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 絢斗は再びシャープペンを握った。 〈引き留めてしまってごめんなさい〉  彼の顔色を窺いながら、左手首の腕時計を指さす。――時間、大丈夫ですか? 「平気。たいした用じゃないから」  彼は微笑んで返してくれた。 「きみのほうこそ、どこかへ行くつもりでここへ来たんじゃないの? もしくは、誰かに会いに来たとか」  二つめの質問から先に答えた。右の人差し指で自分を差してから、左手の人差し指で漢数字の一を表しつつ、その下に右手で人という文字を書く。 「へぇ、おもしろいな」  彼は興味深そうに両眉を上げた。 「今のはわかるよ。〈一人〉だろ。一と、人」  彼は絢斗の真似をして、〈一人〉の手話をやってみせる。絢斗は右手でオーケーサインを作った。大正解だ。「やった」と彼は嬉しそうに白い歯を見せて笑った。 「こんな時間に、一人でどこへ?」  時は平日、昼の二時である。さすがに手話では伝わらないだろうと、絢斗はノートに行き先を記した。 〈サンシャイン水族館〉 「水族館? 一人で?」  こくりとうなずく。寂しいヤツだと思われるのは不本意だが、事実、絢斗はどんな時でも一人で行動することがほとんどだった。  けれど彼の表情は、一人ぼっちの絢斗を(あわ)れむのではなく、心配しているようだった。 「一人で大丈夫? また発作が起きたりしない?」  たぶん。……いや、わからない。  絢斗は曖昧に首を傾げた。彼の言うとおりだ。また発作が起きないとも限らないし、今日はあきらめたほうがいいかもしれない。  ――ううん、やっぱり。  一時間も電車に揺られ、はるばるここまでやって来たのだ。なんの収穫もなしに帰りたくない。  根拠はないけれど、今日はものすごく調子がいいような気がしていた。きっといいものが書ける。そう思えてならない。
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