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午後九時三十分、志からメッセージが返ってきた。六本木ではなく、新宿で電車を降りろと指示された。
ちょうど二つ先が新宿駅というタイミングだった。もともと新宿で電車を乗り換える予定だったが、絢斗は志の指示に従い、乗ってきた電車を降りて改札を出た。
雪はまだ降り続いていた。新たに届いたメッセージには、駅近くのシティホテルの前に来るようにとあった。
地図アプリに頼りながら、まだまだ人の往来が多い新宿の街を歩く。くだんのホテルへ近づくにつれて人の波は穏やかになり、やがて、エントランスホールから煌々とした明かりの漏れるホテルの前にたどり着いた。
エントランスへと続く扉の前に、十段にも満たない階段がある。モッズコートを羽織った志の立ち姿は、階段の下にすぐに見つけた。
志も絢斗の存在に気づき、目が合う。志の唇が薄く開きかけた時、絢斗は志に向かって駆け出した。
すらりと縦に長いからだ。その胸にまっすぐ飛び込む。背中に両腕を回し、絢斗は志にすがりついた。
「絢斗」
大好きな志のテノールボイスが降ってくる。画面越しではなく、生の声。
感極まった。もう二度と聞けないと覚悟した声が、手の届く場所にある。
志の胸から上がった絢斗の顔は、涙でいっぱいになった。
「…………ぅ」
絢斗の口から、かすかな声がこぼれ落ちる。
「……ぁ、ぅ……ん……んー……」
音にならない息ばかりの声が、だんだんしっかりとした音になっていく。志は一瞬顔色を変えたが、すぐに真剣な表情を取り戻し、絢斗を見つめた。
「ん、んー……、ぅ、ゆ……」
一つ、伝えたい言葉が音になった。
あと少し。もう少しがんばれば、前に進める。
「ゆー、ゆゆ、ゆ……」
「焦らなくていい」
志の右手が、絢斗の左頬を流れる涙をそっと拭った。
「ゆっくりでいいから、一音ずつ、はっきりと口を動かして言ってみて」
学校の先生のような口調で志は言うと、デモンストレーションとして「あ、や、と」と一音ずつ、口の形をやや大きめに作って発音した。
彼の両手が、絢斗の両手を握ってくれる。
母の言葉を思い出す。志はすべてを知ったのだと母は言った。他の誰が敵であっても、志だけは絢斗の味方だと。
志が微笑んでうなずいてくれる。絢斗はもう一度、なによりも一番い伝えたい言葉を口にした。
「……ゆ」
一音ずつ、はっきりと。
「き」
口の形をしっかり作って。
「さん」
ありったけの想いを、頼りない声に乗せて。
「志、さん」
言えた――。
せっかく拭ってもらったのに、絢斗の頬はまた涙でいっぱいになった。
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