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腕時計に目を落とすと、午後六時を回っていた。このマンションは楽器の演奏可能時間が朝八時から夜の十時までと決められていて、今日は午後八時には切り上げてディナーに行こうという話になっている。
淹れたてのコーヒーを持って主寝室に戻ると、志はピアノを離れ、ベッドの端に腰かけていた。表情はさっぱり冴えず、疲れの色をにじませている。
「どうぞ」
白黒の太いボーダーが入ったマグカップを差し出すと、志は力なく「さんきゅ」と言って受け取った。
彼は焦っていた。というのも、この新曲の制作にかけられる時間が、レコーディングまで含めて残り二週間しかないからだ。
志は五月にベルギーで開かれる国際ピアノコンクールにエントリーすることを決めていて、その練習時間を確保するために二月の後半からは歌手活動を休止する。それに合わせてミニアルバム制作を進めねばならず、できれば今日中に仕上げて編曲担当者に投げたいと志は考えているのだった。
「僕は、いいと思いましたよ。さっきの曲調」
Bメロからサビにつながる三、四小節分のメロディーを、志は何度も書き直していた。サビに向かってどう盛り上げるか、曲全体の出来映えに大きく絡んでくる部分だけに、志が慎重になる気持ちは絢斗にも理解できた。
「さっきのって、具体的にどれ」
志はムスッとした表情のままカップを傾ける。「うーん」と絢斗はのんびりとした口調で言った。
「最後の。……いえ、やっぱり最初の、かなぁ」
「どっちやねん」
「志さん、方言」
「あ」
志が慌てて口もとを押さえる。彼は普段、意識的に標準語を話すようにしていて、気を抜いたり、感情が高ぶったりすると出身地である岐阜の言葉が出てしまう。岐阜県の中でも北のほう、滋賀県や福井県に近い地域では関西訛りで話す人が大半を占めるという。志もそのうちの一人だった。
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