いた。十二年ぶりに聞いた自分の声に驚くこともなく、ただ、去ってしまった最愛の人だけを想って泣いた。  オリオン座が瞬いてもなお真っ黒な夜空に、絢斗の悲痛な叫びが溶けていく。  同じ空の下にいるはずの志に、その声が届くことはなかった。
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